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押すべき時


チャールズ・アイゼンスタイン著
10月15日

凪いだ海の船乗りの、我らが感じる微風の気配。(カール・セーガン)

人類はこの数年で誕生プロセスの新たな段階へと移行しました。

私はここでスタニスラフ・グロフのいう出生前後のマトリックスという概念を用います。これは誕生の精神力学を4段階で述べたものです。第1段階は「子宮の至福」です。子宮は胎児に必要なものを全て与え、胎児は限界や困難、苦労など全く無いかのように成長します。母体の様々なストレスが胎児に影響することはあるかもしれませんが、自然の働きは衝撃を和らげ深刻な傷を負わぬよう最大限に守ります。

第1段階から第2段階に移ると、胎児は子宮の限界を超えて成長し、陣痛が始まります。楽園は地獄に変わり、圧力は増し脱出する道は無いように見えます。出口無しの地獄です。状況はますます耐えがたくなり、胎児にとっては永遠に続くように感じられます。生存ここに極まれり。絶望はこの段階の顕著な特徴です。

第3段階が始まると、子宮頸部は開き胎児は産道を通る旅を始めます。陣痛が引き起こす収縮と押し出しは強まりますが、先行きが見えているので、母子ともに全ての力を振り絞ることが必要にもかかわらず、この段階は前ほど地獄のようでもないのが普通です。

第4段階は新しい世界への出現です。もう逆戻りはできません。完全な分離が起きますが、(少なくとも伝統的な出産の方法では)新生児は母親と再会し胸に抱かれます。いま赤ちゃんは社会の一員となり、新たな発達の段階が始まります。

この地図を人類文明に当てはめると、第1段階は人間社会の長く指数関数的な成長曲線で、無限にも見える「母なる自然」の膨大な恵みを消費しました。ある場所で資源が枯渇しても、利用できる未開の領域、鉱物、森林、文化はいつでも存在したまし。この拡大が消費したのは天然資源だけではなく、私たち自身の中にある野生でもありました。そうして起きた植民地化は、贈与ギフト文化をお金と市場で置き換え、伝統的社会組織のパターンを法律と警察と政府で置き換え、土地に固有の建物を建築基準で置き換え、民間療法を医薬品で置き換え、助産術を産科医学で置き換え、物語を持つ集落を無個性な宅地開発で置き換え、輪になって歌うのをMP3ファイルのダウンロードで置き換え、炉端で聞く民話をユーチューブの動画で置き換え、子どもの王国を学校の規律で置き換え、口伝えの文化を文字の文化で置き換え、場所に特有の知識を普遍的な公式で置き換えました。このような発展はどれも絶対的な悪ではありませんでした。でも紛れもなく、現在最も豊かな人々でさえ拭い去れない貧困に苦しみ、意識されることのない喪失の悲しみは、どんな目新しい気晴らしをもってしても癒せません。

第1段階から第2段階に移った日付を挙げるとしたら、それは1917年でしょう。第1次世界大戦での工業規模の残虐行為から3年後、科学や理性、技術とその産業利用は、もしかすると結局のところ人類の救いにはならないかもしれないという暗い疑念がはっきりと根付いた時でした。文明は行き詰まりを迎えたと見始める人々もいました。

そのとき子宮はまだ広々としていましたが、圧力は高まりつつありました。ここで私は生態系に対する成長の限界のことを強調するつもりはありません。『気候』の本で私が主張するように、生きとし生ける美しいもの全てを破壊することに対する良心の呵責が私たちに残っているとして、もしそれを失っても、地球は遠い将来まで私たちの拡大を受けれることができます。そうではなく、私が言いたいのはその徒労感、無意味さ、「出口なし」の感覚で、これはその頃の実存主義運動で芽生えました。私たちはまだ成長しつつありましたが、どこに向かっているわけでもありませんでした。それから1世紀の間に、この感覚は文化の前衛を超えて広がり、先進国の大衆を飲み込むまでになりました。実際それは発展とともにやって来ます。産業モデルのいう「発展途上」の地域では、希望が今も発展の約束に活気を与えています。でも発展が進むと、その約束の空虚さも明白さを増していきます。その結果起きるのは、感覚、意味、アイデンティティーの崩壊で、それは私たちが受け継いだ手段と方法に繰り返し裏切られることで高まっていきます。

