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雪降る路傍



 雪は、ロヅメイグではまず見れぬ類の物だ。

 それは最上層付近の者達のみへの天啓である――――からではない。かの積層都市における冬の象徴とは即ち夜霧であり、同時にまとまった雪が降った事など、この数十年無いからだ。故に、灰都で生まれ、長らくそこで過ごしてきたものは、そのちらつく雪を見て自身が故郷より遠く離れてきたことを強く強く実感するのだと云う。

 路銀を稼ぐべく、路傍でナーバルドをかき鳴らしていた隻眼詩人がちらついた氷の結晶を前にしばし演奏の手を止め、興味深そうに鼠色の空を見上げたのも、それと全く似たような理由からであった。

「降ってきたな」ゼウドは宙を見上げたままに呟いた。その鼻先に舞い踊った雪がひらりと乗って、じわりと水へ変じたそれを咄嗟にゼウドは指で拭った。「こいつは、早くどうにかしないと凍えちまうぜ」

「イスギールには、雪夜の中謡い続けた詩人が翌朝氷像となってなお謡い続けた<ヴォロの雪謡い>と云う民話がある」観客達を恐れさせぬよう、距離を取って座り込んでいたグリンザールが呟いた。「お前も今宵御伽噺となるか? ゼウドよ」

「冗談じゃあねえぜ」ゼウドは心底呆れたように云った。「まぁ、このままじゃあ俺ら揃って、骨の芯まで凍てついてしまうだろうけどな!」その表情を捨て鉢な笑顔へと転じて、ゼウドは通行人を呼び込むべく抱えたナーバルドをかき鳴らした。

 だがしかし、彼らの前に立ち止まる者は居ない。雪の冷たさをよく知るこの街の住人は、これより本格的な降雪が始まると理解しており、急ぎ足で帰路へとついていたからだ。それを知らぬ宿無き二人の彷徨いは、飄々としていながらも、僅かながら現状に焦りを感じている。

「しかし、こいつは困ったぞ」暫く無軌道に演奏を続けて、一呼吸置いたゼウドが尋ねた。「グリンザールお前、金はどのくらいあるんだっけか?」

「銀貨一枚」グリンザールは立ち上がりながらに云った。「お前も、俺と同様であったろう」「ああ、ああ、こりゃダメだ」ゼウドは危機感無く笑う。「俺の虎の子も、此度は巣穴に居らぬしなあ」そう言って眼帯を撫ぜる隻眼詩人をよそに、グリンザールはその場を離れようとした。

「おい、どこ行くんだよグリンジ。まさか逃げ出そうってんじゃあないだろうな」「否」疑念たっぷりの詩人に、剣士はすげなく返す。「万一の為、忍び込めそうな厩でも無いか探してくる。路傍で雪に埋もれるよりは、幾分マシだろう」「違いねえ」

 そう言い残して去ってゆくグリンザールを、ゼウドは薄く笑いながらに見送り、それから自身の頭と肩に乗った雪を払った。



 そうして、どれほどナーバルドをかき鳴らしていただろうか。既に指もかじかみ始め、震えを感じてきたゼウドは未だに増えぬ路銀と帰らぬグリンザール、双方に対して苛立ちを感じ始めていた。

 雪も少しずつ勢いを強め、それとは対照的に人通りも疎らになり始めていた。これでは、最早今宵の演奏で手に入る金などどうして期待できようか。ゼウドは飽き飽きするほどに繰り返した通りに頭上の雪を払い、これが最後の一曲と聞くものも無い<漁師フェルバルの涙>をかき鳴らし始める。

 すると、自身の頭上に影が落ち、降り注ぐ雪が一度途切れる。不思議そうにゼウドが頭上を見上げれば、そこには黒く、そして骨が幾つか飛び出した傘を手にした隻腕剣士が佇んでいた。

「おいおい竜の仔、その傘どうした? 随分おんぼろだが、まさかなけなしの金で買ってきたって訳じゃあねえだろうな?」薄く笑いながらゼウドがグリンザールに皮肉を向けると、剣士は詩人の頭上に差し出していた傘をさっと引っ込める。「オイ、傘はそのままにしとけよ。体が冷えて仕方ねえ」

「九つ先の辻の裏に、少々過密気味の良い厩が在った。運が悪ければ馬に潰されて死ぬだろうが、凍え死ぬよりはマシだろう。行くぞ」グリンザールは笑うゼウドに取り合わず、淡々と自身の捜索の成果を伝えるだけだ。しかしゼウドはその場を立たず。再びナーバルドをかき鳴らし始める。

