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すべては1頭のサイの中に

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


二、三年前に、若い女性から次のようなメールが来ました。彼女は名門ロースクールの学生でした。

私はそんなに泣くほうではありません。でも今週私は二度も泣きました。サイのことを思って泣きました。サイがもうすぐ絶滅してしまうと思うと私の心は張り裂けそうです。自分の心が少しでも楽になるように、これを知性で説明しようとします。サイの絶滅を悲しむなんて全く不合理だと、私は自分に言います。ここ南カリフォルニアで絶滅しようとしているフェアリー・シュリンプ(妖精エビ)のことを、なぜ悲しまないのでしょうか?

悲しむべきことは山ほどあります。たとえば警官による市民の銃撃とか。いま、私は逮捕のとき何が「過剰な力」と見なされるかを書き出しているところですが、オンライン法律調査データベースのウェストローに「過剰な力」「資格による免責」と入力すれば、60万件以上も出てきます。これらは警官による暴力の氷山の一角で、もっと多くの事件が報告されず訴訟にも持ち込まれないまま終わっています。アメリカでは警官による暴力が猛威を振るっています。そのことを悲しんでもいいのかもしれません。いま読んでいる数々の事例はひどいものです(テーザーを使った電撃、銃撃、殴打、催涙スプレー、長期加療が必要な傷害、そのほとんどが過剰な力の罪を問われません)が、私が泣くことはめったにありません。

ですが、世界各地の動物園で老いてゆく最後のシロサイのことを書いた記事を読むと、私は悲しみで引き裂かれそうになります。どうして私たちは、こんなにひどく間違ってしまったのでしょう? チャールズ、あなたの言う通りです。これは死にゆく生物圏への悲嘆なのです(私はずっと前から環境危機を地球温暖化のことだと言うのをやめていますし、他の人がそう言うのも嫌です)。

私のクラスには本当にムカつく男子がいます。この子が言うことにはイライラします。たとえば、「外国にあるマクドナルドや、ナイキを着ているアフリカの子どもの写真を見ると、ぼくたちが勝ったみたいですごく嬉しい。ぼくたちの文化は世界一だ」なんて言うんです。彼がこれを言ったとき私は彼に目をやりました。前にも話し合ったことがあったので、私がどう思うか彼には分かっていて、彼はこう言いました。「そう思わずにはいられないんだよ、ぼくはアメリカ支持者だからね。」私は言いました。「私はバイオスフィア(生物圏)支持者よ。」すると彼はこう言いました。「人間が生きていくために必要な動物だけ生かしておけば良いんだよ。」私はこの愚かさから受けた衝撃に言葉を失いました。文字通り彼に話しかけることができない時間が数分続きました。彼に話しかけたくなかったのです。少し吐き気がしました。ようやく私はこう言いました。「それが可能だとは思わないわ。」すると彼は「そうかな、やってみればいいよ」と、何か良いことを試すかのように言いました。彼の言葉で私が取り乱したような感じになったのは、もし彼が正しいとしたら、もし未来が牛や豚や鶏とその糞が入ったコンクリートだけでできているとしたら、その糞を全部どうしたらいいのだろうと思ったからです。(以前彼は、動物に思いやりなんて絶対持てないし、動物の苦しみなんて気にならないと私に言ったことがあります。)

私は彼をのけ者にしないように本当に努力しています。彼から学べることがあるはずなので、今学期の教室では彼の隣に座りました。彼の言うことには気分が悪くなりますが、彼には優しく接するようにしています。高潔な道徳の立場からそうするのでもありません。私はこの振る舞いを、このような考え方を理解しようとしているのであって、もし私がそれを理解しなければ有意義な仕方で立ち向かうことができないからです。でも難しいことです。ときどき私が持って生まれた嫌みったらしさが顔を出していると感じることがありますが、それが私の側の防衛手段にすぎないことは分かっています。どうすればいいのでしょう?

この子の一番恐ろしいところは、彼が炭素削減に全面的に賛成していることです。彼は地球温暖化が本当だと信じているし、何か手を打たなければいけない深刻な脅威だと信じているのです。私にとっては動物を愛する気候変動否定論者の方がましです。本当にそう思います。

でも、悲嘆以上のものがあります。悲嘆に輪をかけるのが、その恐ろしい無力感です。私はサイの運命については絶対にどうすることもできないような気がします。私は自分の仕事をやるだけですよね? 私は先の学期でオールAの成績でした…。私には自制心があります。私は勉強熱心です。でも私は何一つ重要なことをしていません。

