正しき食の使者 #AKBDC2024
「赤い……虎?」
バーに入ってきた男を一瞥したマスターは、我知らずそうつぶやく。自分が発した言葉に驚き、マスターは慌てて男の顔を見直す。見知らぬ顔であったが、それは確かに人であった。真紅のスーツに身を包み、ゆっくりとした足取りでこちらへと近づいてくる。ただそれだけで店の空気が張り詰めたものへと変わる。喧騒が静まる。客の誰もが、入ってきた男にそれとなく視線を向ける。
空気。そう、彼が身にまとう空気が、男を虎だと錯覚させたのだ。
マスターは飲まれそうになる自分に活を入れ、表面上は平静を保つ。彼が信奉する哲学、その一つにこうある――誰が相手でも気圧されてはならない。
「ご注文は?」
マスターは静かな口調で男に問いかける。
「……」
男は応えない。
「……お客さん、ウチはバーだよ。酒の一つも注文しないで、そうやって突っ立ってるつもりなのかい?」
男は応えない。
5秒、10秒、時だけが過ぎていく。
マスターが密かに唾を飲み込む。
「……炒飯」
「な!?」
「あるんだろう? 炒飯。いや、炒飯もどきが」
男はスーツの懐から一枚の名刺を取り出し、マスターに向かって投げる。慌てて受け取ったマスターの目に、中華字体で記された男の名が飛び込んでくる――「護食使 akuzume」。
「ご、護食使……!」
「そうだ」
一気に青ざめるマスターに対し、akuzumeという名の男は顔色一つ変えない。マスターの目を覗き込むように見るのみだった。
「おい、兄さん」
客の一人がakuzumeの隣に座り、声をかける。
「ずいぶん剣呑じゃねえか。ここはみんなが一杯やりながら、美味いもん食ったり楽しくおしゃべりしたりわいわいゲームしたりするためのお店だぜ」
男の言葉に、店にいた客たちが下卑た笑いを浮かべる。
「一見客のあんたにはちと難しいかもしれねえが、この店には守られるべきルールってやつがあるのさ……それがわからねえでごたごた抜かすあんたは、いわゆる迷惑なお客サマってやつだぜ。だから早いところ」
言葉と同時に抜かれた銃が、akuzumeのこめかみに当てられた。
「失せな」
「そういうわけにはいかない」
akuzumeは、やはり顔色一つ変えずに答える。
「この店が炒飯もどき……ベチャベチャのそれを客に提供していることはわかっている。護食使として、誤った食を見逃すわけにはいかない」
akuzumeが視線だけを男に向けた。それだけで、男は銃口を向けられたような心地になる。トリガーに掛けた指がかすかに動いた。
「無論、お前たち客も誰一人見逃すつもりはない。全員がこの店の炒飯もどき目当てだということはわかっている」
淡々と語るakuzume。その気勢は静かな湖面のようであった。
反して店内は、針の一突きで弾け飛ぶような緊張感に満ちていた。
「さきほどお前が言ったことと同じだ。食には食の、守られるべきルール、正しき食というものがある。おれの仕事は、それを守らせることだ……さて、注文が聞こえていなかったようだからもう一度だけ言おう」
akuzumeは視線を再びマスターに向けた。底知れぬ深淵を思わせる目であった。
「炒飯もどきを、出せ」
男が言葉と同時に発した“殺気”は、その場にいた男たちに行動を起こさせるのに余りあるものだった。客たちは思い思いの得物を取り出し、マスターはショットガンを手にし、そしてakuzumeの隣の男は突きつけていた銃のトリガーを弾いた。
そしてakuzume以外の全員が、すぐさま店の床に這いつくばらされた。
何が起こった。そう言おうとしたマスターは、己の口の中に大きな違和感を覚えた。口に指を突っ込み、違和感の元を掻き出した。
口の中から出てきたのは爆発したように膨れ上がったコーン……ポップコーンだった。
「え?」
マスターは慌てて立ち上がる。目の前には座ったままのakuzume。店中の男たちが、口にポップコーンを詰められて倒れている。
