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原因への突進

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


「子供の頃、あの入り江はコンブがたくさんあってウナギがいっぱいいたのよ。ありとあらゆる野生の生き物であふれていたわ。カニ、二枚貝、カブトガニ。すぐそこにはムール貝がびっしり付いた場所があったし、あの曲がりの所で泳いでいてウナギと鉢合わせしたことがあるわよ。」

妻のステラが私にそう語って聞かせたのは、ロードアイランド州のナロー川がナラガンセット湾に合流する入り江を訪れたときのことでした。そこは妻が小さかった頃、お気に入りの場所でした。その木立に囲まれた砂浜は、絵に描いたような美しい場所で、もしステラが子供の頃にどんな風だったかを話してくれなければ、この生態系がひどく傷付いたものだと知ることはなかったでしょう。

私たちのどちらもウナギが消えた理由は分かりません。しばらく二人で悲しみましたが、そのときステラには別の思い出がよみがえり、いくらかは理由を説明してくれるように思えました。彼女が友だちのビバリーと一緒に時々その浜に行ったのは、「救出作戦」のためでした。男の子グループが浜辺を襲撃に来て、砂の上を這っているカブトガニを全部ひっくり返して行くので、カブトガニはどうすることもできずに死んでしまいます。ステラとビバリーはカブトガニを元通りの向きに戻すのでした。「誰がやったのか知らないけれど、何の理由も無くやったのよ。無感覚な殺戮だわ」とステラは言いました。

こういう話を聞くと、私は違う惑星に寄り道したような気分になります。

このとき私たちはカブトガニを1匹も見ませんでした。今ではここでカブトガニを見るのは珍しいことです。人がカブトガニをたくさん殺したせいなのか、それともヘモシアニンを取るためにカブトガニの血液を「採取」し過ぎたからなのか、私には分かりません。あるいは多分、全般的な生態系の荒廃のせいなのか、殺虫剤の流出、農業排水、土地開発、医薬品残留物、開発や気候変動が引き起こす降雨パターンの変化…。もしかするとカブトガニはこのうちの1つに敏感なのか、もしかすると餌になる生き物が影響を受けているのか、あるいはカブトガニに感染する微生物を抑制する別の微生物の繁殖サイクルで役割を果たす軟体動物が影響を受けるのかもしれません。

カブトガニとウナギが死に絶えたことを科学的にどう説明しようと、本当の理由はステラが言っていた無感覚な殺戮なのは確かだと私は感じます。重要なのは殺戮の方ではなく、無感覚の方です。私たちの感覚機能が麻痺し共感が退化していることです。私たちは自分がすることを感じません。

カニやコンブやウナギはみんな消えてしまいました。心はその原因を探し、理解し、非難し、そして対策しようとしますが、複雑で非直線的なシステムでは、原因の特定は不可能なことが多いのです。

複雑なシステムが持つこの性質と馴染みが悪いのは、私たちの文化が問題解決に取り組む一般的な方法です。そこではまず原因を特定します。犯人、病原菌、害虫、悪人、病気、間違った考え、悪い性格。次にその犯人を支配し、打ち負かし、破壊します。問題=犯罪、解決方法=犯罪者を投獄する。問題=テロ行為、解決方法=テロリストを殺す。問題=移民の流入、解決方法=移民を追放する。問題=ライム病、解決方法=病原菌を特定し殺す方法を見つける。問題=人種差別、解決方法=人種差別者に恥を知らせ、人種差別行為を非合法化する。問題=無知、解決方法=教育。問題=銃による暴力、解決方法=銃規制。問題=気候変動、解決方法=炭素排出の削減。問題=肥満、解決方法=食べる量を減らし運動量を増やす。

上の例を見れば分かるように、還元主義的な思考はあらゆる政治的立場、つまり主流のリベラルと保守の双方に、確かに行き渡っています。直接の原因が明らかではないとき、私たちは不快に感じがちで、もっともな「原因」の候補を見つけては戦争まで仕掛けるのが普通です。最近アメリカで起きた一連の銃乱射事件はその典型です。リベラル派は銃を非難し銃規制を主張しますが、保守派はイスラム教徒や移民、ブラック・ライヴズ・マター[黒人の命は大切だ]運動を非難し、取り締まるよう主張します。もちろん、相手陣営を非難するのが特に好きなのは、どちらの側も同じです。

