日本における「通貨の信認」について
通貨の信認とは
「国の借金」に関する議論などで「通貨の信認」という言葉を聞くことがあります。
どういうものがいまいちよく分からないので「通貨の信認」について調べてみると、Wikipediaに以下の記載があります。
今の日本では基本的に偽札は出回ってなく、買い物をする時に相手が円を受け取ってくれないことはないので交換手段としての問題はないと思います。また基本的に銀行が倒産することはなく、倒産したとしてもある程度預金は保護される仕組みになっていて、預金の引き出しにもきちんと応じてもらえるので価値貯蔵手段としての問題もないと思います。また日本では色んなものの価値を円で測るのが当たり前になっていますので価値尺度手段としての問題もないと思います。
そして今後これらの機能が果たされなくなるのではないかと疑っている人はまずいないと思います。
つまり今の日本には通貨の信認があることになります。
財政破綻論者の言う通貨の信認とは
そして「国の借金」に関する議論などでは「国の借金が増え続けると通貨の信認を失ってものすごいインフレになって社会が大混乱する」といった感じのことが言われます。
しかし日本はデフォルトがあり得ませんので、「国の借金」が増えることとWikipediaで説明されている「通貨の信認」とは関係がないと思います。なので、これとは別の意味で「通貨の信認」という言葉を使っているものと思います。
色々考えたところ、結局定義もよく分からないし理屈もよく分からないのですが、とにかく以下のような状態が彼らにとって「通貨の信認がある状態」となるのではないかと思いました。
大体いつも通りの価格でいつも通りの商品が売ってあり、「ある日突然急激に価格が変動するかもしれない」などとは誰も思ってないような状態
要するに、彼らの言う通貨の信認とは物価の安定性に左右されるもの、となると思います。間違ってるかもしれませんが、この解釈を正しいものと仮定して、彼らの言う「通貨の信認」について色々と思うところを述べていきます。
需要と供給のバランスが取れていれば物価は安定し、即ち通貨の信認がある
物価は様々なモノやサービスの価格から算出されます。そしてモノやサービスの価格は基本的に需要と供給のバランスが変わることで変動します。つまり、需要と供給のバランスが取れていれば物価は安定することになり、即ち通貨の信認があることになります。
なので、「私たちが普段通りに働いてモノやサービスを生産し、そして普段通りの消費生活を送っていれば、需要と供給のバランスが保たれて物価は安定するので通貨の信認が失われることはない。通貨の信認とはこの程度のもの」と考えておくのがいいと思います。
もし通貨の信認を、「私たちの手の届かないどこか遠くにあって、国の借金を増やし続けていると神様が怒って取り上げてしまい、その結果経済が大混乱する」とか、「知らないうちにいつの間にか少しずつ失われていき、気が付いた時にはもう手遅れで、ハイパーインフレになって社会が滅茶苦茶になる」というようなものだと考えていたら、それは間違いだということになります。
すでに織り込み済みの過去を持ち出してきて騒ぎ立てるのはバカげている
政府が新しく発行する国債を日銀が直接購入する「財政ファイナンス」をしたり、国債発行残高が増え続けたり、債務対GDP比が高くなり続けたりすると通貨の信認を失って大変なことになる、といった言説がありますが、いずれも根本から間違っていると思います。なぜならこれらは需要と供給のバランスに影響しないからです。
財政ファイナンスするかどうかは政府の資金調達方法の違いであって需要と供給に関係ありません。国債発行残高は過去の積み重ねの結果であり、債務対GDP比も過去の積み重ねが元になっています。デフォルトがあり得ない日本において国債発行残高や債務対GDP比は過去に過ぎません。
もし「過去に過ぎない」ということが納得いかない場合、国債発行残高が0円の時に政府が100兆円支出した場合と、国債発行残高が1000兆円の時に100兆円支出した場合とで、需要と供給に与える影響が違うのかどうかを考えてみれば、多分納得いくと思います。
当たり前のことですが、過去があって現在があります。国債発行残高がこれだけ積み上がって、債務対GDP比がこれだけ高くなって、その結果として現在の需要と供給のバランスがあるわけです。すでに織り込み済みの過去を持ち出してきて騒ぎ立てるのはバカげてます。
たとえば、「あなたが生まれてから今までに飲んだお茶の量を合計するとこんなにありますよ」と示されれば、普通なら「へー、そうなんだ」で終わります。それを「こんなにあるのか!これからもお茶を飲み続けていればきっと大変なことが起きるに違いない。これからは出来るだけお茶を飲まないようにしなければ」などと恐がったら人から笑われます。「お茶の量」ではなく「歩いた距離」や「使ったお金の額」や「睡眠時間」や「起きてた時間」などでも同じです。いかにバカげた話であるかが分かるかと思います。
財政ファイナンスをしようが、国債発行残高がどれだけ増えようが、債務対GDP比がどれだけ高くなろうが、需要と供給のバランスが取れていれば物価は安定し、即ち通貨の信認があるわけです。
上記以外にも、「あれをすれば通貨の信認を失う」とか「こうなると通貨の信認を失う」とか色んなパターンがあるかと思いますが、需要と供給のバランスに影響しないのであれば、これらの言説も根本的に間違っていることになります。
なぜお金に価値があるのか
ここまで述べてきて思ったことは、「国債発行残高が増え続ければいつか通貨の信認を失って大変なことになる」といった主張をしている人は、「みんながお金に価値があると思ってるから価値がある。みんながお金に価値がないと思ったら価値が無くなる。お金の価値とはそういうあやふやなものだ」という考えが根本にあるのではないかということです。
そしてこういう理屈なのではないかとも思いました。「みんながお金に価値があると思っている状態が通貨の信認がある状態で、価値がないと思っている状態が通貨の信認が無い状態。通貨の信認を失うということはお金の価値がなくなることなので、つまりインフレになる」。
とにかく、「人々がお金に価値があると思うかどうかでお金の価値の有無が決まる、と考えているのではないか?」と思う根拠は、全て私の憶測に過ぎませんが以下になります。
何故お金には価値があるのか?既存の経済学はそれを説明できなかった。だから苦し紛れに「みんなが価値があると思ってるから価値がある。みんなが価値がないと思ったら価値がなくなる」と、これで誤魔化してしまった。そして「そもそもなぜみんなが価値があると思うのか?」について説明しなかった。理由は、それを説明すると以下のような循環論法になってしまい、根拠がないことがバレて説得力を失うから。
(1) なぜみんながお金に価値があると思うのか?
