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彷徨い、帰着の朝食


「なぁグリンジぃ、お前どう思う?」「何がだ?」「今の給仕。いい尻してたよなあ」冷水で喉を潤したかと思えば、キッチンへと帰ってゆく若い給仕の後姿を指差して宣うゼウドに、疲労困憊のグリンザールはどんよりとした顔で溜息をついた。

 此度の依頼も、また碌な物では無かった。グリンザールは天井を見上げた顔を掌で覆い、如何に己が呪わしき定めに縛られているかを思案した。紆余曲折の奔走、遺跡での狂人たちとの小競り合い、そして、禍々しき魔法の残滓……。更にはこれでもかと言わんばかりの信仰の徒による襲撃だ。昏き<神秘>と幾度となく相対し、それら全てを殺害せんと邁進してきた己でさえも、こうも立て続けとなれば如何せん気が滅入ってしまう。

 ……いや、それは正確ではなかろう。狂人共の体を分かつ瞬間、剣を振るう歓喜が確かにあった。神秘の徒の首を断った瞬間、魔法を殺す歓喜が、確かにあった。ただそれと同時に、肉体の疲労が重くのしかかるのを感じるのは、贅沢な悩みと果たして云えるのだろうか。それを語れるものは、黄昏の荒野にも幾人とおるまい。

 ザールニールよりロヅメイグへの道中、体が些か以上に空腹を訴えている事を二人は早々に自覚していた。しかし恐るべき<三襤褸>からの逃走劇の中で、その欲求を癒してくれるはずの食糧は馬に括った荷から零れ落ちてしまい、二人は戦傷と疲労と空腹を抱えたまま、朝方のロヅメイグへと這う這うの体で辿り付いたのだ。何時だか生死の境を彷徨った剣士を詩人が背負ってきた時よりはマシだと言える状態であったが、それは十分に満身創痍と云える有り様で、二人はエニアリスの待つ灰都第七図書館へ向かうのを一旦諦め、ひとまず、眼についた食事処に滑り込んだのだった。

 上層の、地上に近い一部を除き、灰都の夜じみた闇が照らされることは無い。陽の恵みを直に受ける事が出来るのは、一握りの持つ者だけと相場が決まっている。持たざる者は? 灰都から去るものがまた一握り、それを甘受するものが大半だ。朝だと云うのに、否、朝だからこそ、街路には寒々とした夜霧が今だにちらつく。

 見よ。分厚い白闇の帳より現れ出た馬車を駆る御者など、如何なる大男かと慄かれんほどに、幾重にも外套を着込んでいるではないか。

 その中でこのような、温もりに満ちた場所でただ食事が運ばれて来るのを座して待つことが出来るのは、彼らにとって久方ぶりの、修羅場の外の平穏と共に手にした幸運であった。暖炉からほど近い窓際の席に腰を落ち着けた二人は、それぞれの料理を注文した後、酷使した肉体を労わるように、穏やかな時間の流れに身を任せている。呪われし運命を歩む者らには些か相応しくないひと時であった。

 朝方のこの時間、この店に彼ら以外の客は無い。ロヅメイグに長らく住む者の多くは昼夜の概念を忘れて久しいが、それでも住人の多くが朝起きて夜眠る生活を続けている。この商国イトでは物資の流通はとても重要な要素であり、それが故にこの積層都市にも多くの他所者が日々出入りしているからだ。彼ら外からの来訪者達は多くの場合ロヅメイグの商い人によっての上客であり、故に多くの商いが彼らの生活に店の開業時間などを合わせていた。

 故にロヅメイグに住まう者達は、彼ら商い人の店を利用するためにも上っ面だけは外の者と同様朝の刻に目覚め、丑三つの刻にはとうに夢に沈んでいる、そう言った生活を送っている。当然、真に昼夜の概念を忘れ去り、永い夜を生きる者も居るには居るのだろうが、そう云った者は押しなべてロヅメイグにおける『下の下』、地の底、真なる坩堝たる極低階層に集っており、今二人が居るような地上近くでそういった者を見るのはまったく稀な事であった。

「なぁグリンジよぉ」「……何だ?」しばらく、どこからか取りだした知恵の輪を眼前で弄り回していたゼウドは、思い出したようにグリンザールに声を掛けた。それに対してグリンザールは渋々と云った様子で、窓の外にやっていた視線を戻す。「何でこの店、朝だからって酒を置いてなかったんだろうなあ。彷徨いに優しくねえとは思わんかね?」ゼウドは分かたれた知恵の輪を机の上に放り出して、さぞ不思議そうに云った。

