情動と感情と言語
自分の感情って意外と認識できていないものらしい。ここでいう認識は「言語化できていない」ということで、意識できていないわけではないと思う。
本来、人の感情というのは、連続する光のスペクトルを、カテゴリ分けして境界を人為的に作って表現している「色」のように、本来境界は存在しないとされる。
色は明度や彩度、色相といった属性があり、そのバランスによって表現される。感情も同様に、共通する属性によって表現できるのではないかと考えた人たちがいる。
ラッセルとバレットは、感情は「感情価」と「覚醒度」という2つの属性によって表現され、その組み合わせによって感情の概念を形成していると考えた。
感情価は快-不快、覚醒度は活性-不活性の軸で表現され、それを中核感情と呼んだ。これらは二次元で表現できるが、実際にはもっと高次の感情も存在するようなので、ほんとはさらに複雑。
僕がここで言いたいのは、感情も色と同様に、本来は境界のないもので、それらを表現した様々な「感情」は、たぶん感じた人によって表現に振り幅がありそうだいうこと。そして、それを言語化するとなると大変なこともあって、「なんとも言えない感情」とか言われるものは既に言語化されている感情と感情の隙間にあったりするんじゃないかと思う。
本来境界がないものなので、これは起こりうるような気がする。人間の脳はそういう難しいことをなんやかんやで上手に処理して(いい加減な説明ですみません)、みんなが納得できる形で基本的な感情が表現されているんだろうと思う。
しかし、さっきも触れたように「なんとも言えない感情」ってのはある。
これを言語化するのは容易でない。
「情動」と「感情」という言葉がある。
「情動」は外的刺激や内的な記憶の想起によって個体に生じる生理的な反応
→これは、他者によって観測・計測が可能。
「感情」は情動の発生に伴う主観的な意識的体験
→これは、本人にしかわからない。
情動は生理的反応で、感情は意識的体験ということになる。そして、それがその後の行動の決定に影響する。
事後的に自分の感情を認識するときには、たぶん行動から遡って、そこに紐づいている感情(意識的体験)に注意を向けてみる必要がありそう。
情動は認識の外にありそうなので難しそう。でも、なんとも言えない感情の時に受ける外的刺激と、影響しそうな記憶(過去の経験の中に刺激に対してある行動を取るようになったきっかけがあるかもしれない)を考えてみるのは、手がかりになるかもしれない。
なんで、自分がこのような行動をしたのか?何を思って行動を決めているのか?これらについてちょっと時間をかけて考えてみるのもいいかもしれない。
一度、俯瞰して自分の感情を眺めてみる。そしたら、なんかのタイミングで、輪郭が不明瞭だったものが、はっきりと見えてくるように、感情も明瞭な言葉で表現できるかもしれない。
これが難しいから困っている。
【参考書籍】
※本記事は、あくまで私が書籍等から得た知識を咀嚼し、私というフィルターを通して表現しています。よって、基本的には私の個人的見解を多く含んだ内容になります。その点ご了承いただいた上で、ご興味を持っていただけたのであれば、是非、参考書籍を手に取っていただければと思います。
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