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言うまでもなく人間である

僕は理学療法士である。PTという。

前回の投稿でも触れているように、理学療法士として働き、リハビリテーション医療という領域で仕事をしている。対象は病院に入院してくる患者さん。

僕は二児の父である。まあまあ年上の配偶者と4人で暮らしている。
まあまあの年上。姉さん女房です。
また、両親にとっては僕は子供であり、親であり子である。親子である。
理学療法士であり親であり、子であり、

人間である。

当然のことながら、仕事の中で接している方々も言うまでもなく人間あり、人間が人間と言葉や言葉にならない気持ちをやりとりしている時点でとても複雑な営みになる。人間は複雑なのです。

自分自身が人間であり、相手も人間であるという認識はとても当たり前のことで、当たり前すぎて認識していない。
だって、当たり前やん。てなことで。

当たり前だけどとても大切なこと。それを忘れて、職種や性別、年齢、病気、地域性などなど。いろんな情報だけで認識していないですか。全部含めて人間です。人間を相手に仕事をしている以上、人間が複雑であり、流動的(簡単に変化する。し続ける)であることを認識した上で関わらないと、全体の中の一部しか見えなくなる。広い広い世界地図を広げて、日本列島だけを拡大してみているような感じ。勘違いして、腹が立って、疲れて、自分が疲弊する。それは、自分がとても複雑な人間であり、相手も同様に人間であるという認識を、認識しているつもりで認識していないから。

僕たちは仕事だけでなく生活全般において、人生において、人と関わって生きる他ない。
基本的には。
だから、もはや積極的に関わっていたいと思っている。少なくとも僕自身は。少なくとも。

もちろんちゃんと距離を測りながら。軽快なフットワークで適当な距離感を探りながら。

理学療法士という仕事は、リハビリテーションという領域の中でほとんどの方が仕事をする。リハビリテーションは「全人的復権」とか「全人間的復権」と言われる。僕は「その人らしさを取り戻す」と解釈している。
さて、皆さんお察しの通り、「その人らしさ」とは非常に多くの、数えきれないほどの要素の複雑な組み合わせによって形成される。価値観とかはそれの一つ。
理学療法士という仕事は、十人十色の「その人らしさ」を汲み取りながら、かつ医学的にも合理的な関わり方を選択し、患者さんを「その人らしい」生活へ導かなければならない。導くというと少し偉そうかしら。
「その人らしい」生活をめざして、共に歩んでいかなければならい。ということで。

まさに、複雑、複雑。その複雑さを「やりがい」と捉えることができるようになってきて少し仕事が楽になってきた。

人間であるが故に。

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