少女と犬とサキの世界 #風景画杯
冷たいと温かいを鼻先に感じながら、あなたは目を覚ました。目の前にいたのは、黒と茶色のもこもこ。柴犬だ。
「おはよう、スン」
柴犬はその声に元気よく答え、さっそくあなたの顔を舐め回しにかかる。あなたは苦笑いしながら体を起こし、大きく伸びをした。夏特有の蒸し暑さとともに、かすかなかすかな潮の香りが鼻に届く。あなたはにんまりと笑った。雨のひどかった昨日は良くわからなかったが、そのにおいはあなたたちが確かに目的地へと近づいている証拠だ。
あなたは満足げに数度うなずき、リュックから缶詰を二つ取り出した。プルタブに苦戦しながら缶を開ける。一つをスンと呼ばれた柴犬の前に置くと、スンは勢いよく中身を食べ始めた。あなたはそれを嬉しそうに眺め、両手を合わせ小さく「いただきます」とつぶやくと、もう一つの缶の中身を口に放り込み始める。
朝ごはんを食べ終わると、あなたは地図を取りだし、目的地までの道のりを確認する。とはいえ、地図も漢字もろくに読めないあなたは、大きな道だとか線路だとか、山だとか森だとか川だとか、それらしきものしかわからない。そもそも見ている地図が縮尺の大きいものなので、どちらにしろ目的地までの細かい道のりはわからなかったのだが。あなたにわかっていたのは、目的地が海の近くにある、ということだけだ。だからあなたはこの3日間ほど、海を目指して歩いてきたのだった。あなたは、わかっているのかわかっていないのか、よくわからない感じに何度かうなずいて、ホームのベンチから立ち上がった。リュックを背負い、水筒を肩からかけ、青い帽子をしっかりとかぶる。準備完了だ。
あなたは線路の上に降り立つと、そのまま歩き始める。その後ろをスンがおとなしくついていく。
とたんに蝉の声があなたたちを包み込む。前からも後ろからも、右からも左からも、そして頭の上からも。夏空にみっちりと詰め込まれているような鳴き声を聞きながら、あなたは歩いていく。青い空。白い入道雲。線路ぞいに咲きほこるヒマワリたち。照りつける日差しは暴力的なほどだ。あなたには、ヒマワリもこの暑さに耐えきれず、すっかりしょげてしまっているように見えてくる。一斉に下を向くヒマワリの群れに囲まれていると、なんだか恨めしそうな目で見つめられているような気がしてくる。
「わたしのせいじゃないのにね」
あなたがスンに語りかけると、スンはわんと一声吠えて、体をあなたの足にこすりつけてきた。あなたはとてもくすぐったくて、きゃいきゃいと笑ってしまう。やがてあなたとスンは、線路がゆるやかなカーブを描いているところにたどり着いた。あなたの記憶と地図が確かならば、このまま線路を歩き続けると、海とはまったく反対の方向にいってしまうはずだった。
「スン、海はたしか、こっちのほうだったよね」
あなたからそう呼びかけられたスンは、一つわんと吠え、あなたのまわりをくるくると回り始めた。とても楽しそうな様子だけれど、あなたの問いかけに答えてくれたわけではない。あなたは少し困ってしまったが、あなたの周りをかけまわるスンがあんまりにも楽しそうだったので、思わずスンとおいかけっこを始めてしまった。ぐるぐるぐるぐる、あなたとスンは回る回る。そのうちあなたは目を回してしまい、ころんと地面に転がってしまった。かけよってきたスンがあなたの顔をなめ回し始める。あなたは楽しそうに手足をばたつかせる。そんなあなたたちを、数え切れないほどのヒマワリが静かに見下ろしている。
しばらくそうやって寝転がっていたあなただったが、突然に跳ね起きた。
「あつい!」
あなたは水筒を手に取り、蓋を開け、中の液体を一気に喉に流し込んだ。
「……ぬるい」
あなたはブツブツと文句を言いながら、水筒を肩からかけ直し、また歩き出す。線路脇のフェンスに都合よく穴が空いていたので、そこから抜け出した。
「スン、わたしはあっちが正しい道だと思うんだ」
スンは、わんと答えた。あなたはうなずき、「あっち」にむけて歩き出した。蝉の鳴き声はあいかわらず、あなたたちを押しつぶさんばかりに響いている。
やがてあなたたちは街に出る。ママとよく買い物に来ていた街だ。もう少し歩けば、ママお気に入りの小さなケーキ屋さんが見えてくるはずだ(もちろんあなたもお気に入りのお店だった。そこのモンブランは「この世のものとは思えない味」だったから)。
ケーキ、ケーキ、ケーキ! そうだ、もう少し待てば美味しいケーキが食べられたはずだったのだ。それどころか、ずっとずっと欲しかったゲーム機まで手に入ったはずだったのに。あなたはそれを手に入れるために、この一ヶ月ほど、これ以上ないぐらい良い子として過ごしていた。だから一週間ほど前に、お手紙が届いたのだ。『あなたはとても良い子ですね。ご褒美に、あなたが欲しい物をプレゼントします』。そう書いてあるお手紙を読んで、あなたは喜びのあまり自作の喜びダンスを踊ったものだった(ママがダンスを褒めてくれたのがまた嬉しくて、あなたは疲れ果てて眠くなるまで踊り続けてしまった)。
