見出し画像

コンクリートの世界

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


私たちは狂乱の中でも落ち着きを持って、緊急の時にも忍耐強くあることができます。悲しみを私たちの内に受け入れると、慈悲心と明晰さが続いて入ってきます。サイを刑務所やサンゴ礁やがん病棟と結ぶ不思議な因果の糸を一つにまとめて織り上げている知性に、私たちは畏敬の念を抱きます。でもそれは、私の友人が抱いた「もしも彼が正しかったら?」という身震いするような不安には答えてくれません。もしも未来が牛や豚や鶏とその糞が入ったコンクリートだけでできているとしたら?

本書で私は、人間の幸福と地球の健康は切っても切れないほどに結びついていて、そのような未来は全く不可能だという考えを書いてきました。ここで私は逆の考えを掘り下げていきます。それは、人間の創意工夫には限界がなく、私たちが生態系サービスを技術的代用品で置き換える能力も同じだというものです。

別の言葉で言い換えれば、もしも私がお話しした「相互共存(インタービーイング)の物語」 が間違いだったらどうしましょうか? もしも私たちが自分の行為の影響から永久に自分自身を隔離することが本当にできるとしたら? 気候変動についての意見のグラデーションの中で、もしも技術楽観主義の立場が正しくて、気候変動は人類が輝かしい運命に向かって競い合うレースの中での技術的ハードルにすぎないとしたら?

過去の文明が崩壊した原因を生態系の荒廃に求めることが流行っていますが、このような物語は批評にさらされています。たとえば有名なイースター島の例を考えてみて下さい。この島が、野生動物豊かな森に覆われた楽園から、大型動物が全くおらず木のない砂漠のような島へと変貌したことは、人口の急増と生態系破壊の教訓を含んだ実例として使われます。この物語を著書『文明崩壊』で広めたジャレド・ダイアモンドは、島の陸鳥と海鳥を狩り尽くして絶滅させ、有名な巨石像を建てることに熱中するあまり木々を切り倒してしまった結果、1万5千人以上の人口を持つ高度に発達した文明が貧困と共食いへと転落していった様を、年代を追って書きました[1]。私たちの現代文明との類似性は明らかです。

この物語には最近テリー・ハントらが疑問符を付けました。彼らが主張するのは、森林破壊に大きな役割を果たしたのは(ポリネシアからの入植者とともに島に渡ってきた)ネズミで、人口が1万5千人に達したことは一度も無く、ヨーロッパ人の到来までほとんど一定していたということです[2]。言い換えれば、生態系の崩壊は社会崩壊の結果ではなかったのです。それとは反対で、生態系が崩壊したにもかかわらず、この社会は荒れ果てた大地の上で人口と結束を維持しました。人々は砕いた火山岩を野菜畑にまき、これが徐々に分解されて肥料になりました。人々はタンパク源としてネズミを食べ、石像を造り続けるのに十分なほど豊かな生活を送っていました。博物学者のJ・B・マッキノンは、人口が減少し文化が解体したのは最初のヨーロッパ人との接触で新しい致命的な病気が島に持ち込まれた後のことだったと記しています[3]。最初の接触のとき、島の人々は食べ物などの「必需品」よりも帽子との取引に興味を引かれていました[4]。ここは絶望的な社会ではなかったのです。

歴史は往々にして同時代の先入観を投影するスクリーンとなります。私たちが生態系の崩壊を恐れる時代には、そのレンズを通して歴史を見るのも当然です。環境保護主義者が変化を促すのに役立ちそうな警告を強調するために、歴史上の例を意図的に使うこともあるでしょう。しかし、私たちが必要としている変化は自己本位の警告とは違う場所からやって来なければならないと私は思います。

私にとっては、修正主義のイースター島物語が暗示するものは、生態系破壊がもたらす崩壊の可能性より恐ろしいのです。それが意味するのは、「牛や豚や鶏とその糞」でできたコンクリートの世界が結局のところ可能かもしれないということです。マッキノンは辛辣で洞察に満ちた著書『永遠の世界』で次のように書いています。

イースター島の物語が表すのは、もし我々がこれまで以上に単純化され劣化した自然界に向けて現在の路線を行き続けた場合、我々の世界文化が行き着く終着点には二つの可能性があるということです。第一の物語では、自然と人類の運命は密接に絡み合っていて、両者は社会的・生態的な大惨事の中で共に悪化していきます。第二の物語では、人間と非人間の生命は異なる経路を取ります。地球の生態系は廃墟に成り果てますが、人々は耐え忍び、神を崇拝し地位の象徴を熱望しながら、イースター島民のネズミ肉と岩の畑の未来版ともいえるものによって生き長らえるのです[5]。