「まぁ待てよグリンジ。ここで終わらせちゃ歯切れが悪い。せめて、切りの良いとこまで付き合えよ」それだけ言って、ゼウドは曲の続きを謡い始めた。もはや聞くものも無く、静かに雪だけが降り積もってゆく中で、グリンザールだけが唯一の観客であった。「何の歌だ、これは?」

「『嘗て小さな港町、ラッシェンワルドにて運命に引き裂かれた男女あり。男は漁師。ある嵐の夜、酒場で愚弄され、意地になりて海に向かいし男の網に、それはそれは美しい女がかかったそうな』」「ありがちな話だ」夢中になって歌うゼウドに、探求の中でその類の話を数多知るグリンザールはつまらなそうに云った。しかしゼウドが語り止める事は無い。

 普段の陰鬱で取り止めの無いそれとは違う、どこか温もりを感じる音色にグリンザールは空を見上げた。その間にもゼウドは一人詩を紡ぎ続けてゆく。

「『女は美しく、しかしその美しさと衣服以外の全てを失いし彷徨い人。何処から来たかも忘却せし女を男は匿い、甲斐甲斐しく世話を続けた。当然、二人が恋に堕ちるのにそう時間はかからなかった。踊り子としての才を見せ、男の助けとならんとする女に、男もこれまでに無き漁の腕を見せ応え続ける』」踊り子、と云った所に僅かばかりの感慨を込めながら、ゼウドは謡い続ける。

「『そうして穏やかな日々がしばらく続いたあくる日、またしても嵐がラッシェンワルドに訪れた。ギイギイと揺れる小屋の中で、身を寄せ合い朝を待つ二人。そこに、望まれざる来訪者が現れる』」「それってどんなお人?」「そりゃあ、所謂ありうべからざる――――ん?」ゼウドが顔を上げれば、そこには幾重にも厚手の服を纏った少女がしゃがみこんで詩の続きを催促していた。

「ああ……いや、そうだな……『そこに現れたのは女の家族でありました。女は実はどこかの国のお姫様で、その仲の良さを認められた二人は、あー、仲睦まじく暮らしましたとさ。めでたしめでたし』」「わぁ、よかったねぇ」「ああ、いい話だ」その無垢な視線に負けたか、明らかに話の内容を差し替えたゼウドとそれに気づかず小さく拍手する少女に、グリンザールは何とも言えぬ視線を向けるのだった。

「よし、グリンジ終わったぜ。さっさと行こうや。凍えちまったよ」「ああ」ナーバルドを左肩に背負い込み立ち上がったゼウドに首肯して、グリンザールも外套を改めて深々と羽織る。「おじちゃんとお兄ちゃん、遠くの人? もっとお歌、聞きたいなぁ」

 それを一瞥して、しかし足を止めぬグリンザールに対してゼウドは足を止めてしゃがみこみ、にこやかに笑ってその頭を撫でた。「悪いなあ、お兄ちゃんたち、今日はもう行っちまうんだ。またそのうち機会もあるだろうから、その時は銅貨握って見に来てくれよ」「うん、わかった! じゃあ今日はこれ、銅貨の代わり!」

 そう言って、少女が手提げ袋から差し出した何かの揚げ物をゼウドは受け取り、また笑ってその頭を撫ぜる。それに少女は猫めいてくすぐったそうに眼を細めた。「じゃあお嬢ちゃん、あんたもさっさと帰りな。お母さんがあったかいスープ作って待ってるぜ」「うん!」

 にこやかに頷く少女の頭をポンポンと軽く叩いてゼウドは帰らせると、彼は立ち上がり少し先でこちらを待ち続けるグリンザールの元へと走り寄った。「グリンジよぉ、もうちょい待ってくれても良かったんじゃあないかね」「知るか。早く切り上げればよかっただろうに」「ハッ! お前、詩人にそれを云うか?」

 肩を竦めてゼウドが咎めると、グリンザールはそれがどうでもいいと云わんばかりに踵を返した。「これ以上積もる前に行くぞ。これ以上は、本当に凍えかねん」「分かった分かった。さぁて、藁と馬で出来た暖かい寝床が雪中行く二人を待っているのでありました、っと」そう云って、グリンザールと共に歩き出したゼウドは、少女から貰った揚げ物を一口齧り、まだ熱の残るそれに舌鼓を打つのだった。


<了>

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