そのママは、3日前にあなたに何も言わずいなくなってしまった。
目が覚めてそのことに気づいたあなたは、涙を流しそうになった。だが、あなたは泣くのをなんとかこらえた。すぐ泣く子は、良い子ではないからだ。せっかくのがんばりを、ここで無かったことにするわけにはいかなかった。泣く代わりにあなたは、こんなときどうしたらいいかを一生懸命考えてみた。考えて考えて、やがて、一つの言葉にたどり着いた。
「きんきゅうじだい」。
お兄ちゃんに教えてもらった言葉だ。なんでも、いつもと違う「とんでもないこと」が起こっているのを、大人はそんなふうに言うらしかった。ついでにもうひとつ思い出した。もし、その「きんきゅうじだい」になったときは、海の近くのおばあちゃんの家に家族みんなで行くことになっているのだそうだ。これはママが言っていた。そのママも、お兄ちゃんもいなくなった(パパはずっと前からいなくなっていた)。つまり、これは「きんきゅうじだい」に違いないのだ。
そんなわけで、あなたは海を、その近くにあるはずのおばあちゃんの家を目指して歩き続けている。ママもお兄ちゃんも、きっとそこにいるに違いない、もしかしたらパパも、なんてことを思いながら。だけどおどろくべきことに、いなくなってしまったのはママやお兄ちゃんだけではなかった。お友達も、近所のおじさんやおばさんも、お店の人たちも、みんなみんな、誰も彼もいなくなっていた。いなくならなかったのは、あなたとスンだけだ。一人と一匹。他はゼロ。これはもう、まちがいなく「きんきゅうじだい」だ。
それにしても、だ。あなたは「あーあ」と声に出して、ちらりと横を見る。一面ガラス張りのお店(当然誰もいなかった)の前に、小太りのお爺さんの人形が派手な赤い服を着て突っ立っていた。みんな大好き、子供たちの味方。でも、照りつける太陽の下、道端にまでうじゃうじゃと生えているヒマワリに囲まれて立つその姿は、なんだかとてもへんちくりんに見えた。まったくもう。あなたはくちびるをとがらせる。
まあ、でも仕方ないか。あなたはそう思い直した。なにせ今は「きんきゅうじだい」だ。そんなときにクリスマスプレゼントをねだるのは、きっと良い子ではないに違いない。
「しかたないね」
あなたはスンに話しかけた。スンはいつものように、わんと返事をした。
あなたは歩く。どんどん歩く。スンがその後をついていく。歩いて、食べて、寝て、起きて、歩いて、食べて、寝て、起きて、また歩く。そうやって何日か歩き続けると、いつしかビルやお店屋さんは少なくなっていき、かわりに林や田んぼやガソリンスタンドが増えてくる。セミが鳴き声を積み重ね、ヒマワリが我が物顔に咲き誇る。
「……どうしよう」
あるき続けた果て、そんなあなたたちの前に、高い高い、どこまでも続いているような坂道が現れた。それは峠道の入り口であったのだが、あなたにはそんなことはわからない。ただ、どんなに頭をうしろに反らしてもてっぺんが見えないその坂を前にして、あなたは大人だったら「途方に暮れる」と表現するだろう、そんな気持ちにおそわれた。
海は間違いなく、この道の先にある(少なくとも、あなたはそう思っている)おばあちゃん家にたどり着くためには、なんとしてもこの坂を越えなければならないのだ。あなたは地図を取り出し眺めてみた。近くにもう一本道があるようだが、ものすごく遠回りをする道のようだ(あなたにはそう見えた)。
「スン、どうしよっか」
スンはわんと吠えると、坂道を駆け上がった。驚くあなたをそこに残してしばらく走り続けると、突然ぴたりと足を止め、あなたの方を振り向き、またわんと吠えた。
「……行くしかない、ってことかあ」
あなたは右腕をぐるぐる回し、ふんと鼻から息を吐いて歩き始めた。力強く手を振り、足を踏みしめながら。
登る、登る、あなたは登る。途中で何度も立ち止まる。だがそのたびにまた歩き出す。日差しは青い帽子越しにあなたの頭を焼き、リュックや水筒のひもがあなたの体を痛めつける。それでもあなたは登り続ける。セミの鳴き声が山に満ち、ヒマワリはありとあらゆるところに咲いている。あなたは登る。日差し。セミ、ヒマワリ。日差し。セミ、ヒマワリ。あなたは歩く。日差し。セミ、ヒマワリ。日差し。セミ、ヒマワリ。あなたの頭はぐるぐるしてくる。日差し。セミ、ヒマワリ。ぐるぐる。日差し。セミ、ヒマワリ。ぐるぐる。目の前が回る。日差し。セミ、ヒマワリ。ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。
気がついたときには、あなたは倒れていた。ぐるぐる。目の前が回る。
そのぐるぐるで、あなたはサキお姉ちゃんを思い出す。
