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WOMEN'S MOVIE BREAKFAST @下高井戸シネマ 4作品レビュー

「ウィメンズ・ムービー・ブレックファスト」出版記念の特集上映@下高井戸シネマに参加しました。6月に後追いの公開を控える『エンジェル・アット・マイ・テーブル 2Kレストア版』より先に4作品をすべて鑑賞できたので、以下感想をまとめます。

「ウィメンズ・ムービー・ブレックファスト 女性たちと映画をめぐるガイドブック」
降矢聡+吉田夏生゠編
グッチーズ・フリースクール゠監修
『USムービー・ホットサンド 2010年代アメリカ映画ガイド』を刊行したグッチーズ・フリースクールによる、「女性たちの映画史」をめぐる第2弾書籍企画! 映画史における「女性」、スクリーン上に存在する女性たち、あるいはそのイメージを紡ぎ上げる作り手、映画表現における女性存在をめぐる思考、あるいはその先で映画を広げようとする方々まで、「女性たちの映画史」に向き合うための方法を、この本と共にみつけよう。グッチーズ・フリースクールの降矢聡氏とさまざまな形で映画に携わる吉田夏生氏による、女性たちの映画史へのアプローチを考える、あたらしくたのしいガイドブック、お届けします。

下高井戸シネマHPより

普段からフェミニズムのことを考え、そういった題材の映画には心を奪われがちである。一方でフェミニズムとは女性だけの物語ではないし、女性が出ていればフェミニズム、というわけでももちろんない。
ただただ各世代に存在した貴重な作品の中心で輝く女性たちと一緒に、これらの映画のことを考えてみる。

1. ラブレス(1981)

ウィレム・デフォーの主演デビュー作というだけで大変価値のある作品。他にも共同監督の片方が『ハート・ロッカー』のキャスリン・ビグローだったり、惹きのあるスタッフ構成にはなっているようだ。

半グレバイカー集団が田舎町に襲来し騒動を巻き起こしていく…といったハードボイルドなプロット。なんだけど、前半はとにかくテンポが絶妙で笑ってしまう。ダイナーに到着して一服するウィレム・デフォー、明らかに過剰な量の砂糖をコーヒーに入れて飲み、(やべ終わった…)みたいなモノローグとともに神妙な顔をしている。砂糖入れすぎ。このシーンにめちゃくちゃツボってしまって、後半のシリアスパートで上手く気持ちを切り替えることができなかった。

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それはともかく、アメリカの田舎の閉塞感に囚われた人びとを外部のならず者たちが踏み荒らしていく様子が痛快、かつ救いようのない地域の現状をうまく表している。

テレナもまた町に囚われた女性で、呪縛を打ち破るため出現したバイカーたち、という構図か。『スリー・ビルボード』のような復讐の旅に向かったり、数あるアメリカ映画のようにバイカーたちに乗せられて町から脱出したり、田舎からの逸脱という結末はいくらでも選べたものの、テレナが自殺して終わりなのはアメリカンドリームの実現の裏側を冷酷に描き切っている気がして好きだ。

はたまた、結末は正反対であるものの、『タクシードライバー』のようなハードボイルドなマッチョイズム賛美と、それに対峙する悪を中年オヤジのように描き、そしてオヤジたちに汚される可憐な囚われの少女・・という構図にも見える。スコセッシはその辺りの演出がべらぼうに上手でさすがマフィア映画の雄だが、本作は同じようなハードボイルドを演出しきれず、(もしくは意図的にワナビーっぽくしているのかもしれないが)そのバイカーたちのイキリが妙に愛らしいのだ。

2.ガールフレンド(1978)

真っ先に思い浮かんだのは『ゴーストワールド(2001)』。その数十年前に本作が誕生していたとは驚きだ。

なんとなく70年代の著名な女性監督というとヨーロッパの方を想像してしまう。シャンタル・アケルマンとか、メーサーロシュ・マールタとか。彼女らの描く物語は悲劇的かつ破滅的、そして大きな体制に対しての社会運動という意味での力強さを感じるけど、本作の飾らないシスターフッドの描きかたはとても新鮮だった!

