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自然の資本(後)

訳者コメント:
ここで語られるのは、環境経済学と生態経済学(エコロジー経済学)の違いだと思います。環境経済学は主流経済学の一部をなしていて、環境汚染のように金銭的尺度で測れない「外部性(エクスターナリティー)」を数値化することで「内部化」し費用便益分析(コスパ)で評価できるようにすることに主眼を置きます。工業製品の製造から廃棄に至る全てのコストを合算する「ライフサイクル・アセスメント(LCA)」や、炭素会計などです。これと似ているようで全く異なるのがエコロジー経済学で、人間の経済活動は生態システムに寄生しているのであり、生態系破壊は人類自らの存立基盤を掘り崩す自殺行為だと主張します。ハーマン・デイリーが創始者の一人とされ、E.O.ウィルソンもこの文脈でしばしば引用されます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


前半から続く

17世紀イギリスやアメリカ開拓時代には、所有権のない土地(共有地、コモンズ)がたくさんありました。現在、私たちは狩猟採集の時代とは対極の状態に達し、所有されていない土地を想像するのが難しいほどです。きっと誰かが所有しているのでしょう? 所有者がいないわけがないですよね? 私はよく生徒たちに、所有権のない土地の例を答えよという無理難題をふっかけます。国立公園や国有林などは、政府が所有するものであり、所有者がいないわけではないので不正解です。基本的に、現在のアメリカに残っている唯一の所有権のない土地、唯一の共有地は道路です。道路は公共空間であり、自治体によって維持・管理されていますが、権利証書の対象ではありません。道路とおそらく南極大陸を除けば、世界の地表は全て私のもの、あなたのもの、彼の、彼らの、我らのものになってしまいました。

昔の私たちが、狩猟採集民として自然の中に組み込まれ、自然の一部であった、あるいは自然から切り離されてはいなかったと言うとき、それは「より自然に生きていた」ということだけを意味するのではありません。むしろ、私たちは「自然」を自分自身から切り離されたものとして見ていなかったということです。人間と自然の間に二元論は存在しませんでした。トム・ブラウン・ジュニアは少年時代に星空の下で横たわった体験をこう語っています。「私たちは一時間ほど横になって、黒々とした満天の星空を見上げていた。目を閉じることはなかったが、やがて野原に横たわる私はもうそこにいなかった。星やそよ風や草や昆虫が織りなすパターンの一部に、私はなっていた。このことを意識したのは、最初の鹿が草むらの中をやってくる音を聞いた時だった。そのとき私は、ただそこにいること以外に何も考えず、何も感じずに横たわっていたことに気が付いたのだ。」[24]

概念として自然の一部だったということを別にしても、狩猟採集民が所有について非常に限られた概念しか持たなかったことには現実的な理由もありました。彼らはほとんど定住しなかったので、多くの所有物を持ち運ぶことができませんでした。持ち物を蓄えることは不可能でした。農耕は所有の時代にとって実際的かつ概念的な基盤となりました。実際的には、定住生活と所有物の蓄積が可能になりました。農耕はまた、人口の集中、社会階層化、専門化を生み、これらすべてが所有権と貨幣の発展をさらに推し進めました。概念的なレベルでは、農民が土地から与えられるものを単に受け取るのではなく、土地に労働を加えるという事実が、土地は自分のものだという感覚を助長します。もっと一般的に言えば、農耕と、農耕文明で発達したテクノロジーの全体は、自然をコントロールしたり改良したりすることを追い求め、その結果、自然を他者に、操作の対象に、ひいては所有の対象にしました。

ひとたび人間と自然という二元論的な観念が確立されれば、人々が自然のものを人間のものへと自由に変換しようとしたくなるのはよく分かります。それこそが、「天然資源」という言葉が意味する作用なのです。資源とは、私たちが使う物です。あるいは、取っておいて後で使うか、全く使わないか。いずれにせよ、私たちのための物です。

数千年も続く自然資本から金融資本への転換は、この作用を実行に移したものです。環境保護主義者たちが長年にわたり語ってきたのは、私たちが「資本を削って生きている」ということであり、富は自然資本の持続不可能な消費によって得るものだという幻想を作り出しました。問題の根本は、私たちの経済システムが自然界のものをそのまま富として認めないことにあります。それがビジネスの力学に組み込まれていて、経営者の倫理観や道徳、善意に関係なく、自然資本は可能な限り迅速かつ効率的に金融資本へと変換される定めなのです。(政府が規制をかけたところで、この転換を遅らせるため、その効率を妨げる障害を作ることぐらいしかできません。)

