白磁のアイアンメイデン 第2話〈2〉
馬車内の壁に備え付けられたはしごを伝い、天井の開き戸から外に出る主従。顔を出した途端に吹き付ける突風。怯まず、彼女たちは馬車の屋根に立ちあがった。
ドレスの裾を風になびかせ、片手を腰に当てながらベアトリスはたたずむ。彼女を迎えたのは、数十の視線、視線、視線。そして下卑た嬌声、怖気を呼ぶ魔獣の咆哮。獲物を狩らんと息巻く魔獣と蜥蜴人間たちの、殺意の圧力が彼女らに迫る。常人ならばその場にいるだけで精神の核を壊されかねないキリング・フィールド。
だが、ベアトリスは怯まない。
「フローレンス」敵を冷たく睨めつけながら、彼女は優しげに語りかけた。「トカゲさんたちはお任せしますわ。どうぞよしなに」【チチチ】
ベアトリスは僅かに後方へ下る。代わりに前に出たフローレンスは、やおらかがむと、屋根についていた持ち手を握り、一気に捻った。
仕掛けが稼働する音。屋根の一部が開く。開口部からせり上がってきたものは、機械仕掛けの極大射撃機構――バリスタ。
バリスタの上部に、細長い直方体の塊をセットする。がちりという音と同時に、長大な矢が装填された。フローレンスはバリスタの強力な弦を軽々しく引き絞り、先頭を疾走るリザードマンに狙いを定める。【チチチ】顔の光点の明滅と同時に矢を、放つ! 狙われたリザードマンと、その後ろを駆けていた別の一騎がまとめて貫かれる。ガチりと音を立て、直方体から次の矢がひとりでに装填される。
引き絞る、狙う、放つ。
左後方のリザードマンが魔獣ともども矢を受け吹き飛ぶ。
再び次の矢が装填される。引き絞る、狙う、放つ。
右後方、綱を握るリザードマンの頭が肉片と化した。
引き絞る、狙う、放つ。引き絞る、狙う、放つ。引き絞る、狙う、放つ。
引き絞る、狙う、放つ。引き絞る、狙う、放つ。引き絞る、狙う、放つ。
引き絞る狙う放つ引き絞る狙う放つ引き絞る狙う放つ引き絞る狙う放つ引き絞る狙う放つ引き絞る狙う、放つ!
機械仕掛けの正確さで放たれた矢は、一射ごとに血肉の華を咲かせながら、一片の慈悲無く亜人の騎兵達を駆逐していく。波濤と見紛うかの如きだった追跡者の一群は、いつしかその数を当初の半数にまで減らしていた。馬車の中からその様子を見たヘリヤの心に安堵の余裕が生じた瞬間。
遥か後方より、それは飛来した。
真っ先に反応したベアトリスが、フローレンスを抱いて横っ飛びに屋根の上に伏せる。その僅かに上を通過した物体が、バリスタを一撃で粉砕した。
馬車を揺らす衝撃と轟音。ベアトリスは飛来したものを目にする。
それは錨(いかり)であった。否、おそらくは先程リザードマンらが使っていた投槍と同じ類のものだ。だが大きさがその比ではない。
錨もどきの備えた鈎(かぎ)はバリスタの残骸、その台座にしっかりと食い込む。結わえ付けられた鋼の鎖が、みしりと音を立て真っ直ぐに張られた。馬車の速度が目に見えて落ちていく。リザードマン達ががじわじわと迫る。
ベアトリスは張られた鎖の向こう、群れの遥か後方に目を凝らした。後方、砂塵を巻く黒い点。否、点にしか見えなかったそれは、すぐにはっきりと姿が認識できる距離まで迫ってきた。
その正体は、他を圧倒する巨大黒獣。瀑布のような足音を響かせ、馬車めがけて一直線に駆けてくる。そして、その黒獣にまたがる一糸まとわぬ巨躯。
ドラゴニュート。”忌み野の竜”の力を受け、竜に絶対の忠誠を誓う恐るべき魔人。主に仇なす愚か者を誅すべく、姿を表したのだ。