リアルタイムで「生きづらさ」がフィーチャーされることが増え、それが今般の『ゴーストワールド』の再ヒットにも繋がったと分析するわけですが、『ガールフレンド』も含む要素は同じだ。悪漢が登場するわけでも、暴力的な扱いを受けるわけでもない。ただ世間と噛み合わないだけのズレをじりじり感じて生きる。明確に知覚できない程度に社会にうっすらと蔓延するのは、「女性」という不利なカテゴリーだ。声を上げて運動を巻き起こす程度のことではないと、当事者たちすら思っていたのかもしれない。足を掬われ続ける日々の根底に社会のジェンダー意識が蠢くとはつゆ知らず、ただただ腰を据えて生きるしかないのだ。

そういった日常のぬかるみから抜け出すためには、手をとって支え合える友情を育むことが大事だ。この作品はその連帯感を鮮やかにスクリーンに着色して彩ってくれる。この年代に発達した「シスターフッド」という言葉がある。これはフェミニズムから生まれた言葉らしいが、本作のように反抗や蜂起から逸れた文脈で使うのがぴったりだと思う。

ちなみにクローディア・ウェイル監督は本作以降も劇場作品へ積極的に参加することはないようだった。数本撮ってはいるようだが、日本では見られない。そんな中HBO製作のドラマ『GIRLS(2012~2017)』の一話だけ彼女が監督しているエピソードがあるらしい。そして該当のエピソードタイトルはなんと「Boys」だ。見るしかないな。
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それと、4/27(土)上映後の松本侑壬子さんの快活なトークが最高でした。映画を通してフェミニズムを学びたいとおもうのは当事者になれないからこそなのかもしれないけれど、男性のそういう生き方を松本さんが堂々と肯定してくれて、涙が流れた。松本さんのことば、本当に心強くて嬉しかった。

3.青春がいっぱい(1966)

『ブックスマート』のようなドタバタハイスクールガールズコメディ。修道院を舞台にした作品は『ベネデッタ』や『汚れなき祈り』といったエクストリームな作品しか思い出すことができない・・。アイダ・ルピノについてもこの作品で初めて知りました。

それはともかく、この作品のキリスト教的な側面について述べてみたい。

まず大前提として、4/28(日)トークショー@下高井戸シネマでも言及されたように、この作品では人物相関とそのカメラワークが秀逸だということを理解しておきたい。メアリーとレイチェルだけではなく、シスター同士もその友情を描くときの会話シーンでは常にふたりが横並びになる。一方で、メアリーもしくはレイチェルがシスターと会話するシーンでは、机越しの修道院長が顕著だが基本的には対面して切り返しのカットで会話が繋がれる。

以上の前提をもとにここで力説したいのは、メアリーが修道院長を寮の窓から見下ろすシーン。カトリック小説の第一人者ともいえる遠藤周作大先生は「聖母マリアの見下ろす視線は慈愛と抱擁だ(意訳)」と、何冊もの物語でその目線と眼差しについて説いている。実際、人びとはマリア様の前で祈りを捧げる時には跪き、その寛容な赦しの目線を賜ることで素直な悔恨と信仰を誓えるのだ。

そういった聖母マリアへのキリスト教的な敬意をなぞるような、メアリーには聖職者になりうるポテンシャル(つまりマリア様のまなざし)を携えていることを暗示するかのような、修道院長を窓から見下ろすという上下のカメラワーク。ただの高校生活ではなく、修道院の寄宿生ということが大いに人物の心情に影響を及ぼすことを考えると、このキリスト教的な切り取り方までも緻密に計算されていて本当にうっとりする。

それだけではない。エンディングでは、かつて生徒同士・シスター同士が横並びになってその連帯感を表していたのと同じように、メアリーと修道院長が肩を並べて列車を見送るのだ。メアリーとレイチェルのライフステージが変化し、レイチェルは外の世界へ飛び出し、そしてメアリーが次に関係性を育むのは修道院の仲間たちなんだ、という未来を予測させるエンディング。最高か!