(2) お金でモノが買えるから
(3) なぜお金でモノが買えるのか?
(4) みんながお金に価値があると思ってるから →(1)に戻る
人々がどう思うか次第で一瞬にしてお金の価値が無くなってしまう。人々の気持ち次第なので何がきっかけでそうなるか分からない。だからこれまでに経験のないことに対しては理屈抜きに「通貨の信認を失うのではないか」と恐怖し、その感情が邪魔して冷静な思考ができなくなる。だから悪質なデマといってもいいような言説がいくつも生み出され、それが容易に広まってしまう。こういうことではないかと思います。
そして既存の経済学に対してMMT(現代貨幣理論)は以下のように循環論法ではありませんでした。
(1) なぜみんながお金に価値があると思うのか?
(2) 税金を払うことで脱税にならなくて済み、懲罰を免れることができるから
(3) なぜ税金を払うと懲罰を免れるのか?
(4) 政府がそう決めたから
以下はMMTが言及しているかわかりませんが、さらに続けるとこんな感じになると思います。
(5) なぜ政府はそう決めたのか?
(6) そうすることで世の中にお金を行き渡らせることができるから
(7) 政府はなぜ世の中にお金を行き渡らせるのか?
(8) 様々なことを効率的に行えるようになるから
こちらの方がはるかに説得力があります。財政ファイナンスをしたり、国債発行残高が増え続けたり、債務対GDP比が高くなり続けたりして、それが原因で人々が「お金に価値なんてない」と万が一思ったとしても、脱税による懲罰を免れるためにお金を必要とするのでお金の価値が無くなることはないわけです。
ちなみに、人々が自給自足や物々交換の生活をすれば税金を払わずに済んでお金の価値が無くなるかというと、その場合は政府が人頭税をかけるでしょうから結局お金の価値は無くならないと思います。
「通貨の信認」のグラデーションのある使われ方
「通貨の信認」については有るか無いかの0か100かのような使われ方をすることが多いと思いますが、物価が上がったり円安になったりすることに対しても、普通に「物価が上がった」とか「円安になった」とか言えばいいのに、「Xデー(通貨の信認を失う日)が近付いてきている」と印象付けたいのか、わざわざ「通貨の信認」という言葉を持ち出してきて、「通貨の信認が下がってきている」といった感じの、0か100かではないグラデーションのある使われ方をする場合もあるかと思います。
この場合の「通貨の信認」には、「みんなが「円にはこの程度の価値があるはずだ」と思うからそれだけの価値がある」という考えが背景にあることになると思います。しかしこの考えがおかしいことは以下の通り明らかです。
たとえばコロナの時にマスクの値段が急騰しその後また元に戻ったのは、需要と供給のバランスによるものです。人々が「マスクの値段はもっと高いはずだ」と思ったから値上がりし、「もっと安いはずだ」と思ったから元に戻ったわけではありません。
もし人々の思い込みでお金の価値が変わるのであれば、今の日本の物価高対策の正しいあり方は、給付金を配ったり減税をしたりすることではなく、政府が「国民の皆さん、「物価はもっと安いはずだ」と思ってください。そうすれば安くなります」と国民に呼びかけること、となります。また消費税を100%に上げてもみんなが思い込めば物価は上がらないことになります。そんなわけないでしょ、ということです。
「通貨の信認」よりも現実の経済の方がはるかに重要
「人々がどう思うか次第でお金の価値が無くなってしまう」と考えているから、これまでにない事象や考え方やアイデアなどに対してすぐに不安になって、まるで口癖のように「通貨の信認ガー」を連発し、それらを阻止することに躍起になってしまうわけです。
「税があるからお金の価値がある日突然ゼロになることはない」と考えれば、「通貨の信認」をやたらと気にすることも無くなると思います。また「需要と供給のバランスが取れていれば物価は安定し、それは即ち通貨の信認があるということなんだ」と考えれば、「通貨の信認」を重視して現実の経済を蔑ろにする愚かさに気付き、デフォルトがあり得ない日本の「国の借金」などを気にすることもなくなると思います。さらには、お金ではなく需要と供給を中心に経済を考えられるようになると思います。