「ようやくお越しですのね。それにしても」
ベアトリスは独りごち、バリスタの残骸にちらりと目をやる。
「乱暴なノックだこと」
先だって事を構えた個体よりも二回りほど大きな体を窮屈そうに縮こませ、大黒獣の背に乗るドラゴニュートの手には、錨もどきから伸びた鎖がしっかりと握られていた。ドラゴニュートは満身の力を込め、綱を引く。
「うおっ!?」
ヘリヤが叫ぶ。四輪馬車の前輪が僅かな一瞬、宙に浮いたのだ。大きく速度を落とす馬車。騎乗リザードマンが二体、馬車のすぐ横まで追いついてくる。手にした投槍を構え、窓越しにヘリヤを狙う。目が合う。
一瞬、息を呑んだヘリヤの目の前で、リザードマン達の上半身と下半身が切り飛ばされた。
馬車の側面、飾り窓の下方より飛び出した長柄付きの丸鋸が、唸りを上げて薙ぎ払ったのだ。
『ふむ』御者台に備え付けられた何らかのツマミを操作しながら、アルフレッドが呟く。『久しぶりに作動させましたが、うまく動きましたな。しかし血脂はしつこい汚れ。バリスタもですが、手入れに手間が掛かりそうです』
馬車の左右から飛び出した殺戮装置は、長いアームを威嚇するように振り回す。近寄りがたく思ったか、騎乗リザードマン達の勢いが鈍る。その姿を目にし、不快げな表情を浮かべるドラゴニュート。その目が次に映したのは、両手を大きく広げ、不敵に立つベアトリスの姿であった。
真紅のドレスがするりと体に巻き付き、体を締め付ける戦装束と成る。腰まで伸ばした髪が、一瞬で肩までの長さに縮む。ベアトリスは軽く深く息を吸い、息を吐くと、馬車上を一直線に駆け始めた。馬車とドラゴニュートを繋ぐ鎖、その上にひらり飛び乗ると、ベアトリスの勢いは加速した。目標はドラゴニュート、必殺の一撃を叩き込むべくベアトリスは鎖上を駆ける!
ドラゴニュートは逡巡する。鎖を振り回すなどすれば、こちらに向かうあの女を振り落とすことは叶うだろう。しかしそれでは、馬車に掛けた鈎が外れ、彼奴らをむざむざ逃がすことにはなるまいか? どうすべきか、敵はもはや鎖の半ばまで駆けてきたぞ。
思考を巡らすドラゴニュート。その背を、何者かが軽く叩く。ドラゴニュートは微かに笑みを浮かべると、膂力を込め、鎖をさらに強く引いた。馬車のスピードがさらに落ちる。ドラゴニュートが咆哮を上げた。聞く者の小心を砕くがごとく、”忌み野”の空気を震わす声。
ベアトリスは歯牙にも掛けなかったが、リザードマン達の心胆を寒からしめるには充分であった。このまま手をこまねいていれば、彼らを待っているのは役立たずの烙印を受けた後の「処分」だ。ならば、と丸鋸を恐れていた一群が再び加速する。
「あらあら、張り切っていますわね。ですが」ベアトリスさらに加速しようとする。「わたくしが一撃叩き込むのが先ですわね」
そう口にした瞬間、空気を裂く音が響く。
ベアトリスめがけて鋭利な刃が飛んできたのだ。すんでのところで上体をひねり躱す。しかしバランスを崩し鎖から足を踏み外す。落下寸前のベアトリスの目に入ったのは、ドラゴニュートの背の後ろ、その死角から伸びてきた異常な長さの腕、その腕が突き出す奇妙に歪んだ刃のナイフだった。
ベアトリスの体がほぼ真横に倒れこむ。そのまま落下かと見えたそのとき、ベアトリスは鎖を蹴って真横に跳んだ。跳んだ先には黒獣に騎乗するリザードマンが一体。その顔面に蹴りを一撃。リザードマンはぐげ、という断末魔を残し吹き飛んだ。その反動で跳び、鎖に復帰する。
