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あらゆる原因の母

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


私が入り江の生物消滅の原因について思い巡らせたとき、あなたの脳裏にはひとつの仮説が浮かんだのではないでしょうか。それは気候変動、ほぼ全ての環境問題で今やブームとなった犯人です。もし原因としてひとつの物事を特定できるなら、解決方法はずっと簡単に手に入るでしょう。

本書を書くための下調べをしているとき、私は「土壌流失が気候変動に与える影響」をグーグルで検索しましたが、検索結果の上位10件は私の検索とは反対のものを表示していました。気候変動が土壌流失に与える影響です。同じことを生物多様性にも試しましたが、結果は同じでした。気候変動が他の環境問題を悪化させているというのが本当であってもなくても、複雑な問題に単一の原因を指名しようとすることに、私たちは戸惑いを覚えるはずです。このパターンには見覚えがあります。それは戦争思考に他ならず、これも複雑な問題に単一の原因を認定することを頼りにしています。その原因は敵と呼ばれ、解決方法はその敵を倒すことです。

炭素還元主義は医療における「細菌還元主義」に似ています。たとえば、連鎖球菌性咽頭炎の原因は何でしょうか。それはもちろん連鎖球菌属細菌ですね。問題=細菌、解決方法=細菌を殺す、です。これはひとつのレベルでは正しいのですが、この取り組み方によって見えなくなるもの、取り残されるもののことを考えてみて下さい。まず取り残されるのは、細菌にさらされると病気になる人がいるのに、病気にかからない人もいるのはなぜかという問題です。特に、もし誰かが連鎖球菌への感染を繰り返すなら、細菌を原因としてではなく病の症状として見るほうが有益かもしれません。この取り組み方は、抗生物質療法を繰り返すことの影響や、それが何らかの形で再感染しやすさに影響しているのかどうかも無視します。(体内細菌叢と免疫の関係を確立した最新の科学的知見に照らせば、これは単なる推測ではありません。健康な腸内細菌を含む体内細菌叢は抗生物質によって深刻な打撃を受けます。)

医療では、病気の直接で直線的な原因に注目してしまうと、個人のレベルであれ疫学的なレベルであれ、本当の意味で治癒する可能性を失うかもしれません。現在の集団意識の中で連鎖球菌よりずっと大きく立ちはだかっている病気のことを考えてみましょう。ライム病です。これをマダニが媒介するスピロヘータによる感染症として見るなら、それを制御するのに適した技術は明らかです。マダニを避けるか殺す、そしてスピロヘータを殺す。この問題を別の角度から見ることは、制御や支配に基づいた普通の対応が組み込まれたシステムにとって非常に不都合だったり破壊的だったりすることがあります。ライム病の本当の「原因」は何でしょう? 私には分かりませんが、そこには次のようなことが含まれているかもしれません。

・身体の免疫が損なわれ多くのウイルス感染(細菌感染と違って抗生物質が役に立たない)に弱くなった
・都市郊外の開発で起きた奥山の消失と「周縁地」の増加によって、シカに寄生するマダニが爆発的に増加した
・オオカミとクーガーを駆除したことでシカの頭数が爆発的に増加した
・汚染、繰り返し行われる皆伐、そしてここでも天敵の駆除によって(捕食による歯止めがない場合、シカは森林下層を破壊するので)、森林の健全性が悪化し下層植物が荒廃すると、生物多様性が壊滅しマダニのような生き物の異常増殖を許した
・昔から続く乱獲、車との衝突、下層植物の破壊の結果、キジなどマダニを食べる鳥が減少した
・マイマイガの幼虫などの昆虫を駆除するため殺虫剤の空中散布が広く行われた結果、昆虫を食べる鳥が壊滅した
・現代版の自然への恐怖が実体化した (私たちが子どもを安全な屋内に閉じ込めたことに対し、あたかも自然が「ようし、それなら本当に恐ろしいものをお前に与えよう」と言っているかのように。)

