映画「ザ・ホエール/THE WHALE」にまつわるとある告解
「ザ・ホエール」良かったなあ。とある気付きを得た。すべて正直に書くというチャーリーのポリシーを信じてみる。感想ではなく、この映画をきっかけとした回顧的なもの。
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少し前に自分が付き合っていた恋人は、自分が同性愛者かアセクシャルか、自分でも分からないアイデンティティに悩んでいることを僕に告げて、お互いの関係を解消した。それが主な理由か、そもそももっと表層で恋人としての感覚が合わなかったからかも、分からない。
私はとても純粋な好意を抱いていたし、彼女に何かを無理強いするような、心中に土足で踏み込むような、そんな行動は一切なかったと当時は思っていた。今思い返してもやはり、例え相手が不快に思うような言動が自分の行いの中にあったとしても、それは一般の良識や親切心の範疇から出るようなものではないと言える。
しかし彼女は拒否した。アイデンティティを曝け出すことや、心の揺らぎを異性の恋人に託してみることを。仮にカミングアウトがあったとして、自分が彼女の望む反応をしてあげられたかは、分からない。だけれど、少なくとも対話はできたはずだ。
突然の一方的な連絡で、しかもテキストで関係を解消せざるを得ない状態になったのでひどく狼狽えたが、僕は僕でそのメッセージを読んですぐさま対話することを諦めた。その瞬間、完全に道が閉ざされたような気持ちになったから。自分はオープンであり寛容であることに自信があったから。すべてを無かったことにさせてください、という僕からのメッセージですべてが終わってしまい、ひどい喪失感に襲われた。
結局その後もやもやしたまま、自分は捨てられたんだよな?いう感覚と、お互いを長く絆すような何かを持てなかったのは自分の責任か?という感覚に悩んでいる。
ホエールを観て、少し自分の中のもつれがほぐれた気がする。僕が寛容であることは、必ずしも相手が「自分は理解されている、受容されている」と思っていることにはつながらない。寛容であることは、ある種盲目であるのと同じだ。都合の悪いことと対峙せず、無条件にすべてを受け入れてしまうのは、盲信と同じだ。相手の心中に燻る悪いなにかを見出したのなら、その火種を摘んで消し去ってしまうことは優しさではなく、それがどういう熱さや痛みなのかを共に感じようとすることが、真に寛容であるということなのかもしれない。
この気付きを得たところでその恋人との関係が再開するわけではないから、何も行動するつもりはない。だけれど、しばらくの間ずっと悩んでいた深い人間関係の構築について、光明が見えた気がする。
自分を嫌悪するから相手のすべてを受け入れられるというのは、チャーリーの生き様とは似て非なるもの。チャーリーも自己嫌悪に苛まれて世間から分断されてしまった人間だが、最期には妻や娘の楽しい思い出や恋人を愛した記憶、自分の半生もすべてを愛そうと決意した。娘への愛を最大限に伝えるために、自分の殻を破り捨てた。ネガティブなことにもすべて向き合った。そうして真に自分に寛容になったからこそ、娘との対話が可能になった。最期を迎えることができた。
自分には心身ともにチャーリーのような壮絶な変化があるわけではないが、エリーについては当時の恋人との共通点があった。非行や親との不仲はなかったはずだが、小さい頃に父親と別れ、自分のアイデンティティも不透明。恋人はそんな女性だった。彼女のクリエイティビティや、ものの考え方がとても聡明に感じられて惹かれた。それもまた、エリーの持つ魅力と同じだ。彼女はどうすればエリーのように心を少しずつ開いてくれたのか。自分はどうすればチャーリーのように自己嫌悪から脱却できたのか。このふたつの要素がもし当時噛み合っていたら、関係性は続き成長していたのだろうとおもう。済んでしまったことを悔やまずに、今回得られたことを糧に、これからの人間関係を少しずつ良いものにしていきたい。
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人を愛すること,その本質を教えてくれる素敵な映画でした。上映中は嗚咽を抑えるのに必死でした。
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