この一節が思い起こさせるのは悪夢の世界で、そこでは生物圏の全体が巨大な肥育場と工場団地に作り替えられ、地球の物質的な構成要素を技術的に微調整しながら地球全体を機械のように操り、人間の目的のために作り替えられていない生物種は一つも存在しません。人工的に維持された居住地を除けば、そこは生命にとって完全に有害な世界です。その世界にあるのは、培養肉、農場の代わりのコンピューター制御水耕栽培温室、酸素を作る藻の培養プール、大気組成を調整する炭素吸収装置、海水脱塩工場、エアコンと空気清浄機を装備したドーム都市、そして一個の巨大な鉱山とゴミ捨て場へと作り替えられた地表です。その世界では、人間の生活は完全に技術に依存するようになるとともに、私たちは自らが造りだした醜さを避けて、人工的というよりはバーチャルな環境へと逃げ込むのです。これはもう既に進行中だと言うことができないでしょうか? これは私が生きたいと望む世界ではありません。誰も生きたいとは望まないでしょうが、何千年にもわたり、人類全体は一つ一つの選択を重ねるごとに、一歩一歩「コンクリートの世界」に向かって進んできました。生態学に基づけばそれは不可能だと私は却下したいのですが、もしも可能だったらどうしましょう? それを拒否せずにはいられない気持ちに駆られてではなく、もしも私たちが意識的に別の道を選ばなければならないとしたらどうでしょう?

気候活動家は「私たちが今すぐ変わらなければ」と言うのを好みます。もしかすると気候変動の重要性は「変わるか滅ぶか」ではなくて、文明を数量ではなく美しさへと方向修正するように誘(いざな)っている点にあるのかもしれません。人間の力が生みだした結果を厳然と突き付け、気候変動はこう問いかけます。「あなたたちはどんな世界に生きたいと望むのですか?」

かつて無いほど劣化した生態系に技術で際限なく適応していくことが実際に可能かどうかに関わりなく、それが可能だという認識が、意識的な選択の必要性を私たちに示すのです。もしも生態系の荒廃が私たちに癒しの道を選ばせる力を持っているのなら、すでにそうなっているはずです。したがって、癒しの道を行くという選択は、無理強いではない別の根拠によらなければなりません。個人あるいは文明の絶滅という恐怖によって実現することはないでしょう。

繰り返しておきたいと思います。もしも生態系の荒廃が私たちに癒しの道を選ばせる力を持っているのなら、すでにそうなっているはずです。

癒すという選択は本当に私たちに押し付けられるものでしょうか? 肺が病に冒されているという最初の診断で禁煙する人もいますが、肺がんに身体を蝕まれながら気管切開の穴を通してタバコを吸い続ける人もいます。私たちがどん底まで落ち込み、今までの生活が耐えられないものとなる決定的瞬間に至るとき、いったい何が起きているのでしょうか?「もう十分だ、もう抜けよう」という言葉が出るのはいつなのでしょう? ついにその仕事を辞め、その関係から抜け出し、その旅に出て、その依存症を断ち、その恨みを手放すのはいつなのでしょう? ホールネス(全体性)へと向かう進路反転はある種の危機がきっかけとなって起きることが多いものですが、危機で必ずそうなるわけでもありません。一つ一つの危機、一つ一つの悲劇、一つ一つの新たな傷や喪失は、別の道へのいざないです。その誘いを受け入れるかどうかは私たちしだいです。

生物圏の荒廃が進むにつれ、私たちが数多くの危機や、悲劇、喪失に直面するのは確かです。さらなる喪失への恐れでは私たちの進路を変えるのに十分でないとしたら、いったい何ならできるのでしょう? 広く行き渡っている環境の物語では、特に気候のこととなると、人類への影響に対する恐れが基になります。私たちがその恐れから選ぶことがない以上、私たちは何に基づいて選択するのでしょうか?

ほとんどの人は恐れの対極として愛を挙げます。私はこの方程式を警戒していて、それだと慣れ親しんだ善悪対立のパラダイムを再現する方向に寄ってしまいます。恐れは悪いものとは限りませんし、時には覚醒状態と集中を高め、行動の触媒となることもあります。その行動は私たちが愛するものたちへの奉仕であるかもしれませんし、必ずしも自己保存のための行動とは限りません。私たちは愛するものを気づかい世話しますが、その気づかいが自分にとって目に見える利益となることが合理的にはあり得ないような場合であってもそうするのです。ときには愛するもののために命を犠牲にすることさえあります。愛は利己心よりも強く私たちを熱心な気づかいと世話に向かわせますし、ドクター・スースが絵本『ロラックス』に書いたように、「私たちが数え切れないぐらい一切合切いっさいがっさいを気づかい世話し始めることがなければ、何一つとして良くはならないでしょう。けっして。」自然は、私たちのしたことから私たちを救い出してはくれないのかもしれません。

