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開発と負債

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


開発のイデオロギーは古典派経済学に正当化の根拠を持っていて、様々な生活上の働きを技術と大量生産を味方にした専門家に委託することによって、人間のニーズをより効率的に満たせるようになるといいます。富をお金で測るなら、近代社会が伝統的社会に比べると遥かに大量の富を作り出すのは確かです。経済学ではお金が多ければ幸福も増すと考え、私たちが商品(グッズ)を多く買えるほど、生活はより「良い(グッドな)」ものになると考えます。この理屈が正しいのは、人間のニーズと欲求が数値化でき売り買いできる物によって満たせる場合だけです。大きな勢力を持った文化の中にいる私たちは、かつてないほど多くの物を持っていますが、その一方で、人間を深く養ってくれるものの多くは人為的に不足した状態が作られています。私たちには時間が不足し、美しさが不足し、親密さが不足し、本物のコミュニティーと自然への繋がりが不足しています。こうして奪われたものに、私たちはいつも飢えていますが、お金や持ち物、地位、車、SNSの「いいね」、家の床面積がいくらあっても、これらの満たされぬニーズを埋め合わせることはできません。それらは私たちが本当に求めているものではないのです。私たちはこの永遠の飢えを「強欲」と呼び、それが現在の社会・生態系の悪夢の原因だとして激しく非難しますが、いつものように、私たちは原因ではなく症状と戦っているのです。強欲は欠乏の症状です。私たちが開発と呼ぶものが、本当の富から私たちを切り離したのです。場所から、人々から、人間以外のものたちから私たちを引き離し、標準化され仲介された関係でその繋がりを置き換えたのです。開発の過程で、私たちは計ることのできる物をたくさん得てきました。でも私たちは何を失ったでしょうか?

「相互共存(インタービーイング)の物語」が示すように、人類の全体は親密な関係性の細かな網の目に結ばれた一体のものなのです。この関係性を切り離すことは自分の体の一部を切断するのと同じです。ホールネス(全体性)を回復し、強欲という飢えを満たすには、その失われた関係性を回復しなければなりません。これが意味するのは、コミュニティーを作り直し、食物の源と繋がり直し、全般的には観衆ではなく参加者として自然と関わり合うことです。それが意味するのは、開発の重要な側面を逆転させることです。技術やグローバル文化を捨てるという意味ではなく、その適切な場所を見つけ出し、それらが奪った領域を取り戻し、別の進歩の概念を受け入れるのです。この概念では、生活の質的な次元が強調され、私たちの社会が無視している富の形を認めるので、私たちは自分のことを農村の人々やアマゾン川流域地帯の狩猟採集民より「進んでいる」とは思わなくなります。

私の友人がブラジルで農場と修養センターを経営しています。来客のための宿泊施設がもっと必要になったので、彼は新しい建物を作るために近所の原住民を何人か雇いました。「彼らを雇ったのは原住民だからではありません。建築家として雇ったのです」と彼はいいました。

測定の道具をまったく使わず、金属のネジや釘をまったく使わず、この土地から採れる材料以外はまったく使わずに、たった3週間でこの原住民の大工たちはハンモックで40人が泊まれる住居を作り上げました。それは知的なデザインの驚異ともいえるもので、暑い気候には涼しく、寒い気候には暖かい建物となりました。中央の囲炉裏から立ち上る煙はすぐに通気性の屋根を通して放出され、屋根の害虫を防ぎますが、雨漏りすることは全くありません。この天才的な機能性にはそれに相応しい完璧な美が備わっています。測定の道具がないにも関わらず、その寸法は正確に黄金比となっていて、その上、この建物からは(写真で見る限り)人目を引く存在感と活気が伝わってきます。プロの建築家がこの建物を訪れると自分の能力が遥かに及ばないのを知って悔し涙を流すのだと友人はいいます。

ほんとうに進んだ社会では、誰もがこのように美しい建物に住むでしょう。

脱成長経済での新たな種類の進歩は、幸福が後戻りすることを意味しません。家の床面積、自動車、一人あたりのエネルギー消費など、私たちが現在受け入れている量的な富の尺度では後退するものもあるかもしれません。薬草が増えて医薬品が減り、整体やマッサージが増えてハイテク医療が減り、美しい建物が増えて大きな建物が減り、歌声が増えて曲の購入が減り、屋外で過ごす時間が増えてジムで運動する時間が減り、子供の自由な遊びが増えて集団活動で過ごす時間が減るということかもしれません。以前は子供時代にこれほどお金が掛かることはなかったのです。

測定できるものの重視をやめるのは、自然を商品に作り替えることから離れていくのと対応します。すると、自然の生き物や生態系や生物種を、それ自体で神聖なものとして見ることができるようになります。数字は無限のものに有限の値を付けるので、美しさと神聖さと愛は数字の中で見失われがちです。経済学と生態学の双方で、私たちは簡単には測れない価値へと軸足を移す必要があります。

開発は西洋で何世紀にもわたって起きてきましたが、そこにはもうコミュニティーですることはほとんど残っておらず、製品やサービスになっていないものはほぼ何もありません。お金に換えられる物がほとんど残っていないので、システムは全体の成長を維持するため世界の「発展途上」の部分に手を伸ばします。

開発借款が融資してきたのは、天然資源を採掘して運び出すためのインフラや、地元の労働力をグローバル企業が使えるようにするための工場地帯の建設です。さらに、貸付金を(輸出で稼いだドルやユーロで)返済させようとする圧力によって、そのインフラが望んだ目的どおりに使われることは確実になります。発展途上国への融資には高い金利が掛けられているので、全体としての投資利益率は金融システムを機能させ続けるのに十分なほど高く保たれます。要するに、成長は発展途上国から先進国へと輸入されるのです。

さらに、借金は絶望的なほど多額に膨れあがっているので、「開発」への圧力は終わることがありません。資源採取や労働市場開放のペースが鈍ることがあれば、新たな金融資産の創造が借金の返済に追いつかなくなり、その国は債権者に返済するため代わりに既存の資産を共食いするしかなくなります。このプロセスを「緊縮経済」といいます。債権者は債務国に対し、公共資産を民営化し、年金や給与を切り下げ、天然資源を売却し、公共サービスを切り捨て、その収益を債権者への支払いにあてて債務不履行を防ぐよう求めます。債務不履行を避ける別の条件は、「永遠に借金漬けになる」というものですが、この借金には返済の見込みがないからです。ジュビリー・デット・キャンペーンの報告書によると、1970年以降で、ジャマイカは185億ドルを借り入れ198億ドルを返済しましたが、まだ78億ドルの負債が残っています。フィリピンは1100億ドルを借り入れ1250億ドルを返済しましたが、450億ドルの負債があります[2]。金利負担さえなければ、これらの国々やその他の多くの国々も収支はプラスになったかもしれません。金利負担こそが、グローバル金融システムに永遠に貢ぎ物を差し出し続けることをこれらの国々に強いていて、輸入するより多くの物を輸出するご褒美に借金漬けになることを強いているのです。

同じ圧力が先進国と個人をも苦しめます。人為的な欠乏の環境では、私たちはみな発展途上国と同じように、売り物になる商品とサービスの生産に生活を振り向けようとする圧力にさらされます。途上国は借金を返済し続ける方法を絶えず躍起になって探さなければなりません。聞き覚えがありませんか? 個人についても同じなのです。あなたが昇給で返済を続けることができなければ、個人版の緊縮経済を実行しなければなりません。資産を売却し、健康や余暇への支出を切り詰め、生活全体をお金儲けに集中するのです。


注:
[2] ディアら(2013)。

(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/development-and-debt/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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