悲しみが深く突き刺さってくるような悲劇がある一方で他の悲劇はそうでもないという理由は、この若い女性と同じように私にも分かりません。涙を流すべきことは限りなくあります。私たちの意識にのぼること一つ一つに涙を流すわけにはいかないので、とにかく生きていくため私たちの感情にはたこができて固くなってしまうのかもしれません。ですが時にはそのたこを突き通してくるものがあって、嘆かれることのなかった他の悲劇が全てその後に続いて破れ目から入ってきます。ですから、私の目に涙を浮かばせ胸を締め付ける苦悶をもたらすものは、時には一見すると小さなことなのです。二歳児を叱りつける親のように。またある時は罪も無い人を襲う悲痛な不正義のこともあります。両親が強制送還されアメリカに置き去りにされた女の子のように。あるいは私の心に突き刺さるのは何百万件もある中でたった一件の残虐事件かもしれません。事件の一つ一つが他の全てを代弁しています。本当は、一つ一つの事件に他の全てが含まれているのです。あなたが他の惑星に旅することがあって、そこで野生動物が檻の中で絶滅を待っているのを見たら、その惑星では年寄りを老人ホームに放り込んでもいると知れるでしょう。最後のシロサイが動物園で老いている世界は、必然的に、投獄、戦争、人種差別、貧困、生態系破壊の世界でもあります。このどれ一つも他の全てがなければ存在することは不可能です。全ては同じ不道徳なマトリックス(母体)の一部なのです。

これら一つ一つが他の全てを含んでいるということは、私たちがその一つを悲しむなら、全てを悲しむことにもなるのです。あなたに突き刺さるのがサイでも警察の残虐行為でもかまいません。全ては内在する同じ神話の現れなのです。神聖さを奪い取られた他者である世界の中にいる個別ばらばらの自己という物語です。

自己の資質を欠いた、本来持つ知性や進化への意思を欠いた、どれも同じ構成要素からできている宇宙を当たり前と思うならば、私たちが自然や物質を操ることは際限なく可能で、予想に反する悪影響が出た場合でも、もう少しだけ情報や技術の知識があれば、原理上は予測し抑え込むことが可能です。ならば私たちの役に立つ動物だけを生かしておけば良いではありませんか? 「分断の物語」では、私たちはサイとは根本的に別なのです。軟弱な感情論を別にすれば、サイに起きることが私たちに影響することはないのです。

サイと同じことが生物圏にも言えます。「分断の物語」では、技術が私たちを自然から自由にしてくれるまでの一時的な実際問題を除けば、生物圏に起きることが私たちに影響することはないのです。その先に待っているのが、私の友人が恐れるコンクリートと豚の糞の世界です。

ここに、彼女にとっては動物を愛する気候変動否定論者の方がこの人より好ましいと見たことが真実のように思える理由があります。愛は「分断の物語」を反故にします。愛は他者を含むように自己を拡大することであり、他者の幸福は自らの幸福の一部となります。地球を癒すことは地球を愛すること無しに実現しません。動物を愛する人は、少なくとも正しい道を歩んでいます。

あの女性のクラスメートのような人たちの心を変えたいのなら、真正面からの論争は効き目が無いでしょう。誰かを愛に落ちるように理屈で説得することはできません。功利主義の観点から二つの政策のどちらかを支持するように説得できるかもしれませんが、私たちの役に立つ道具として地球と関わるということが、そもそも私たちをこの滅茶苦茶な状態に陥れたのです。それで思い出すのがベトナム戦争とイラク戦争に「現実主義」で反対した人々のことで、彼らはアメリカの国益を推進する道具としての戦争に疑問を投げかけることはありませんでした(また、アメリカの国益という概念を疑問視することもありませんでした)が、単にこの戦争が上手くいっていないと言っていたのです。さらなる戦争への扉は開かれたままでした。同じように、私たちが「化石燃料の使用をやめよう、さもないと困ったことになるぞ」と言って、人間中心の利益を最重要テーマとして受け入れるとき、サイについてはほとんど語る言葉がありません。サイが絶滅したら私たちは「困ったことになる」でしょうか? 多分ならないでしょう。そうして私たちはコンクリートと糞の世界に向かって進み、もしかすると目の保養のために公園をいくつか残しておくのかも知れません。

この男子のような何百万人もの人々は、なぜ世界を搾取し意のままに操作する「分断の物語」に惹きつけられるのでしょうか? もしかすると彼自身が搾取され操作される道具のように感じていることと関係があるのかもしれません。彼が置かれている身分は、彼が動物や地球を置きたいと思っている地位と同じです。彼に本当の主権はないので、支配の感覚を切望するのです。(自己の代理としての)人類が物たちを支配しているということが、彼にとっては心地良いのです。哀れな男を精神分析することは止めますが、もし私たちが(論争に勝つという精神的満足を得るのではなく)生態系破壊を推し進める信念を真剣に変えようとするなら、そのような信念の背後にある人生の経験を理解することが重要です。イデオロギーと心理を切り離すことはできません。