表面的には、銃がなければ銃乱射事件が起きないのは明らかですし、市民が軍用攻撃兵器を手に入れることができれば乱射事件の死者はさらに増えるのも同様に明らかです。しかし、銃の入手に注目することで、簡単な方法では解決できない厄介な問いを迂回してしまいます。あの憎しみと怒りはどこから来るのでしょうか。どんな社会状況がそれを引き起こすのでしょうか。銃規制をめぐる激しい論争が米国の政治的関心を独占してしまったので、こういう問いは勢いを失い一部の知識人の話題にしかなりません。その問題に私たちが取り組まなければ、銃を取り上げることが本当に役立つのでしょうか。爆弾やトラックや毒薬を使って殺人をする人が現れたら、社会を完全にロックダウンし、社会の隅々まで監視、警備、統制をどんどん強化することが解決になるのでしょうか。そういう解決方法は私が生きている間ずっと推し進められてきましたが、人々は安全が高まったと感じているように見えません。

私たちに降りかかっている同時多発危機の中で私たちが直面しているのは、おそらく基本的な問題解決戦略の崩壊であり、その戦略自身が「分断の物語」の深部に根ざしたものです。

入り江での生き物たちの消滅のことを知ると、私自身も犯人捜しをしたい、憎むべき相手、非難すべき相手を見つけたいという衝動に駆られました。私たちの問題解決がそんなに簡単だったら良いのにと思います。もし一つの物事を原因として特定できるなら、解決方法はずっと簡単に手に入るでしょう。でも心地良いことが正しいとは限りません。もし原因が互いに関連する千個の物事で、私たち全員を巻き込み、私たちの生き方と切っても切れないものだとしたら? もしそれがあらゆるものを含んでいて私たちが知っている生活とあまりにも強く結びついたものなので、その膨大さを前に私たちは何をしたら良いか分からないとしたら?

今も続く喪失を悲しむ涙が私たちを洗い流し、安直な解決策へと逃げ込むことなどできないとき、その無知を自覚する謙虚で非力な瞬間こそ、私たちに必要な時であり、私たちを変える力を持っているのです。それは私たちの奥深くまで届いて、凍りついた物の見方と染みついた反応のパターンを洗い流す力を持っています。私たちに新鮮な目を与え、私たちを日常に縛りつけている恐れの触手をゆるめます。でき合いの解決策は麻薬のようなものかもしれず、痛みから注意をそらすだけで傷を癒すことはありません。

この麻薬の効果に気付いた人もいるでしょう。とっさに「何か行動しよう」へと逃避してしまうのです。もちろん、原因と結果が単純で何をすべきかをはっきり知っている場合には、とっさの逃避が正しい解決です。足に棘が刺さったら、棘を抜くことです。でも、地球生態系の危機をはじめ多くの場合には、状況はもっと込み入っています。そういう場合、いちばん都合の良い、表面的に明らかな原因へと突進する習慣が、もっと意味のある対応から私たちの注意をそらしてしまいます。私たちが下へ、下へ、下へと掘り下げて見るのを妨げてしまいます。

カブトガニをひっくり返す少年たちの無慈悲な残酷さの下には何があるのでしょうか。芝生に大量の農薬を散布することの下には何があるのでしょうか。郊外の豪華戸建て分譲住宅の下には何があるのでしょうか。化学農業システムは? 沿岸での魚の乱獲は? そこから私たちは、この文明の基礎をなすシステム、物語、心理にたどり着きます。

システム全体の問題の根源は想像も及ばぬほど深いので、けっして直接行動を取るべきではないと、私が言っているように聞こえるでしょうか? いいえ、そうではありません。無知の自覚、困惑、悲嘆が私たちを導く先では、広い視野から原因の各々の側面を観察し、安易な間違った解決策に飛びつくことがないので、私たちは複数のレベルで同時に行動することができるのです。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-rush-to-a-cause/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸

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