「い、一体なにが」
呆然とするマスターの目をじっと見据えながら、akuzumeは手を己の顔の前まであげた。軽く広げた指と指の間に、コーンの粒が挟まれていた。
まさか。そのコーンを一瞬でこの場全員の口に投げ込み、そのまま爆発させ、その衝撃で全員ぶったおしちまったってのか。
護食使。想像を絶する修練の果てに超人的な身体能力と仙道にすら通ずる特殊能力を得るに至った、正しき食の番人。
マスターの全身に寒気が走る。
「正しき……食。なんなんだよそりゃ。ベチャベチャの炒飯の何が正しくないってんだ」
「そうだマスター。この世に『正しき食』なぞ存在しない」
入り口の扉が開き、一人の男が現れた。
全身が白かった。白い肌、白い髪、白い上下のスーツ。靴も白かった。ただその瞳だけが、警告灯のように赤く光っていた。
「ア、アレグロさん!」
「困っているようだなマスター。手を貸してやろう」
「あ、ありがたい……だけどアレグロさん、実は」
「ああ、心配するな。今回はロハ、無料でやってやろう。相手が相手だからな」
アレグロと呼ばれた男はそう言って舌なめずりをした。ドス黒い血のような色の舌だった。
「申し遅れたな。私はこう言うものだ」
アレグロがそう言って投げた名刺は、一振りのナイフのようにカウンターに刺さった。名刺に記された文字を、akuzumeは読み上げる。
「秘密結社SDGs幹部、アレグロ・スタッカート」
言葉に合わせて、アレグロは慇懃に礼をしてみせる。それが闘争開始の合図だった。
礼をし終えた瞬間、アレグロが投げナイフを放つ。人が一度に投げられる本数を明らかに逸脱した量のナイフが、座ったままのakuzumeに襲いかかる。akuzumeは手を振るう。コーンの粒が飛翔する。空中でコーンとナイフが衝突する。爆発。一気に膨らんだコーンがナイフを弾き飛ばしていく。
「シッ!」
鋭い気合と共に踏み込んだアレグロが、ハンティングナイフをakuzumeに突き出す。akuzumeが視界から消えた。
「見えているぞ!」
アレグロは頭上にナイフを放つ。いつの間にか宙を舞っていたakuzumeの急所に複数のナイフが迫る。akuzumeは空中で体を捻り、間一髪のところでそれらを避けた。そのまま着地し、追撃のハンティングナイフを避けるように後方へと飛び退く。
マスターは数秒の間に行われたこれらの攻防を、口を開けて見守るしかなかった。仕方のないことだった。一流同士の闘争は常人の計り知れぬ境地にあるのだ。
「近接戦闘は、苦手か?」
アレグロが口角を上げながら問う。
akuzumeは答えない。
「それこそが貴様らの欠点だ、護食使。貴様らは唯一の正解とやらに拘ることしかできぬ、カビの生えた骨董品だ」
アレグロが少しずつ間合いを詰める。
akuzumeは動かない。
「だが時代は変わった。今や世界は、多様性こそを最上の価値観とするのだ。つまり我ら、全世界同時多様性推進機関、秘密結社SDGzこそが正しいのだ!」
一瞬、アレグロの体がぼやけたようにマスターには見えた。
「え?」
アレグロが増えた。いや、あまりにも高速で動いているために、残像が発生しているのだ。東洋の忍者と、同様の理屈である。
akuzumeがコーンを放つ。アレグロに命中したかに見えたコーンは、すり抜けて背後の椅子を打ち砕く。
「無駄だ」
何人ものアレグロが、一斉に嘲笑を浮かべた。
「終わりだ護食使。時代遅れの哀れな道化師め。正しき食とやらと共に滅びるがいい」
無数のアレグロが、一斉にakuzumeに襲いかかる。akuzumeは全てを躱しきれない。彼の赤いスーツに、しだいに切れ目が入る。
「無駄だと言っていよう! そのスーツの赤、今まで貴様が殺めてきた敵の返り血の色と見た! それを今度は、貴様自身の血で染め直してやろう!」
「吻、覇アーーーーーーーーーーーッ!」