「イトでは酒は多くの場合、夜の食事と共に供されるものだ。それに、これから仕事だと云うのに、道中で酔ってから向かおうとする者はそう多くあるまい……まあ、一口二口、セード酒あたりを嗜む者くらいは居るだろうが」グリンザールは興味なさげに椅子の背もたれに大きく寄りかかり、その隻腕たる右腕で顎をさすった。「詰まる所、朝には酒が売れんからだろうな。恐らくどこへ行っても似たようなものだろう」

「朝も昼もありゃしねえと思うがなあ、このロヅメイグに限っちゃ」ゼウドはそうつまらなそうに云って、知恵の輪をまた繋げ直したが、耳聡く後方からの足音を捉えたか、早々にそれを懐にしまい込んだ。と同時に、先ほどの給仕が湯気の立った二皿のスープと、何切れかのバゲットが乗せられた皿を机の上へ並べてゆく。

「ハッハー! 待ってました!」昨晩眠ることが出来なかった故か、あるいは単純に空腹に耐えかねていた為か、ゼウドは意味もなく大げさに手を叩いてその到着を喜んだ。朝方ゆえ客は彼らしか居なかったが、その声にグリンザールは大きく眉を顰め、驚いたように目を丸くしていた給仕は困ったように笑うのだった。



 ゼウドは遠慮する給仕に些か多めの銅貨を握らせて帰らせると、その後姿をじっくり堪能して、ようやくバゲットに手を伸ばす。一方グリンザールは淡々とスープを啜り、バゲットを齧り、そのバゲットをスープに浸しと早足気味にそれを食していた。

「滲みる。腹の底に」そんなグリンザールとは対照的に、ゼウドは玉葱をベースにしたと思わしきスープの香りと、荒いバゲットの麦を口の中で丹念に味わう。今し方まで温められていたスープは暖炉の熱とは対照的に、内から詩人の躰に熱を与えた。あっさりとした琥珀色の玉葱のうまみの中に、僅かに沈んだコショウの辛味のアクセント。それは寒さに震えた体に対しては何にも勝る特効薬であり、事実ゼウドはほう、と満足げな溜息を吐いた。

「なあ竜の仔。このスープ、何処のもんか知っているかね?」「いや」ゼウドの問いに、グリンザールは顔を上げる事も無く答えた。「久しく食っていなかった味ではある」「へえ」「ずいぶん昔だがな。ラーグニタッドで似たようなスープを食った覚えがあったな」

「ラーグニタッドねぇ、俺も行った事ねえな。どんな所なんだ?」「呪われた地だ」グリンザールはその物言いとは裏腹に、らしくなく懐かしそうに眼を細めた。「<黒き地>程ではないがな」

「ミゴルドと比べちゃあいかんだろ」ゼウドはコップに並々注がれていた水を一度口にした。「あそこがどんなトコかってのはガキだって知ってる。例え行った事が無かろうとな」

 グリンザールは無関心にスープに沈んでいた鶏肉をバゲットに乗せて、それを頬張り、時間をかけて咀嚼して飲む込む。「その食い方いいな。うまいかよ?」「食い応えはある」「そいつは大事だな!」ゼウドはけらけらと笑って、グリンザールがやったように鶏肉を一切れ乗せて、美味そうにバゲットを頬張った。

「いや、いや、美味い。んだが、餓えた俺には、ちと塩気が足りんらしい。グリンジ、塩取ってくれ」云ってゼウドは塩の瓶を指差す。その塩の瓶はグリンザールの左手側に置かれていた。スープを啜っていたグリンザールは、面倒そうにスプーンを置いて右手を伸ばす。

 だがそれに先んじてゼウドは席を立ち、グリンザールに先んじて塩の瓶を掠め取っていた。「ああ、悪ぃ、自分で取れたわ」ゼウドがバツの悪そうな顔をして云い、グリンザールは不機嫌にゼウドを睨みつける。「自分で取れるのならば最初からそうしろ。手間をかけさせるな」グリンザールは不躾に言う。ゼウドはそれを見て一瞬『文字通りにか?』とその胸中で思いはしたが、それを口に出すような無粋な真似をする事は終ぞなかった。