もっともっと深く掘ることができます。郊外化現象の原因は何でしょう? 汚染の原因は何でしょう? 頂点捕食者を駆除し森林に薬剤散布するメンタリティーは何でしょう? 複雑で非直線的な因果関係がこれらの現象を結んでいます。たとえば、自然の他者化が郊外化現象を促進しますが、これとは逆方向にも働きます。大地との直接の関係から切り離され、何千キロも離れた場所で育った食べ物を買い、行き来するのに土の上を歩く必要さえない郊外居住者が、自然を単に美しい見世物とか恐ろしい脅威と見るのは当然のことです。

ライム病の「原因」は何から何まで、ありとあらゆることだと言うことさえできるでしょう。「原因」という言葉づかいすら問題の一部といえるのは、互いに依存し合い同時発生するいくつかの現象をばらばらに分離できると暗示しているからです。ライム病の原因は、子どもの絵本が幼い頃から私たちに見せる、人間の服を着て近代的な生活を送り人間のように考える擬人化された動物なのだと言うこともできるでしょう。こういった絵本は他の生き物たちを私たちの思いどおりにするよう誘惑し、絵本の動物たちが演じている人間の当たり前の暮らしが、現実世界ではその動物の実際の生息地を消滅に導いているという事実を覆い隠します。

ここで私は、明らかで直線的な原因に対処してはならないと言っているわけではありません。それは、戦いの時があってはならないと言ってはいないのと同じです。むしろ私は、あらゆる問題にこのように対処する習慣や条件付けられた反応のことを警告しているのです。

生態学は物ではなく関係性を研究する学問なのですが、そこでは全ての原因は症状でもあります。藻場(もば)の急激な減少を例に取ってみましょう。それは生物多様性ホットスポットで、1ヘクタール当たりの炭素隔離量は他のどの生態系よりも多いと言って差しつかえ有りません。海藻の消滅は炭素損失と酸性化の原因ですが、以下の症状を示してもいます。

・大型捕食魚の乱獲による草食性の軟体動物と甲殻類の蔓延
・過剰な農業排水による富栄養化とアオコ
・近代農法、森林伐採、土地開発の結果、土壌浸食が起き、大量の泥水が流入して海藻に当たる日光が減少

チェサピーク湾の漁師(多くはカニ漁師)と一緒に働いている友人の話では、ハリケーンやひどく濁った淡水が大量に湾へと流れ込むたびに、海藻、貝、カニは大規模な消滅を起こします。このように異常な撹乱のせいで、生態系は常に不安定な状態に置かれます。でも、何百年も前なら大した問題にならなかったのは、次のような理由からです。

・手付かずの湿地があって、膨大な量の雨水を吸収できた。
・湾に流れ込む川の小さな支流の全てにビーバーの造るダムがあって、雨水の流れを弱め、泥を捕らえた。
・まだ森林破壊と耕作が裸の表土を露出させておらず、土壌浸食が起きていなかった。

海藻を保護し再生するには保護区域をロープで囲むだけではだめなのは明らかです。なぜなら、海藻は私たち人間を含むあらゆる生き物との関係の中にあるからです。いつものような敵を見つけ出す戦略では海藻を救うこともできません。この問題を「地球温暖化の結果ますます強くなるハリケーン」のせいにしてしまう誘惑は強く、それなら都合も良いのですが、私たち自身や私たちの生き方と密接に関係する数多くの複雑な原因を無視してしまいます。漁師がたくさん獲ることばかり考えているからだと非難するのも簡単ですが、止むことなく自然を商品に変え、お金に作り変える原動力となっている複雑な経済的理由を(ここでも私たちみんなが関わっていますが)無視してしまいます。私たちの知的な習慣は「単一の原因」を見つけ、私たちの科学的な行動パターンはそれを計測し、私たちの政治的メカニズムはそれを攻撃します。「単一の原因」が全世界的なものなら、私たちは責任と権限をはるか彼方の国際機関に委ねて幸運を祈ります。きっと何とかしてくれる。私たちはそう願います。でもたいていの場合、気候変動のせいにするのは全く何もしないのと同じです。