ですからこの若い女性が、彼に優しさを示しつつも彼に支配されないようにしているのは、正しい道を歩いていると私は思います。勝ちと負けの世界観では、あなたが支配するか、強制するか、お金を払うかしない限り、誰かがあなたの利益のために道を譲ってくれることはありません。これが極まると、その世界に愛はなく、本物の親切はなく、より多くを得ようとする手段以外の寛大さはありません。強制されない親切と寛大さが「分断の物語」に穴を開ける力を持っているのはこのためです。

私の友人がクラスメートに示す優しさと、クラスメートが世界をどのように経験しているかを理解しようとする彼女の欲求は、システムと政治のレベルに移し替えることができます。私たちと対立している人たち、犯人たち、私たちが責めを負わせたいと思う人たちが、依って立つ物語は何なのでしょうか? どんな人生の経験が彼らをその物語に引き寄せているのでしょうか? どのようにして、それは私たち自身の中にも秘かに息づいているのでしょうか? 彼らの立場になるのはどんなものなのかを知れば、世界を破壊しているマシーンの物語の鎧(よろい)を私たちが打ち壊す能力はずっと高くなります。これは慈悲心と呼ばれるものです。戦略と行動に取って換わるのではありません。慈悲心が新たな戦略を照らし出し行動をより有効なものにするのは、永遠に症状と戦う代わりに深い原因の所を狙い撃ちにできるからです。

サイになるのはどんなものでしょう? 警察官になるのは? 企業の役員、テロリスト、殺人者は? 川になるのはどんなものでしょう? 「相互共存(インタービーイング)の物語」では、このような問いが自然に立ちますが、人として基本的に存在することまで含めたあらゆるレベルで持ちつ持たれつの関係になります。それらが単に心理学の問いではなく、経済的・政治的な問いでもあるのは、人生の経験のほとんどを作り出しているのはこういったシステムだからです。

相互共存のレンズは女性がメールの最後に書いていた無力感を和らげてもくれます。世界の危機が、「不道徳なマトリックス」の中でその一つ一つが他の全てを含んでいるように、危機への対応にも同じことが言えます。どれか一つに対応することが、全てに対応することでもあります。私が檻の中のサイに話しかけているのを想像します。サイは私に問います。「私が絶滅しようとしているときに、あなたはどう生きていたのですか?」私の答が、「サンゴ礁を守るために働いていました」とか、「クジラの耳を聞こえなくしてしまうソナー(音響探知機)を海軍が使うのを止める手助けをしていました」とか、「私は死刑囚を救い出すことに一生をかけて取り組みました」というものなら、サイは満足し、私も満ち足ります。私とサイはどちらも、これら全ての努力がサイのためにもなっていることを知っています。私はサイの眼差しを堂々と受け止めることができます。

これは、懐疑論から破滅論に至る気候変動の全ての立ち位置に欠けていることです。赤ちゃんが誕生と同時にお母さんから引き離される世界、子どもが学校で授業をちゃんと聞くように薬を飲ませる世界、沼地を干拓して有毒廃棄物を流し込む世界、人身売買が横行する世界、動物が肥育場に閉じ込められる世界、刑罰が正義と間違われている世界、富がますます少数の人の手に集中する世界、人々が肌の色で互いを憎む世界は、必然的に気候がバランスを失って制御不能になる世界です。そしてこれらは単に兆候ではありません。原因なのです。つまり、刑罰制度を撤廃しようと努力する人は気候を癒す手助けもしているということです。刑罰と気候との因果関係はおそらく私たちの理解を超えるものでしょうが、どういうわけかこの二つは互いを仲間だと認めているのです。私が列挙したその他全てから気候変動をどうにかして分離できると考えることができるのは、炭素還元主義を生み出す分断された世界観の中だけです。

「相互共存の物語」では、一つのものに起きることは何らかの形で全てのものに起きます。そのとき私たちが耳を傾けることができるようになるのは、私たちに情熱、気づかい、分け与え(ギフト)を求める声です。その必要が大きく見えても小さく見えても、重要なものでも目に見えないものでも、私たちは耳を傾けます。それぞれが全てを含んでいるので、私たちは狂乱の中でも落ち着きを持って、緊急の時にも忍耐強くあることができます。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/in-a-rhino-everything/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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