活動家が犯す最も重大な過ちの一つは相手を悪者扱いすることで、たとえば経営者や「富裕層」は自分たちよりも貪欲で意識が低く精神的進化が遅れていると思い込むことです。しかし貪欲は経済システムの結果であって、原因ではありません。たとえば、アクメ社[訳註]は鉱山を所有していますが、社長は善良な人で、その鉱山を操業すると地域の貴重な地下水が枯渇するという理由で操業を拒んでいるとしましょう。年間1千2百万ドルを生み出すはずだった鉱山を見す見す放棄したのです。アクメ社の利益は1千2百万ドル減少し、それが会社の時価総額に反映されて、おそらく2億ドルの減となり、12億ドルから10億ドルに低下します。株主がこの鉱山のことを知ると、それを活用するよう経営陣に圧力をかけ、おそらくは株主の経済的利益に反する行動を取ったとして社長を訴えることさえするでしょう。もし彼が抵抗したら、とてつもない圧力がかかるでしょう。そのような良心の呵責がない競合他社に対してアクメ社の鉱山製品は価格で負け、同社に目を付けた企業乗っ取り屋は、投資銀行から10億ドルを借り、この鉱山に相当する2億ドルの株式を追加してアクメ社を買収し、鉱山の採掘を開始し(おそらく2億ドルで鉱山を売却し)、銀行からの借入金に5千万ドルの利子を付けて返済し、1億5千万ドルを懐に入れるのです。

公害防止や賃金引き上げなど、社会的・環境的に責任ある行動に余分な資金を費やす企業にも同じ運命が訪れます。なぜなら、そのような行動によるコストは企業のバランスシート(貸借対照表)には入っていない、つまり外部にあるからです。実際、このようなコストのことを経済学では「外部性」と呼びますが、それはテクノロジーに内在する人間と自然の分断を反映する言葉であり、つまりは自然を他者にすることです。

自然資本が値段の付いた商品に変換されるまで、経済統計やバランスシートには現れません。自然の価値を価格以外の方法で表現することさえ難しいからこそ、費用便益の検討を基にした環境保護論が氾濫しているのです。なぜ熱帯雨林を保護しなければならないのでしょうか? 未発見の植物から医薬品を製造できるかもしれないからでしょうか? 炭素吸収源として経済的価値があるからでしょうか? 受粉を媒介する生物種の経済的価値のためでしょうか? 要するに、このような主張は、環境破壊が経済にもたらす長期的コストの方が環境保全の経済コストよりもはるかに大きいという理由で、私たちに環境を保護するよう説得しようとしているのです。良かれと思ってやっていることでしょうが、そのような議論はかえって根本的な問題を悪化させます。それは功利主義の基本的な仮定であり、善は定量化できること、人生をより良いものにするには金銭的な見返りを最大化すること、そしてもっと深くにあるのは、自然を我が物にできるということ、さらに深いところにあるのが、私たちは別だという幻想です。このような議論が認めてしまう悲惨な前提は、自然は確かに物であって、それがもたらす経済的な結果に従って処分するのが最も良いということです。

環境保護のための費用便益論のもう一つの欠点は、短期的な戦術としても効果のないのが普通だということです。私がこの点で触発されるのは、「彼らの理性と良心に訴えよ」というガンジーの呼びかけや、エドウィン・O・ウィルソンが提唱する普遍的な生物愛「バイオフィリア」、つまり、どんなに深く埋もれていようとも、私たち一人ひとりの内にある生き物への愛です。長い目で見れば、そしておそらく短期的に見ても、人々の美意識や正しいことをしたいという願望に訴える方が効果的かもしれません。「環境を守ろう、そうしないとコストがかかりすぎるから」というのは、より卑しい本能に訴えるものです。最も強い動機が欲であると仮定することで、聴衆を軽んじています。(特に自然資本を消費することで経済的利益を得る人々に対しては逆効果です。)ある意味では不誠実でもあります。環境保護による長期的な経費節減を動機とするような環境保護主義者を、私は知りません。その代わりに、他の人々の中にある最上位のものに訴えましょう。それは、彼らの正しさ、美しさ、正義の感覚、善人でありたいという望み、私たちの美しい地球に対する生まれ持った愛を実行に移したいという願いです地球の略奪の背後にある貪欲、そして貪欲の背後にある不安は、結局のところ貨幣システムの産物であり、自己、魂、自然、そして互いからの分断の必然的な影響でもあります。それは私たちの本質ではありません。

あらゆる富をお金に換えることは、私たちの美意識、正しさ、目的意識に反することです。その結果、世界は醜くなりました。芸術の領域では、「商業アート」や「売れるアート」のような言い方は褒め言葉ではありません。また、貯木場が森林よりも美しいと主張する人もいないでしょうし、整然と建設された高速道路の美しさが、その資材となった採石場や鉱山などが破壊した景観の美しさを上回ると主張する人もほとんどいないでしょう。

個人的なレベルでは、現実的な問題(大抵、お金に関わる問題)が、美しい人生を送りたいという私たちの願いを妨げているように見えることがどれほどあるでしょうか。ふつう合理的な経済的利益は、ジョセフ・キャンベルの「至福に従え」という勧めと真っ向から矛盾しているように見えます。私の経験でも、「お金の余裕がなかった」という理由で最も美しい方法を諦めたことは数え切れないほどあります。

世界をお金に変えることで世界が小さくなるように、人生をお金に変えることで(「時は金なり」を実行すると)、人生は小さいものになります。アダム・スミスの「経済人」は、合理的な自己利益に従って選択を行い、あらゆるものの価値は貨幣で計算できるという前提を肯定します。すべての物事には価値、量、尺度が付けられるのです。ここで行われるのは、野生の計り知れなさを人間の抽象的な数字に移し替える(落とし込む)ことです。こうして荒ぶる野生、つまり自然はコントロールのもとに置かれます。ここにも科学の計画との類似点があって、方程式を使って自然を人間の言葉に落とし込もうとします。