着地したベアトリスの目の前、同じ鎖上に、ドラゴニュートの背中から飛び出した何者かが着地した。鱗状の肌、暗緑色の長い髪。縦に細い瞳孔は黄色く濁り、爬虫類を、竜を思わせる。ボロ布で隠れたその体は、女性らしい曲線を描いていた。
それはもう一体の、新たなドラゴニュート。先程の刃を右手に構え、しいい、と蛇めいた呼気を吐く。
「まあ」
ベアトリスが鎖上で構えをとった。
「女性もいらっしゃったのですね。意外には思いませんが」
女ドラゴニュートを見据えながら、言葉を続ける。
「先程の一撃はあなたですわね。腕を自在に伸ばせる、といったところでしょうか?」
ドラゴニュートは答えない。
「お答えいただけませんか――仕方ありませんわね」
前に突き出した左手が、挑発的に手招きをする。
「不意打ちを見事かわされた気分はいかがかしら。もう一度恥をおかきになりたければ、構いませんからお続けになってみては?」
女ドラゴニュートはやはり何も答えない。代わりに冷笑らしきものを浮かべると、ベアトリスめがけ鎖上を駆け出した。呼応するかのごとく、ベアトリスも駆け出す。間合いは至近。先手を取ったのは女ドラゴニュート。右手、逆手に持ち換えた短剣を横薙ぎに払う。体勢を低くして躱す、その頭上紙一重の空間を刃が切り裂いた。そのまま懐に入ろうとするベアトリスを、女ドラゴニュートの右膝が鋭く迎え撃つ。
一瞬で躱せぬことを悟ったベアトリスは、膝が直撃する寸前ガードをねじ込む。衝撃。ベアトリスの体が後方に弾き飛ばされた。離れる間合い、仕切り直しかと思われた瞬間、再び腕を伸ばしての刺突が襲いくる。体を捻って躱すベアトリス。二度、三度、四度、遠距離からの刺突が襲い来る。捌き、躱し、捌く。
鋼鉄の鎖、狭い足場の上、ヒールの踵から細やかな火花を散らしながら令嬢は舞う。五度目の刺突を躱したベアトリスは、再び敵の懐に潜り込まんと体を伏せた。伸ばした腕の戻りに合わせ爆ぜるように飛び出す。女竜人もいち早く反応、再び迎え撃つ毒針の如き膝。すわ先程の二の舞かと思われた刹那、ベアトリスの姿が女ドラゴニュートの視界から消えた。
「!?」「上だ!」後方からの怒号に反応した女ドラゴニュートが上方に目を遣る。彼方まで抜けるような蒼空、白磁の肌と真紅の戦装束の淑女が映る。ベアトリスはそのまま全身を縦回転、勢いの付いた両足を上空から女ドラゴニュートの頭上に叩き込む! 薫風(クン・フー)が脚技、鳴鳥狩(ないとがり)。咄嗟に十字交差した腕で受ける竜人。その顔が耐えきれぬ苦悶に歪む。
空気を切り裂くような声で叫んだ女ドラゴニュートは、膂力でベアトリスを弾き飛ばす。伸ばした腕を鞭のようにしならせ、その間合い外より斬撃を繰り出していく。手刀で弾き防ぐベアトリス。続けて二撃、三撃、四、五、六、七撃、次第に勢いを増す斬撃はもはや目で追うことなど敵わぬ速度に達し、迂闊に近づいたものを細切れの肉片に変える旋風と化す。空気が弾ける音が響く。腕の先端が、音の速さを超えているのだ。
斬撃を両手で捌くベアトリス。だがもはや捌ききれぬのか、防御をかいくぐった斬撃が彼女の戦装束に届き始めた。無様に切り刻まれる獲物を想像したか、女ドラゴニュートの目に喜悦の色が浮かぶ。
ベアトリスは嵐を捌きながら呼気を整える。
軽く深く息を吸い、息を吐く。
【続く】
そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