万物を吹き飛ばさんとする勢いでakuzumeが吼え、その場で高速回転を始める。
「無駄なあがきを!」
構わず突撃したアレグロの顔面が、横合いから張り飛ばされた。アレグロは店の壁まで吹き飛び、勢いで壁にめり込んでしまう。
「な」
何だ、なにに殴られたんだ。奴の拳や蹴りの届く間合いではなかったはずだ。そこまで思考して、アレグロは攻撃を受けた右の頬に触れた。ヌメヌメとした液体が付着していた。
「これは、まさか、そんな」
アレグロは油断なく残心するakuzumeを見る。彼が手にした物を見る。
「イ、鰻……それはまさか、鰻なのか!? あの幻の……!」
akuzumeは答えない。代わりに手にした長くぬめりけのある魚類をヌンチャクのように振り回してみせた。
アレグロは壁から身をはがし、床に降り立つ。途端に膝が崩れ、床にへたり込む。
「お、おのれ」
アレグロは震える膝に活を入れ立ち上がる。その姿は、あたかも死期の近づいた老人のように見えた。鰻の一撃をカウンター気味に打ち込まれたのである。立つこと自体が奇跡的なことであり、アレグロという男の力量を表すものだった。
「俺は接近戦を苦手とはしない」
akuzumeは嵐のように鰻を振り回す。風を切る音に、鰻色の悲鳴が混ざり始める。鰻が発する悲鳴だ。ひどく耳障りな音に、マスターは顔をしかめ耳をふさぐ。
「こいつはとっておきだ。威力が高すぎて、相手を細切れの屑肉にしかねない――あんたほどの強者相手でなければ、軽々しく使えるものではないんだ」
「……だからなんだ? それを聞かせたから、私が喜ぶとでも?」
「あんたがどう受け止めるかは、俺にとってはどうでもいいことだ」
アレグロの視界が歪み始める。限界が近いのだ。だが、彼の中に降伏や逃走といった選択肢は存在していなかった。護食使、時代の流れに逆行する、食のファシストめ。
「……まだ戦う気か」
「当たり前だ。誰が貴様などに」
「戦うだけが道ではない。これしかないと思い込み突っ走ることは、多様性の精神に反するのではないか」
「だ……黙れ!」
アレグロがakuzumeに襲いかかる。akuzumeの言葉が火をつけたのか、アレグロの動きは鰻による一撃を喰らう前に近いものとなっていた。アレグロが振るうナイフを、akuzumeは鰻で迎撃する。二人の戦士の間に、小規模の嵐が産み落とされた。
「護食使、護食使め! 貴様らさえいなければ……!」
破裂音。
アレグロの体が傾く。彼の右足は、膝から下が消失していた。
「ご」
それだけを口にして、アレグロの意識は闇に吸い込まれた。
「さて」
床に倒れたまま動かなくなったアレグロを一瞥すると、akuzumeはマスターに向き直った。
「ひっ!」
「落ち着いたところで、改めて注文させてもらえるか。炒飯、いや、炒飯もどきをもらえるだろうか?」
深淵のような目が、再びマスターの顔を覗き込んだ。
「あ、あ、いや、ええと、その、す、済まない! あんたのご希望の炒飯、いやもどきだったか? そいつはもうないんだ!」
「ほう? 今日は食べられないということか?」
「い!? いや、あの、じ、実は! うちのメニューから、その他炒飯、もどき? だったか、そいつは消えちまった、なくなっちまったんだハハハ」
「それで?」
「今日も、明日も、この先もずっと、うちじゃあ普通の、パラパラっとした『正しい』炒飯しか出さないってことになった、なっちまったんだ! いやあ、すまねえな! ご、ご期待に添えなくて!」
akuzumeは笑った。肉食獣が獲物を狙うが如き笑みだった。
「期待どおりだ。では、またいずれ寄らせてもらおう」
そう言って、akuzumeは店を後にした。その後姿を見ながら、マスターはスマホに手をかけ検索を始めた――「炒飯をパラパラに仕上げる方法」を。
「鰻屋 めひ古」という店が、かつてあった。
