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リアリティ番組はリアルではない
世間での話題をかっさらっているリアリティ番組というジャンルの番組。
ひねくれている僕は、昔からこの手の番組が嫌いだ。
僕は、こういった番組は、リアリティを追求するための、ある程度の編集なり演出なりがなされているはずなのに、まるでそうではないかのように制作されていることに違和感を感じていた。
そして、視聴者の多くもまた、画面の向こうの情景のすべてが現実に起こった真実だと信じて、それを微塵も疑っていないように見受けられる。
要するに、“リアリティ(現実味)” であって “リアル(現実そのもの)” ではないという、言葉の綾を使ったような番組であるのに、視聴者がそこに何の疑問も持たないという点に、僕は気味の悪さというものを強く感じるのだ。
「ほんとうにあった怖い話」なんかも、同じ理由で好きになれない。
「確かに “ほんとうにあった” ことなのかもしれないが、ドラマ自体は視聴者がより怖がるように演出されたフィクションだろ」と思ってしまい、冷めてしまうのだ。
そうやって、制作側の意図と視聴者側の印象がバッティングし過ぎていること、そして、それに何の疑問も持たない人が多すぎるという事に、僕は気味の悪さを感じてしまうのである。
今回起こってしまった悲しい出来事は、誹謗中傷を行った人たちを含めた視聴者たちに、そういうリテラシー能力がなかったことも、大きな要因の1つだと僕は思う。
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おそらく、最初からフィクションであることを考慮した上でその番組を観るのと、それを考慮に入れずに観るのとでは、視聴者が受け取る印象は全く違うはずだ。
“台本がない” とうたわれている以上、その視点から観るのが適切だとは思う。
それに、そうやって楽しんでいることを悪い事だとは全く思わない。
しかし、“台本がない” ことと “演出がない” ことは同義ではないと考えるべきではないのか。
リアリティ番組のなかには、確かにリアルがあるのかもしれない。
だけど、全てがリアルではないと考えるべきではないのか。
そういう疑問を拭い去ることができないままで、純粋な気持ちで番組を楽しむことは、僕にはどうしても出来なかった。
あの手の番組の欠点は、番組を通して感じた印象そのものが、出演者たちの個性や人格の全てだと錯覚してしまう点にあると思う。
どんな人間にも、良いところと悪いところがあって当然だ。
しかし、制作側によって、そういう二面性が過剰に映されたり映されなかったりすることで、視聴者たちが持つ出演者への印象は操作されてしまう。
画面の向こうに映るそれだけを観て出演者たちそれぞれに、視聴者が勝手にレッテル貼りをする。
そして、それから逸れるような行動・言動に対して過剰に反応する。
そういう構図が形成されていたところに、リテラシー能力の低さを強く感じる。
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今回の一件では、言葉が持つ力の強さばかりが取り上げられているような感がある。
それも間違いではない。
特に、文字による感情表現は、読み手の心情・印象に大きく左右されてしまう。
だから、不用意に強い表現を使うべきではない。
しかし、誹謗中傷だとかいう以前に、そもそも視聴者の、番組に対する思慮が足りていなかったのではないかと思わざるを得ない。
誹謗中傷をした視聴者のみならず、多くの視聴者が、番組で垣間見えた出演者たちの一面のみをその人の全てだと勘違いし、好き勝手に発言していたことを忘れてはいけない。
誹謗中傷が悪であることに、何の異論もない。
だが、それだけを批判の対象にすることは、明らかに的を外していると僕は思う。
誹謗中傷は引き金となったに過ぎない。
この悲しい出来事が起きた責任は、画面に映る姿だけに囚われ、その人たちの本質に目を向けることを忘れた全ての視聴者にあると、僕はそう思う。