ですから、私たちがより美しい世界に生きるために必要となる気づかいと世話は愛から来るものなのです。でも愛はどうすれば目覚めるのでしょう? ひとつのきっかけは喪失や悲しみ、そして死を意識することです。友だちや家族が病気になったり死の危険に遭遇したり、臨終に入ったりすると、その人の尊さという現実が、私のしがみつく思考パターンを乗り越え、私はより深い気づかいへと導かれます。残念ながら、こういった思考パターンには現代社会における死の否定(つまり、若さ、延命、成長への異常なこだわり)という強い味方があります。死の拒絶は命も遠ざけます。それは愛を奪い、私たちが自我と呼ぶ偽物を王座に祭り上げます。近代文明は人間の例外主義というイデオロギーの中で同様の主張を展開します。人間と人間社会は限界に制約されないのです。個人の自己であれ人類の集団的な自己であれ、切り離された自己が無制限に成長することは、愛とは相容れないものです。ですから、死と喪失と悲しみは愛の味方なのです。

愛の目覚めと表現において、もう一つの愛の仲間は、美です。私たちは美しいものと愛に落ち、愛するものに美を見出します。ならば、人類が世界と関係する動機と目的として、功利主義的な利益に代わって、美を考えようではありませんか。ネズミとコンクリートの世界が人の生きられるものであるかどうかに関わらず、マッキノンが描く「永遠の世界」ほどには美しくないことは間違いありません[6]。過去数世紀の探検者と博物学者は、北米大陸やその他の場所が植民地化される前は信じられないほど自然が豊かだったという圧倒的な証拠を残しています。もうひとつ、スティーブ・ニコールズの『楽園の発見』からの描写を引用します。

大西洋鮭があまりにもたくさん泳いでいるので音がうるさくて誰も眠れない。「牧草地が草で充満しているかのように、鳥で充満した」島々。クジラの数があまりに多いので船の航行が危険なほどで、潮吹きで海全体が泡立っている。横幅が30センチ以上もある牡蛎(カキ)。島を覆い尽くすシラサギのあまりの多さで茂みは真っ白に見えた。ハクチョウがあまりに多いので浜辺は白いカーテンが掛かったように見える。エスキモーコシャクシギがぎっしりと群れているので陸地が煙を上げているように見えた。高さ60メートルの白松。外周り6メートルのトウヒの木。幹周り9メートルのクロガシ。アメリカスズカケノキの幹にできた空洞が嵐の日に30人の男たちを収容できるほど広かった。90キロもあるタラ(今ではせいぜい5キロ)。タラ漁では「タラの数が砂粒の数と同じくらいあるように見えた」。「網を一度打つだけで600匹以上の魚が捕れ、一匹の魚は12人の入植者の食事となって余りある大きさだった」と報告した男。

私はこの描写を紹介するのに「信じられないほど」という言葉をわざと使いました。信じられないほどというのは「信じることが不可能」というようなことを意味しますが、じっさい、 物事がかつては今と非常に異なっていたという証拠を前にしたとき、不信感というのが普通の反応です。マッキノンは心理学で「変化の見落とし」と呼ばれるこの現象を説明するため、フロリダキーズでの魚の写真の逸話を使います。1940年代の古い写真には喜ぶ漁師たちと一緒に釣果(ちょうか)が写っていますが、それは男の身長と同じくらいのマカジキです。この写真を今の漁師に見せても、写真が本物だとは全く信じようとしません。

人間には環境の穏やかな変化に気付かないという傾向があって、現在の物事のあり方が過去もそうだったし未来もそうあり続けるのを当然と思います。私たちがこの世界の昔の美しさを知らない以上、それを惜しむことはないと、マッキノンなら言うでしょう。

惜しむことがないとは、私は言い切れないような気がします。私たちは確かに喪失感を感じながら、惜しんでいるものが何なのか分からないのだと私は思います。私たちが感じるのは空虚感、貧しさの感覚、何とは分からない何かへの渇望です。お金や消費財に転嫁されると、その飢餓感は絶え間ない破壊のサイクルを作り出します。薬物やギャンブル、アルコールに転嫁されると、依存症という解決不可能な社会問題を作り出します。もしかすると、ここには自然の荒廃の影響が否定できないのかもしれません。

この失われた豊かさの微かな感覚でさえ、私の心は深く養われ、いつの日か回復されるかもしれないある種の富を指し示します。むかしスコットランドの北海岸へ泳ぎに行きましたが、アシカが私を調べにやって来て、水から頭を出し滑稽な好奇心の表情を浮かべました。その情景は今でも私の頭の栄養となっています。兄の農場で6月に私はホタルを長いあいだ見つめていましたが、子どもの時いらい見たこともなかったような数でクリスマスのイルミネーションのように輝いていました。私はこの世界の中で故郷に帰ったような心安まる気持ちになりました。