サキお姉ちゃんは隣に住んでいた大人の女の人だ。あなたが家のお庭で遊んでいるとき、声をかけてきてくれたり、一緒に遊んでくれたりしたのでいつのまにか仲良しになったのだ。大人なのに働いていないのは不思議だったが、いつだったか、そのことを聞くとサキお姉ちゃんは「そうだよ。大人なのに働いていないんだ。すごいだろ」といって笑った。あなたは、サキお姉ちゃんのそんな笑顔が大好きだったことを思い出す。ぐるぐる。
サキお姉ちゃんはいつも、ボサボサの髪をいじくりながらタバコを吸っていた。あんまり毎日毎日、何本も吸っているものだから、一度「そんなにおいしいの」と聞いてみた。そうしたらサキお姉ちゃんは笑って、「クソマズイ」と答えた。じゃあなんで吸ってるの、と続けて聞くと、サキお姉ちゃんは「大人には、タバコでも吸わないとどうしようもないとき、ってのがあるの」と答えてくれた。ぐるぐる。その時もサキお姉ちゃんは笑顔だった。だけど、それはあなたが好きないつもの笑顔ではなかった。むしろ嫌いだ、怖い、と思ってしまって、そんな自分にびっくりしてしまった。ぐるぐる。
同じ人の笑顔なのに、どうして好きと嫌いがあるのだろう。あなたはどうしてか考えてみたが、全くわからなかったのでママに相談してみた。そうしたらママは「大人になったらわかるわ。だから今はわからなくていいのよ」と言った。そのときのママも、サキお姉ちゃんと同じような、でもちょっと違うような、そんな笑顔だった気がする。ちょっと嫌だった。ぐるぐる。
あなたはそのまま、サキお姉ちゃんと最後にお話したときのことを思い出す。ぐるぐる。みんながいなくなる前の日ぐらいだった。昼過ぎに降ってきた雪があんまりすごかったもので、あなたはスンと一緒にお庭を走りまわり転がりまわっていた。ぐるぐる。そうしたら、いつのまにかサキお姉ちゃんが立っていて、あなたたちをじっと眺めていたのだ。ぐるぐる。サキお姉ちゃんはじっと黙って立っていたので、あなたはしばらく彼女がいるとわからなかった。ぐるぐる。そのうち、よく知ったタバコのニオイがしてきたので、あなたはサキお姉ちゃんに気がついた。
サキお姉ちゃんとあなたの目があった。
サキお姉ちゃんは急にしゃがみこんだ。膝を両手で抱え、じっとうつむいている。粉雪が舞い散る中、そのままじっと動かない。心配になって、あなたは声をかける。
お姉ちゃん、だいじょうぶ? 寒いの? どこか痛いの?
……あんた、楽しい?
サキお姉ちゃんが、うつむいたまま問いかけてくる。
え?
楽しいかって、聞いてんの。
うん! すごい楽しい! お姉ちゃんも遊ぼう!
本当に、楽しい? 雪は好き?
うん? うん! 雪大好き!
そう。
サキお姉ちゃんはそのまま黙ってしまう。あなたは、サキお姉ちゃんの顔をのぞき込もうとする。
サキお姉ちゃんが顔を上げた。
あたしは嫌い。大嫌い。嫌いなものなんていらない。なくなってしまえばいい。なにもかも。消えてしまえ。好きなものだけあればいい。消えろ、消えちまえバーカ。
そう言ったサキお姉ちゃんの顔は、ひどく歪んで、顔中がぐるぐると、ぐるぐるとしているように見えて。ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。
わん。
スンの声に、あなたは我に返った。サキお姉ちゃんは、いつの間にかいなくなっていた。
その日の夜、お隣の家に救急車が来た。赤いランプがぐるぐると回っていた。
そして次の日の朝、みんなみんな、いなくなってしまっていた。
わん。わん。わん。
冷たいと温かいを鼻先に感じながら、あなたは目を覚ました。目の前にいたのは、黒と茶色のもこもこ。柴犬だ。
「おはよう、スン」
柴犬はその声に元気よく答え、さっそくあなたの顔を舐め回しにかかる。あなたは苦笑いしながら体を起こし、大きく伸びをした。どうやらいつのまにか寝てしまっていたらしい。のどがひどく乾いていたので、あなたは水筒の中身を喉に流し込む。ぬるい。
セミの声があなたの体を叩く。たくさんのヒマワリがあなたを見下してくる。
あなたは頭を振って、周りを見回した。ここは長い長い坂の途中。どうやら疲れすぎて倒れ、そのまま眠ってしまっていたらしい。実のところ、かなり危ない状態だったのだが、あなたにはそんなことはわからなかった。あなたは上のほうに目をこらす。てっぺんは見えなかった。道はどこまでも続いていて、そのまま空の上へと歩いて行けそうに思えた。あなたはほんの少し涙を流しそうになったが、がんばってこらえてみせた。良い子は泣かない。泣いてはいけない。
あなたは歩き出した。そのあとをスンがついていく。抜けるような青空の下、あなたたちはいつまでも、どこまでも登っていく。
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そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