第10章「ビデオレターの別れ」
玄関を開けると、懐かしい木の香りが漂ってきた。実家特有の、古い床板と畳の匂い。二十五年前、この家を出た時と変わらない空気が、私を出迎えてくれる。
今日も片付けだ。来月には新しい持ち主に引き渡すことになっている。土曜の朝、私は一人、段ボールの山と向き合っていた。
父が他界して四半世紀。母は三年前に施設に入り、この家で過ごすのも、もう限られた日々となっている。
「これは...」
大きな段ボールの底に、見覚えのある黒いケースが沈んでいた。手に取ると、薄れかけた文字が目に入る。父の几帳面な字で「1999年3月」と記されたビデオテープ。
その頃の記憶が、少しずつ蘇ってくる。私が就職で東京に出て、まだ半年も経たない頃だった。突然の電話で父の訃報を聞いた日のこと。慌てて帰省した実家で、父の姿はもうなかった。
「まだ、あんなに元気だったのに」
ビデオテープを手に、私は茫然と立ち尽くした。このテープの存在を、これまで誰も知らなかった。押し入れを探ると、古いビデオデッキが出てきた。ホコリを払い、液晶テレビに接続する。入力を切り替えると、懐かしいノイズの走る画面。
「ガコン」
テープを入れる音が、静かな部屋に響く。かすれた画面が揺れ、そこに父の姿が映し出された。私の記憶より、ずっと若く見える。
「えーと、録画開始...赤いランプが点いてるから、これで大丈夫かな」
父らしい不器用な仕草に、思わず微笑みがこぼれる。画面の向こうで、父は少し咳をしながら椅子に座り直している。窓の外には、まだつぼみの桜が見える。あの頃、庭から見えた桜の木は、今でも変わらず四季を刻んでいる。
「もしこのビデオを見つけた時には、私はもういないと思う」
突然の切り出しに、息が止まった。父の声に、かすかな震えが混じっている。
「医者からは、もう長くないと言われた。家族には伝えたいことがたくさんあるんだが...こうして話していると、何だか言いづらくてね」
そうか。父は一人で、この重い事実を抱えていたのか。
「特に、東京に出たばかりの娘には、心配をかけたくなくて」
画面の中の父は、ちょっと照れくさそうに微笑んだ。初めて就職が決まった時の、父の嬉しそうな顔を思い出す。「東京で頑張れよ」。それが、父との最後の会話になるなんて。
「このビデオカメラはね、職場の後輩に借りたんだ。デジタルってやつもあるって言うんだが、私にはこっちの方が扱いやすくてね」
父は立ち上がり、本棚から古いアルバムを取り出した。その仕草さえ、今となっては愛おしい。
「この写真、覚えているかな。幼稚園の発表会の時...」
ページをめくる度に、父は優しく解説を加えていく。運動会で転んだ時のこと。初めて自転車に乗れた日のこと。家族旅行で迷子になりかけた思い出。
「ほら、この写真。お母さんが入院した時、君が毎日病院に通って...」
次第に、私の目が熱くなってきた。父は、こうして一つ一つの思い出を、大切な遺産のように語り継いでいく。
「裏庭の梅の木、今年も良い実をつけそうなんだ」
私は思わず窓の外を見た。今も庭に立つ梅の木。父の言葉に導かれるように、記憶が重なっていく。
梅のジャムを作るのが得意だった母。台所に立つ母の横で、父がヘタを取る手伝いをしている。甘酸っぱい香りが、家中に広がっていた。一瓶だけ特別に作った、砂糖控えめの父専用ジャム。「これぐらいで十分さ」と満足そうに食べる父。
「ところどころ、画面が揺れているかもしれない。このカメラ、操作が難しくてね」
父は再び椅子に座り、少し体を前に乗り出した。その仕草が、何か大切なことを話す時の癖そっくりだった。
「でも不思議なもので、こうして話していると、まるで君とまた話しているような気がするんだ」
私も思わず、画面に向かって頷いていた。今、確かに父と話している。二十五年の時を超えて。
少し間を置いて、父は真っ直ぐにカメラを見つめた。まるで、未来の私の目を見るように。
「これからは、もっと便利な時代になるんだろうね。この古いビデオテープも、いつか見られなくなるかもしれない。でも、声を残せることの素晴らしさは、きっと変わらないと思う」
そして最後に、父は穏やかな笑顔を見せた。普段の父そのままの、少し照れくさそうな優しい表情。
「さようなら。そして、ありがとう」
カメラに手を伸ばす父の姿。そして画面が静止し、青一色の画面に変わる。
自動巻き戻しが始まり、「ウィーン...」という音が部屋に響く。その音に耳を傾けながら、私は青い画面をじっと見つめていた。やがて「ガチャン」という音と共に、テープは最初の位置に戻った。
窓の外では、まだつぼみだった桜が、今は満開の花を咲かせている。父の声が、やさしく残響として耳に残っていた。
もう一度再生ボタンに手を伸ばそうとして、私は気づいた。頬を伝う涙が、ぽたりとビデオデッキの上に落ちていた。デジタル化された世界では、もう二度と出会うことのない、この温かな音と共に。
——
■ コラム:1990年代末のビデオ文化の転換期
1990年代末は、アナログビデオからデジタルビデオへの移行期であり、映像記録の形が大きく変わろうとしていた時代でした。VHSは、誕生から20年を超え、その長い歴史に幕を下ろそうとしていました。
■ VHS機器の普及と衰退
・1970年代:家庭用VHSビデオの登場
・1980年代:一般家庭への普及
・1990年代末:デジタルへの移行開始
・機器の特徴
- 再生時間:標準モードで120分
- 画質:水平解像度約250本
- 自動巻き戻し機能
- トラッキング調整必須
■ デジタルビデオの台頭
・1995年:民生用DV方式の規格制定
・1996年:家庭用DVカメラ発売開始
・特徴
- 画質:水平解像度500本以上
- パソコンでの編集が可能
- テープの劣化なし
- 世代劣化なし
■ その時代に起きていたこと(1999年)
・iモードサービス開始
・DVDプレーヤーの価格が3万円を下回る
・デジカメの出荷台数が急増
・パソコンでの動画編集が一般化
・インターネット常時接続開始
——