ハリスバーグに住んでいたとき、私は家の近くの緑地帯へ毎日行っていました。その土地は市が囲いを作って立ち入り禁止にしていて、小川は漏れてくる下水で汚れ、林にはダニやツタウルシがはびこっていて夜は薬物の売人が商売をしていましたが、それでも私はとびきりの場所を見つけては小魚が戯れるのをながめに行ったり、鳥たちの隠れ家でじっと待っていたりしました。その心の栄養がなければ私は今この本を書いていなかったでしょう。

コンクリートの世界へと向かう人類の進歩の中で失われてしまったものは数多くありますが、それでも多くの美が残っています。地球はまだ生きています。今こそ命を選び取るときです。まだ手遅れではありません。

ゾウやサイやクジラのいない世界を思うと、ほとんどの人は喪失感を覚えるでしょう。でも、皮肉屋はこう言うかも知れません。その世界に慣れれば何かがいなくなったなんて分からなくなるさ。ピレネーアイベックスや毎年絶滅していく何百もの名も無い生物種がいなくなったことを、あなたが悲しむことなどたぶん無いのと同じように、と。しかし、「相互共存(インタービーイング)の物語」では、自己は関係性であって、一つ一つの絶滅は私たち自身を含む地球上の関係性の網の目を窮乏化するので、私たちは小さくなり単純化します。絶滅は、他の生き物たちを完全な存在に満たないものと見なし、自己の仲間から排除するイデオロギーの結末です。まず私たちの信念体系によって完全な存在から弾き出しますが、最終的にその弾き出しは取り返しのつかない物理的な形を取ります。はじめに分断の神話が私たちを仲間から(本当は私たち自身の一部なのに)切り離し、続いて仲間たちは永遠に滅びます。

この窮乏化は完全な絶滅以外のところでも進みます。多くの生物種は、完全に絶滅してはいなくても、もとの生息場所のごくわずかな一部だけに細々と生き残っています。そうして私たちの生きた実感から遠ざかっていきます。さらに、現代人はほとんど完全に商品、メディア、屋内の世界で生きていて、身の回りに残っている生き物たちからも疎遠になっています。私は鳥のさえずりから10種類以上の名前と見た目を言い当てることはできません。あなたはできますか? できるといいのですが、この文化の中に生きる人の多くは無理だと思います。これほどの疎外が今では普通になっています。

この一つの結果がますます深刻化する孤独で、屋内の世界、工業製品の世界、デジタルの世界にあるものでは癒すことのできない痛みです。私たちは多種多様な関係性が補ってくれていたものを惜しみ懐かしみます。標準化され、デジタル化され、抽象化された関係は完全な人間存在を育んではくれません。標準化された商品に囲まれ、見知らぬ人ばかりの公共空間に行き、インターネットでのやり取りがますます増え、空調の効いた家と加工食品と機械を介した労働の世界で自然との親密な関係からは遠ざけられ、私たちは自分の存在そのものが貧しくなっています。それでも私たちはまだ生きていると言えるでしょうか? はい、「分断の物語」の観点からは、私たちは生存を続けています。でもそれは部分的で無気力な存在です。相互に繋がった自己にとって、存在はイエス・ノーの二択ではありません。存在には関係性の豊かさに応じた度合いがあるのです。

「合成食品とコンクリートの藻類培養プールの世界で私たちは生き残れるだろうか?」は、間違った問いだと私は思います。もっと良い問いは「私たちは何になるのか?」「私たちは誰になりたいのか?」そして「私たちはどんな世界を選ぶべきなのか?」でしょう。

気候危機と全般的な生態系の危機は私たち人類の生存についての問題とは全く違うのかもしれません。それは全く新たな方向性に入る通過儀礼なのかもしれません。ならばこの問いは私たちが生き残れるかどうかではなく、私たちがどのように生きたいかというものになります。持続可能性をどうすれば達成できるかではなく、私たちが持続させたいものは何なのかということになるのです。


注:
[1] ダイアモンド(2005)。

[2] ハント(2006)。

[3] マッキノン(2013)p. 199。

[4] 同上 p. 198。

[5] 同上。

[6] 読者の皆さんは、美的感性は人それぞれで、ガラス張りの高層ビルを森林や滝より美しいと感じる人もいると異議を唱えるかもしれません。私自身は美しいと感じる高層ビルもあります(ただし1950年以後に建てられたものはほとんどありません)。 こう問うこともできるでしょう。鉄とガラスとクロームメッキの環境に人々を惹きつけているのは、本当に美しさなのか、それとも安心感なのだろうか? そこに欠けているものが何なのかを分かっているのだろうか?

(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-concrete-world/

次> 選択の前提
 目次
前< すべては1頭のサイの中に

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


いいなと思ったら応援しよう!