現代人の経済活動と、学問としての経済学が、どちらも環境を度外視していることは、私たちの自己と世界に対する根本的な理解と切り離せません。ハーマン・デイリーが言うように、唯物論的、機械論的世界観が暗示するのは、「自然界とは、役に立つ物の山が偶然そこにあるに過ぎず、ある無目的な生物種による恣意的な企てのため消費される運命にある」ということです[25]。もしも個人的な生存、快適さ、快楽を超えた真の目的がないのなら、もしも自然の秩序と美しさは単なる偶然に過ぎず、生命は宇宙を疾走する小っぽけな岩の玉の上にうごめく垢であり、全ての存在は「響きと怒りに満ちているが、何の意味もありはしない」のなら、地球の運命なんて本当はどうでも良いことではないでしょうか?

この時点で、死んだ物質の世界に意味や目的、神聖さを与える存在として〈神〉を持ち出すのが通例です。このような対応をしたところで、残念ながら、物質が生きていないことに変わりはなく、生命が神々こうごうしくないことに変わりはなく、美に秩序がないことに変わりはありません。神が創造物から切り離され、魂が物質から切り離されているとき、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」のような教えを、私たちは当然のように解釈して、自然の富を個人の経済的な富に変えるために略奪し、破壊する神の許可と捉えます。有神論でこの地球を扱っても、無神論的な扱いに劣らず、あるいはそれ以上に破壊的であることが、あまりにも多いのです。

非二元論的な宗教では、物の見方が違ってきます。ウェンデル・ベリーは聖書の言葉から次のように雄弁に語っています。「創造とは、創造主から独立したものではなく、大昔に完了した原初の創造行為の結果でもなく、むしろ全ての創造物が神という存在に対して継続的に絶え間なく参加することです。[26]」私たちに創造物を略奪する神聖な許可を与える代わりに、非二元論的な宗教が自然破壊を見ると、ベリーの言葉を借りれば「最も恐ろしい冒涜ぼうとくです。それは、神の賜物を神の顔に投げつけることに他ならず、まるで私たちがそれを破壊することによって与えた以上の価値がないかのようです。[27]」自然資本を金融資本に変換することで、私たちは神の御業みわざに金銭的価値を付与することになりますが、物質が私たちとは別のものであり、「俗世のもの」であり、魂を持ったものでないならともかく、自然が神聖なものであり、神の〈創造〉が絶え間ない現れであるなら、許されることではありません。詩篇24篇1節にはこう書かれています。「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」このように見ると、地球を資産、資源、財産へ転換する動きは農耕とともに始まったものですが、これは強奪の試み、最上級の冒涜以外の何ものでもありません。私たちが大地から切り離されているという幻想だけが、このような傲慢さを私たちに与えているのです。

悲しいことに、私たちの分断は幻想にすぎず、私たちの略奪によって傷つき衰えた世界から逃れることはできません。しかし、テクノロジーも含め、私たちの創造的な才能ギフトを、その才能が意図する神聖な目的のために使うことで、世界の醜悪化を逆転に向けて動かし始める、つまり美しさを創り出すことは可能です。聖書の解釈の中には、この世の物は私たちが使うためにここに置かれているとするものもありますが、だとしたら、神の絶え間ない創造の御業みわざに参加し、それを未来に向けて延ばしていくために使う以外に、どんな使いみちがあるでしょうか? 落ちた枝で笛を作ることもできます。木を伐採するたび、新しい採石場を掘るたび、 私たちが問うべきなのは、「このことで、創造物の神性を増大させ、より美しくするだろうか? それとも、より醜くすることで創造の神々こうごうしさを損なうだろうか?」という問いです。そしてその答えは、天地創造の一部のみならず全体に当てはめねばなりません。流麗な新型自動車だけでなく、現在の工業プロセスと密接に関連した鉱山の採掘場、汚染された空気、荒廃した風景にも。

私たちが生まれたこの美しい世界から、私たちは何を作り出すべきなのでしょうか?


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注:
[24] トム・ブラウン・ジュニア[Brown Jr., Tom,] Tracker. Prentice Hall, 1978. p. 56
[25] アドバスターズ[Adbusters]誌, 2004年9/10月号 Vol. 12, No. 5で引用. ページ数は使ってません。やーい!
[26] ウェンデル・ベリー[Berry, Wendell.] “Christianity and the Survival of Creation.(キリスト教と天地創造の延命)” 『Sex, Economy, Freedom, and Community(セックス、経済、自由、コミュニティー)』. Pantheon Books, New York, 1993年. P. 97
[27] 同上, p. 98

訳註:
アクメ社(Acme Corporation)は『ワイリー・コヨーテとロード・ランナー』の短編アニメなどに登場する架空の企業。普遍的な会社名として使われる。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-06/

2008 Charles Eisenstein


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