第一章 「真空管ラジオの音色」
祖父の家の縁側に、一台のラジオがあった。
濃い茶色の木目が美しい箱型のラジオは、いつも同じ場所にあって、まるでその家の家族の一員のようだった。夏の夕暮れ時、蝉の声が遠のき始めると、祖父はゆっくりとした手つきでスイッチを入れる。カチッという小気味よい手応えと共に、真空管特有の温かみのある橙色の明かりが、ダイヤルの裏側からぼんやりと浮かび上がった。
電源を入れてからしばらくの間、ラジオは沈黙している。真空管が温まるのを待っているのだと、祖父から教わった。その待ち時間が、どこか儀式のように感じられた。
やがて、スピーカーから微かなサーというノイズが聞こえ始める。祖父は分厚いダイヤルをゆっくりと回し始めた。ダイヤルには心地よい重さがあって、回すたびにカタカタという小さな音を立てた。チューニングの感覚は繊細で、少しでも回しすぎると目的の放送局を通り過ぎてしまう。
「このへんじゃな」
祖父の声は、いつも小さかった。ダイヤルの横にある選局メーターの針が揺れる。そこから聞こえてくる音楽や声は、どこか温かみがあった。現代のデジタル機器から流れる音とは違う、独特の色合いを持っていた。まるで音にも木目があるような、そんな感覚だった。
「昔はの、この辺りの周波数を探すんが楽しみじゃった」
祖父は時々、ラジオにまつわる思い出を語ってくれた。終戦後まもない頃、ラジオは貴重な情報源であり、娯楽だった。夜中になると遠く離れた都市の放送が聴こえてくることがある。そんな時は、家族全員で耳を澄ませて聴いたという。
「もう、みんな新しいラジオに替えてしもうたがの。けど、この音が好きでな」
祖父は新製品のトランジスタラジオも持っていた。小さくて便利だと、母が勧めていたらしい。でも祖父は、縁側で過ごす時間には、いつもこの真空管ラジオを選んだ。「昔の物を大切にする」それは、祖父の信念でもあった。
ラジオ本体は、使うたびに温かくなっていく。真空管が発する熱が、木製の筐体を通して伝わってくるのだ。夏の夜は少し暑いけれど、それもまた心地よかった。
祖父は時々、ラジオの背面のカバーを外して、中を見せてくれた。オレンジ色に光る真空管たちは、まるで小さな街の明かりのようだった。「このな、一番右の球が調子悪うなると、音が歪んでくるんじゃ」と教えてくれた。
そう、このラジオは単なる機械ではなかった。祖父の手の中で、ゆっくりと年を重ねてきた生き物のようだった。スイッチやダイヤルには、長年の使用で磨り減った跡が残っている。それは祖父の思い出の刻印であり、時間の重みそのものだった。
今では、スマートフォンで全国の放送を瞬時に聴くことができる。選局に迷いはなく、音質も完璧だ。でも、あの真空管ラジオにあった温もりは、どこにもない。
祖父が他界して十年になる。遺品整理で見つけたラジオは、今も私の部屋の片隅にある。もう電源は入らないけれど、たまにダイヤルを回してみる。カタカタという懐かしい音と、分厚い手応えは、少しも変わっていない。
あの頃、確かにそこにあった音と温もりの記憶。
真空管ラジオは、私たちの指先に、かつての時間を留めている。
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■ コラム:真空管ラジオについて
真空管(電子管)を使用したラジオは、1920年代から1960年代まで家庭用ラジオの主流でした。トランジスタラジオの登場により徐々に置き換えられていきましたが、その温かみのある音質は今でも愛好家に支持されています。
特徴:
・電源を入れてから音が出るまでウォームアップが必要
・真空管特有の柔らかく温かみのある音質
・大きな木製キャビネット
・チューニングの繊細さ
当時の価格(1950年代):
一般的な卓上型ラジオ:12,000円前後
(当時の大卒初任給が約10,000円)
■ その時代に起きていたこと(1970年代前半)
・1970年:大阪万博開催
・1971年:ドルショック
・1972年:札幌オリンピック
・1973年:オイルショック
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