店主はその筋では日本一との評判も高い男だった。店の最盛期には、一国の宰相ですら店主の腕前を堪能しに来店するほどであった。
だが、今その店に掲げられた看板には「タピオカ屋 めひ古」と記されていた。
店の終焉は、ある日突然訪れた。それは環境省による公式発表によってもたらされたのである。
店主は、今でもその時のことを覚えている。忘れられようもなかった。それはある意味、己に向けられた死刑宣告も同様のものだったからだ。
店内で流していたTVの中で、あの日、環境省の役人だとかいう男が悲痛な声でこう発表していた――本日を持って、鰻の絶滅が確定したことを正式にお知らせいたします。鰻は、この世からいなくなってしまったのです。
店主の判断は早かった。翌日には「鰻屋 めひ古」を畳み、3日後には今の「タピオカ屋 めひ古」を開業していた。なぜそうしたのかは、店主本人にもよくわかっていなかった。彼の性格上、死んだも同然の店にいつまでもしがみつくということに耐えられなかったのかも知れなかった。
以来「めひ古」の店主は、タピオカ屋として生きてきた。以前の客層よりも遥かに若い連中を相手に、以前と変わらぬ仏頂面を浮かべながら。
店の扉が開いた。
「いらっしゃい……なんだ、あんたか」
店に入ってきたakuzumeを見て、店主は面白くもなさそうにそう告げた。
「なにしに来たんだ」
「これを、頼みたい」
そう言ってakuzumeが掲げたものを見て、店主は鼻を鳴らした。
「鰻か」
「そうだ」
akuzumeが鰻を軽く振ると、鰻の身に細かな切れ目が入った。切れ目はみるみるうちに広がり、やがて包丁でさばいたかのように鰻の身が切り開かれた。
「こいつはまた、ずいぶんやばいやつとやり合ったみたいじゃねえか」
「ああ、恐るべき相手だった」
店主は開かれた鰻を受け取り、その身をまじまじと眺めた。
「上物も上物だ。こんなに質の良いうなぎは、あのときですらなかなかお目にかかれなかったてえのに。どこでこんなのを手に入れた……って聞いても教えてくれねえんだろ、いつもみてえにな」
店主の言葉にakuzumeは黙ってうなずくと、空いていた席に腰を下ろした。
「……よっしゃ! おい、今日はこれで店じまいだ! タピオカ目当てのお客さん方は悪いがとっとと帰ってくれねえか!」
店内に数人いた客を全て追い出してしまうと、店主は「貸し切り」の札を扉に掲げた。
「さあて、ちょっとだけ待ってなakuzumeの旦那、いま最高のやつを仕上げてやるからよ!」
店主の威勢のいい言葉にうなずきながらakuzumeは目を閉じ、今日の激闘を、アレグロという男の言葉を思い返す。
『貴様らは唯一の正解とやらに拘ることしかできぬ、カビの生えた骨董品だ』
akuzumeの顔に、皮肉な笑みが浮かぶ。なんとでも罵るがいい。正しき食とはすなわち正しき文化――数千年の時を経て磨き続けられた、先人たちの意志と願いとの象徴だ。決して歪めては、ましてや滅ぼしてはならぬ。
だが。akuzumeの顔から笑みが消える。疑問に思うことがないわけでもない。はたして自分の、自分たち護食使がやっていることは「正しき」行いなのか。今日相手にした男は、護食使を目の敵にしている様子だった。詳細は無論わからない。だが、あの男をああまで激昂させるようななにかがあったに違いない。
akuzumeは息を吐いた。これ以上考えたとして、それはどこまでいっても無意味な想像でしかない。護食使は己自身のことを決して語ろうとしない。過去になにがあったのか、それを知るすべはもはやないのだから。
「待たせたな」
akuzumeの前に、芸術品のような鰻重が運ばれてきた。
akuzumeはやはり黙ってうなずくと、割り箸を手にした。これほどまでの鰻重を前にしたとき、言葉は余計だった。
【完】
そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