 それから二人は、無言で只管に食事を貪った。と、言ってもその実出された食事の殆どを平らげたのはゼウドであり、それに比すればグリンザールの食事量など微々たる物であったと云えるだろう。単純に腹が減っていた、という問題ではなく、個人の資質の問題だ。

 畢竟、ゼウドは所謂<痩せの大食い>であった。それだけだ。

「うっし、そろそろ行くか。エニアリスの首も、竜めいて伸びちまってるに違いねえ」「賛成だ」腹をさするゼウドを待ちかねていたようにグリンザールは云った。「奴を余り待たせると碌な事にはならん。時間が経てばなおさらだ」彼らが店の戸を潜ってから既に一時間以上が立っており、小休止と言うには少しばかりじっくりと腰を落ち着けてしまっていた。

 ゼウドは少し疲れたような顔で笑って、背負い籠を手にしたグリンザールを見る。「アイツ、少しがめつすぎやしねえかって俺は思ってるんだが、お前どうだ?」「否定は出来んな」グリンザールは溜息を一つつく。「此度の仕事に見合った金貨が支払われるかも、俺は怪しい所だと思っている」「云うなよグリンジ。行く気が失せちまうだろ」「行かねばタダ働きだ。それは困る」「そうなんだよなあ」云ってゼウドも大きなため息をついた。

 彼らは最後にそれぞれの水を一息に飲み干して、グリンザールが自身の懐から銀貨を一枚放りゼウドがそれを掴み取る。ゼウドがその銀貨を検めている間にグリンザールが机に備えてあった鈴を鳴らすと、調理場から給仕が顔を出して、ぱたぱたと彼らの机に駆け寄ってきた。

「どうされましたか?」「会計を」短く言ったグリンザールに応じて、給仕は一度奥へと引っ込んで行った。ゼウドは懐から銀貨と銅貨を幾枚か取り出して、持っていたグリンザールの銀貨をそこに加える。二人の食事量から見れば適正な配分であった。

「お待たせしました」「これで足りるかい?」戻ってきた給仕に、ゼウドは手に持った幾枚もの硬貨を手渡す。難しそうな顔で給仕が銀貨と銅貨を仕分けていくのを、ゼウドは楽しそうに眺めていた。

 しばらくして、給仕は困ったように笑いながら、数枚の銅貨をゼウドに差し出して来る。「この分は余計ですのでお返しします。片方が五十二年の銀貨なら、ふたつで十分ですよ」「いや、そっちは君に」「はい?」ゼウドは余りの銅貨を差し出す給仕の手にそっと自身の手を重ねた。

「アー、我らが出会いはルトゥナの楽譜、人の愛ははカンテラの様に。暖炉のひとよ、そなたは陽の様に暖かく。朽ちた焼炉の俺は、君の温もりをもう少し感じて――痛っ! おいグリンジ何すんだよ!」ゼウドは後ろに立つグリンザールを非難がましく睨みつけた。

「そんな事をしている場合か? 無駄に時間を使えば奴に難癖をつけられるのは明らかだろう」自身の肩を手刀で軽く叩いたグリンザールに云われてなお、ゼウドは口をへの字に曲げて不服であると主張する。「なあ竜の仔ぉ。お前には分からないかもしれんが、美人ってのは旧詩にも劣らぬ、貴重な財産なんだぜ? 声を掛けずに居れるかよ」

「そんな事俺が知るか」グリンザールはゼウドの横をすり抜けながら苛立って云った。「女を口説きたいのであればまた後でやれ。仕事を終えてから独りでな」「くそっ、分からん奴め」ゼウドは毒づいて一度思案し、悲しそうに肩を落とした。だがその実諦めきれてはいなかったようで、戸を潜るグリンザールを尻目に給仕の耳元へと顔を寄せて囁いた。「君さえ良ければ今宵獅子の刻、第七図書館の正門前で」

 云って彼女から離れたゼウドは微笑んで、短くナーバルドをかき鳴らした。給仕は顔を赤らめながらそれを見て、困ったように笑っている。ゼウドはその眼の奥の感情を覗き込もうとして、自身の他者の心底を見抜く詩人の眼が女のそれに限って見通せぬことを、心中残念に思った。

 だが、そこで足を止めている時間は無く。一度給仕に向けて小さく手を振ると、既に外に出たグリンザールを追うように、ゼウドは急ぎ足で店を後にするのだった。




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