科学と技術、近代医学とロボット工学、社会科学と理性的な政府は、もはや楽園を約束してくれません。そのような約束は1950年代の未来主義の博物館に飾られているだけです。現在それが提示するのは、せいぜい生活を耐えられるほどに改善すること、普通の状態に復旧すること、それに「持続可能性」を達成することぐらいです。

あらゆる方向から圧迫されて出口がないように見えるとき、胎児もそう思うかもしれません。どうすればこの状態をもう少し和らげられるでしょうか? 胎児は身をよじりますが、まったく楽にはなりません。

昨年に出現した惨めな絶望感を見つめてきたのは、文化に敏感な人々の中で私一人だけではないことが分かります。でも今私は風が変わったのを感じます。船は今までの惰性で前進を続けますが、新たなそよ風が湧き起こりつつあります。

子宮頸部が開いても陣痛は治まらず、かえって強まります。アメリカではここ160年、ヨーロッパではここ70年見たことのないような、社会の陣痛が起こる寸前に私たちはいます。(他の地域ではこのプロセスは短い時間に押し縮められ、全てがごちゃ混ぜになり加速された非直線的な混乱を作り出します。)陣痛は、経済の崩壊や自然災害、政変、社会的対立という形を取るかもしれません。何世代も何世紀も続いてきた古い「当たり前」は、驚くような速さで消滅します。

湧き起こる「新たなそよ風」は嵐となって吹きすさびます。雲はもう水平線の彼方にあるだけではありません。大雨を告げる雷鳴が聞こえます。サプライチェーンの寸断、森林火災、洪水と干ばつ、市民の暴動、交通網の機能停止、インターネットと電力の途絶、急進的な政治、加速するインフレなどです。

俗にいうように、これこそが「クソが現実になる」(つまり、マジでヤバい)時なのです。多くの人々にとって、それはもう起きています。最下層の人々、病んだ人々、迫害された人々、飢えた人々。そのような人々は、どちらかといえば社会の大半から隠されてきました。これまではワイドショーによって目をくらまされていたのですが、ジェイ・Zキム・カーダシアンの問題は以前ほど人目を引かなくなってきています。スポーツや有名人のゴシップ、エンタメでは、もう現実を押し留めることができなくなります。ニュースはもう画面上の物語ではなくなり、生活に押し入ってきます。出来事が、どこかの誰かではなく私たち自身に起き始めます。「普通」が存在しなくなるのは、いま私たちが通過点にいるからです。もう始まっているからです。

言い換えれば、私たちが入ろうとしている苦闘の時期は、重要な物事が懸かっていて、私たちの行動が重要なことは明らかなのです。私たちは産道を下りています。巨大な圧力が私たちにのしかかり、しばらく止まったかと思うと、また締め付けます。

私の人生の大部分では、国家と世界の舞台で過ぎゆく一年一年は前の年とほとんど同じに見え、その悪化は予測できました。これが変わりつつあります。2020年は異常な例外どころではありませんでした。「普通」が戻ることはありません。陣痛が来るたびに私たちは少し逆戻りするかもしれませんが、けっして完全に元の場所に戻ることはありません。毎回の陣痛は私たちを新たな領域に押していきます。それは世界の状況がだんだん良くなるということではありません。まったく反対です。陣痛のたびにますます厳しくなる状況は、私たちが生まれ出るまで改善することがありません。

私たちはどこかへ向かっています。それを私は証明できませんが、例えと信念を示して、あなたの直感に訴えるだけです。でもここに一つの兆候があります。私たちを絶望と皮肉に陥れていた停滞は終わったのです。それは椅子に深く座って解放の時を待てばいいという意味ではありません。その反対で、今こそ私たちは生命がかかっているように真剣に行動する時なのです。出産では仕事のほとんどを母がしますが、胎児の反応も重要です。生きたの出生は死産より容易です。これは人生が苦闘だと言う意味ではありません。多くの場合そうではありませんし、そうある必要もありません。でも苦闘する時もあり、草の芽は土を突き通し、蝶はさなぎを破って出てきます。間もなく、状況は私たちを居心地の良い場所から押し出すでしょう。居心地の良い場所は、出産を控えた子宮のように、もうずいぶん前から窮屈になっています。

自分が産道にいる胎児になったらどんなものか想像してみましょう。あなたから見れば膨大な圧力にさらされています。世界全体があなたにのし掛かってきます。その先に何があるか全く分からず、あなたを待つ新たな体験、息をし、うんちをし、お乳を飲み、目で見て、においを嗅ぐことを、それまでの人生から予測することは全く不可能です。それでもある程度は、強い圧力の中でさえ、何かが待っていることがあなたには分かります。このことは人類全体にも当てはまります。