ほとんどの二分法と同じように、症状と原因の区別も細かく調べて行けば解体してしまいます。それでもこの区別は役に立ちます。そう、原因は症状であり、症状は原因なのです。ですから、最もよく見える形で私たちの注目を引く原因・症状複合体のそのような側面を「症状」と呼ぶことにしましょう。私たち[アメリカ人]にとっては、ライム病がいちばん大きな声で呼びかけています。別の文化なら最も警戒すべき変化は、中部大西洋岸の森林でハナミズキが消えていくことや、あなたや私がけっして気付かないような鳥のさえずりの変化かもしれません。したがって、世界で起きていると私たちの目に映ることは、同じくらい私たち自身についても語ってくれます。それが暴露するのは、何が重要で、意味があり、価値があり、神聖だと私たちが考えているか、また何が重要ではなく無駄だと考えているかということです。言い換えるなら、私たちが何を見ているかで、私たちの物の見方が明らかになるのです。

哲学オタクとの議論を別にすれば、私は本書で(また他のどこでも)現実と真実は人間の文化的構築物だというポストモダニズムの立場を取りません。ポストモダニズムでは、私たちの物の見方だけが私たちが見るものを決定するのであり、言い換えれば人間の観察以外には断定的に正しいと言えるようなものは無いのです。事実は存在せず、あるのは権力の力学、性的・人種的抑圧などが詰め込まれた意味だけだという点で、おそらくポストモダニズム哲学者の言うことは正しいのでしょう。でも彼らには賛同できないことがあります。意味を創り出し、物語を生み出せる、完全に主体的な存在は、私たち人間だけではないという点です。私たちの物の見方、私たちの物語と神話は、私たちの理解を超えたところに源を発しているのです。

ライム病、気候変動、あるいはその他の問題を理解するため手近にある多くの原因の物語の中から、私たちの文化は現状を最も良く維持できるものを選びます。大きな勢力を持った文化は、その勢力を維持する物語を採用します。

人は馴染み深く手元にある道具を使えるように問題を概念化する傾向があります。もし持っているのが金槌だけなら、見るもの全ては釘に見えます。もし持っているのが抗生物質だけなら、いつも細菌を探すことになります。もし持っているのが戦争という物の見方だけなら、いつも最初に敵を探すことになります。

私たちの社会で最も有力で馴染み深い道具は科学の数量的な方法です。したがってそれが、気候変動の問題を私たちが捉える方法です。私たちは(世界の平均気温のような)数字を使って気候変動が起きていることを証明し、別の数字(二酸化炭素排出量)を使って対策を立て、また別の(コンピューターモデルに組み込まれた)数字を使って未来を予測し政策を誘導します。でもこれが唯一の道具でしょうか?これはそもそも正しい道具なのでしょうか? 産業文明がこれまで地球に起こしてきた損害が数量化という同じ枠組みによっていることを考えれば、疑ってみても良いでしょう。科学を通して私たちは世界を数値と数学的関係で記述します。技術を通して私たちはその数値を物質世界の制御に応用します。産業を通して私たちは世界を数値的スペックで規定された商品に作り変えます。さらに経済を通して私たちはあらゆる物を価値という別の数字に作り替えます。

私たちが自分に馴染み深い方法と物の見方で気候変動を解決したいと望むのは、そうすることで私たちの知る社会の基礎を保てるからです。この方法と物の見方、つまり数値化された世界観によれば、化石燃料の利用をやめればこの状況を打開できるということになります。残念ながら、本書の後段で議論しますが、単に化石燃料をやめるだけでは私たちを生態系の危機から救うことはできません。もっと深い革命が起きているのです。

化石燃料の利用をやめることは、ここで、あそこで、至るところで進んでいる生態系破壊を止めるのに必要な変化に比べたら、徹底した変化とはいえません。もしかしたら、産業文明にエネルギーを供給する代替燃料資源を見つけて炭素の排出を無くすることができるかもしれません。深く調べれば現実味は低いかもしれませんが、私たちの基本的な生活スタイルをほぼ変えずに続けられる可能性は少なくとも有り得ます。しかし全般的な生態系破壊については当てはまりません。そこに関与しているのは現代技術社会がよって立つあらゆるものです。鉱山、採石場、農薬、医薬品、軍事技術、国際物流、電子機器、電気通信など、全てが次の形へと生まれ変わる必要があり、時代遅れとなって消えてゆくものもあるでしょう。

(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-mother-of-all-causes/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸

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