4 .天使の復讐(1981)

いや~~、ゲラゲラ笑ってしまった。公園のシーンは本当にコメディとして100点すぎる。何だよヌンチャクって。ナンパするでもレイプするでもないただの戦闘要員が混じってるんだよな。

他にもジョン・カーペンター『ゼイリブ』で観る者を困惑させた長すぎる殴り合いのシーンを彷彿とさせる、ラストシーンの長尺スローモーション。申し訳程度の考察要素というか、男根を模したナイフがサナを貫くのも面白い。いやそんなんで論考してもしょうがない。

殺した人間を犬の餌にしたり、過剰なまでに艶めかしいBGM、「急だね!?」と心配になるくらいの豹変を見せる主人公・・本当にコメディ要素としては事欠かない。ウケを狙ってなさそうなところがめっちゃおもろい。夜な夜な人殺しでストレスを発散するだけの最悪なキャットウーマンである。

さて、コメディ映画として評するにあたってかなり思慮に欠けたレビューをしたが、今回の特集上映のひとつとしてピックアップされたからには「女性性」という視点から本作を観るべきだろう。

やはり物語の発端として欠かせないのは「聾唖の主人公が間髪入れず2度レイプされる」ことである。叫びたくても叫べないという身体条件は、同じ境遇に陥ったすべての女性の恐怖をおしなべて具現化しているのだろうか。ゴミ捨て場に横たわるシーンは悲痛で、直視するのもはばかられた。

そして遭遇する最悪な事態の再来だ。しかし2度目の事態では彼女は隙を伺って男を撃退することに成功する。ただ、それでは足りない。1人目に顔を覚えられた恐怖から、彼女は2人目を撲殺することを決意するのだ。物理的・精神的なセカンドレイプを防ぐためにも、この遺体は跡形もなく抹消しなければならない。

そうして2人目の遺体を解体するものの、彼女はフラッシュバックに襲われる。正当防衛とはいえ殺人を犯してしまった罪悪感、人肉を解体処理する不快感、そして1人目のレイプ犯と再び対面するかもしれない恐怖だ。この描写もリアリティがあるというか、男性側の視点から見ても痛々しく恐ろしかった。

ただ、遺体処理の過程で付きまとわれてしまった3人目の男を殺してから、風向きが一気に変わっていく。端的に言うと「あれ?男たち全員ぶっ殺せば解決じゃない?」といった具合に彼女のネジがはじけ飛ぶのだ。邦題は「天使の復讐」だが、原題は「Ms. 45」、つまり45口径という、彼女の存在を最初に報道したこの殺人事件の凶器のことを指しているのだ。無実の男性を殺して「Ms. 45」へと変貌を遂げた。そうか、彼女の行く末はただの殺人鬼だったのか。そう思わざるを得ない。

その風向きのまま最後まで突っ走ったため、「女性性」やフェミニズムと絡めてこの映画を論考する価値は無いように思えた。レイプ犯だけを根絶やしにするような信念があればまだよかったものの、無実の男性にまで手をかけた時点で、サナの行動は狂気的で決して擁護できるものではなくなった。そもそも『プロミシング・ヤング・ウーマン』などで私怨と正義が両立しなかったことを鑑みても、レイプリベンジというジャンル自体、女性の蜂起というフェミニズム的観点と擦り合わせることすら難しい試みなのかもしれない。

一点言っておきたいのは、レイプに対して「抵抗」が正解だということをあまり押し出すべきではないということ。声すら出せずに身じろぎひとつできなかった被害者が大多数だろう。よもや復讐に興じる本作の主人公をレイプ被害者のあるべき姿として捉えるのはやめましょう。いや、なろうとしてもなれないんだけども、「毅然と」「報復を」といった態度に敷衍するのは危険です。


今年は『哀れなるものたち』の突き抜けた女性性が話題をかっさらった。その流れに追随するかのように『プリシラ』『コール・ジェーン-女性たちの秘密の電話-』など、女性が輝く映画の公開が続いている。

本特集でいえば、『エンジェル・アット・マイ・テーブル』の公開が控えている。浅学ながらジェーン・カンピオン作品は観たことがないので、とても楽しみにしている。

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