生きて生まれる保証がないとしても、この自覚は正しいのです。その不確かさがあるからこそ、旅路は本物になります。新生児はとてつもない達成感を得ます。困難な旅を成し遂げた満足を体全体で感じます。それが、医学的には不要な帝王切開が非常に有害な理由のひとつです。それは根本的・基礎的な成就を子と母から奪ってしまいます。「私ならできる!」という感覚がなければ、私たちの社会にますます蔓延してきた、人を子ども扱いする権威主義に、人は簡単に屈するようになってしまいます。この苦闘と勝利という原形的な体験がなければ、人は従順と無力に陥りがちで、自分の力と主体性を信じることができず、進んで他人任せにし、ドナルド・トランプなら私たちを救ってくれると信じて、あるいはビル・ゲイツや善意の科学者とか医師に、自分の力を委譲してしまいます。でも全てが失われたわけではありません。その苦闘と勝利という体験を奪われた新生児の魂は、失われた誕生の段階を自分の人生でやり直すことで、それを人工的に作ることもできます。まずは第2段階、抑鬱と絶望です。次に生きるか死ぬかの苦闘、たとえば健康問題です。あるいは虐待的な関係から抜け出し、勝利を収め、達成感を持って新たな世界に入ります。救命のための帝王切開が悪いとか、そうして生まれた赤ちゃんが回復不能な害を受けていると言うわけではありません。でも、統計的なリスク便益分析には現れないかもしれませんが、誕生の選択にはこういう事柄も考慮に入れるべきなのです。

人類にとって帝王切開に相当するものが何なのか、私には良く分かりません。それは慈悲深い地球外生命が飛んできて私たちを苦闘から救ってくれることかもしれません。今のところ地球外生命は来ていませんが、それはたぶん私たちにまだ自分でやり遂げるチャンスが残っているからでしょう。私は4回の出産に立ち会っただけですが(それは私の人生で最高の体験ベスト4でした)、他の母親たちは私が気付いたことを裏付けてくれました。産道をゆっくりと下りてくるとき、ほとんど無理だと思うような瞬間をしばしば経験するということです。「私には無理」という瞬間です。でも普通はできるのです。

それは私たちにも当てはまります。人類が経験しているプロセスは不可能となるべく設計されたものではなく、重要な時に不可能と見えるだけなのです。私たちはこれをやり遂げることができます。それこそ私たちがここにいる理由です。

ここで、この例えはぐらつき始めます。母とは誰でしょうか? それは「母なる自然」で、あらゆる資源を誕生のプロセスのために捧げています。それは「母なる文化」でもあって、同じように全てを捧げています。自然も文化も私たち自身と切り離せません。私たちは赤ん坊であり、母でもあり、産婆でもあります。全てはその意識をこの瞬間に最も重要な一つのもの、生命となったものへと集中します。

胎児が産道で身をくねらせるのは、まさにそれです。生命に向けた奮闘です。それこそ私たちが集団としての誕生を迎えようとするときの指導原理です。それは生命に奉仕し、生命を崇敬し、生命を主張します。そこには生態学的な側面があって、生物学的な意味で生命に奉仕します。そこにはまた政治的な側面があり、人間の命を抑圧的な制度から取り戻します。そこには生きる意思も含まれています。たしかにそうですが、生きることは単に生存することではありません。私たちの大部分は、半分生きているだけの状態で、あまりにも長い間、生きてきました。私たちの誕生の衝動は生きること、それも能動態で生きることです。

私たちは何に生まれるのでしょうか? 産道の向こう側で人類を待っている世界のことを、私は述べようとしないでおきます。あなたがそれを知りたいなら、ビジョンや、先祖の記憶や、様々な黄金時代、絶頂体験、平和の奇跡、赦し、寛大さ、失敗に終わったユートピア的な社会実験が示した可能性という形を取る未来のさきがけを見るといいです。このような暗示は、胎児に別の世界を知らせる音や声、ほのかな光の動きのようなものです。でも今、重要なのは産道の向こうにある世界がどんなものかを知ることではありません。重要なのは、それが存在し私たちがそこに到達できると知ることだけです。子宮頸部は開きました。トンネルの向こうには光があります。今こそ力を込めて押すときです。


(原文リンク)https://charleseisenstein.substack.com/p/time-to-push

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 

著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸

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