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いつ大人になったのか、振り返ってみたら。

「一回限りの人生を生きる個人にとって、正午の絶頂から午後の下降を前もって実感を込めて知ることはできない。」

ユング著 鎌田輝男訳「総特集 ユング 人生の転換期」

成人になるよ、という年齢が20歳から18歳になりました。成人がイコール大人、という意味であれば、自分が18歳だったころのことを思い返すと、おとな、というのは自分と紐づけて考えるのは難しい存在だったように思います。

じゃあ大人とは、というのをwikiに聞いてみるとこんな記述がありました。

大人(おとな、乙名[1])とは、
・十分に成長した人[2]成人
・考え方や態度が十分に成熟していること。思慮分別があること[2]
一般に「子供(こども)」という表現と対比されている[注釈 1]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%BA

十分に成長するとは??
考えや態度が十分に成熟するとは???
思慮分別があるとは????

ますます謎は深まります。
ユングは40~50歳ごろを人生の正午、人生の折り返しと表現したと言われています。40にして惑わずとも言うし、この定義を眺めてみると、20歳の倍生きた2回目の40歳ごろが、適切な?成人式なのではないかと思うほどです。

成人式を迎えても、就職して社会人になっても、まだまだ一人前ではなく、職業人としても未熟で、ひよこで、どこかモラトリアムな部分と長く併走していたな、と感じる自分のキャリアを振り返ってみると、「果たして、いつ大人になったのだろう」と思うのです。

私は、自分のことを今「大人」だと感じています。
法律上成人でも、「自分なんてまだまだこどもだな、まだ若いな」と、自信のなさや責任を持つ力のなさ、ふわふわとした気持ち、自分の身体を超えて捉えられる範囲の狭さからまだまだ「子ども」「若い人」であることがしっくりと感じていました。また、自分より大人の人への甘え、ワイドショーなどで報道される大人のみっともなさなどから、意図的に「大人」というものに距離をとってきた部分もある気がします。

なのですが、ここ1~2年くらいで急に、「大人である」ことにしっくりと感じる自分がいます。

そう感じるようになったきっかけや思い当たる変化は、1つや2つではなくたくさんあって、それも徐々に積み重なってきて自分で気づく閾値に達したのかもしれません。

私は10代のころ友達と「大人になんかなりたくない」というような話をしていた記憶があって、それは大人に対する毛嫌いというより社会に対する不信であったのだと思います。

その信頼できないと感じていた社会に、自分なりにどんな態度をとっていくか、そこに不安が少なくなった。そうそう、そうです。社会には魅力も希望もあるし、でもやっぱり不信や不安もあって、その中で私は私自身の人生をどうしていきたいかとか、自分の人生だけではなく社会もこんな方向に進んでほしいなという思い描く青写真に対して、自分がどんなアプローチがしていけるのか、その気持ちの置き方を自分の心の中に見つけられたように思うのです。

形あるものではないし、置き所が悪くなることもあると思うけれど、形がある必要はないし、置きにくくなればまた変えていけばいいと思います。

人間は、「変えていく」ということを心底怖がる生き物だと感じます。私も、口ではこう言って頭では分かっていても、その場面に直面すると形が欲しい、変えたくない、まわりに変わってほしい、などの想いが浮かぶのです。

自分を変えていくことを怖がっていることが目に見えると、それを「みっともない」と私は感じていたのかもしれません。

うわ~今の自分、みっともないわ~と
傷つきつつも笑いながら変わっていける大人でありたいです◎





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かずみ|Mental Health Socialworker
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