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時間、お金、商品

訳者コメント:
自分で何かをするのはタイパが悪い。そんなことしてるぐらいなら、お金を出して既製品を買った方がいい、人にやってもらった方がいい。じゃあその間に自分は何をするのか? 自分の時間を売ってお金にすれば、得られたお金でできることが増える。お金で買えるのは「商品グッズ」と「サービス」。それがじつは、売り渡してしまった時間の、失われた人生の、代用品に過ぎないということに、もっと自覚的であっても良いのかもしれません。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


4.8 時間、お金、商品

社会資本、文化資本、自然資本、魂の資本は密接に絡み合っています。歌や映像といった文化資本を私物化することは、それを生み出す人間関係という社会資本を破壊し、個人の創造力という魂の資本を侵食することでもあります。さらに、音楽や映像は、自然の音や振動比、電磁スペクトルに由来することから、自然資本とも考えられます。

これら4種類の非貨幣資本の他にも、もっと多くの資本の種類があるでしょう。例えば、美的資本は、手つかずの景色、自然の景観、そして国土のほとんどから消えかけている何にも邪魔されない静けさからなるものです。私たちは満天の星空のような喜びに金銭的な価値を見出すことなど滅多にありませんし、文明が灯した照明がいちばん明るい30個か40個の星以外を全部消し去ってしまうのを強盗だと見なすこともありません。航空会社は、ここからロサンゼルスまで全ての空をジェット機の飛行機雲が損なうことで、一般市民から何を奪っているのか理解しません。電力会社は、ほぼ全ての景観に送電線が張り巡らされている悲劇を理解しません。最近の子供たちの多くは、自然の静けさを体験したことがありません。私の住む郊外の一角に残された公園や森では、どこへ行っても工事車両がバックする警報音やエンジンのうなりが聞こえます。[訳註]

この全てに加えて、高速道路や工業施設、大規模店舗、商店長屋に付きまとう全般的な景観の醜悪化もそれに拍車をかけ、私たちは目を見開いて美しいものを眺めるという、あまりに基本的なので失ったと認識することも滅多にないような、ある種の富を失ってしまいました。私たちが作り出した人間の領域から逃れるような場所は、いよいよどこにも無くなってきました。

逆説的ですが、お金が美しさを醜さに変える原動力となっている一方で、美しさを購入する、つまり外界の醜さから隔絶された世界の一角を購入するためには、お金がますます必要になっています。美しい眺めの家は不動産市場でプレミアムがつきます。人里離れた場所への休暇旅行なら最高額でも払います。手作りの一品物いっぴんものは無個性な大量生産品よりも高価です。かつては誰もが自由に享受できた美という富は、今や富裕層だけのものとなりつつあります。こちらの道路ではブルドーザーが藪や樹木を粉砕し、新しい大型店を建設しています。丘の向こうでは新しいハイウェイが唸りを上げています。舗装と広場と騒音が、私の周りに蔓延しています。もしかして私がお金持ちになったら、この全てを離れた何もない田舎に家を買うかもしれません。

これに関連する富の形態が、一種の精神的な静寂であり、その商品化された形はマインドスペースと呼ばれます。私たちの注目は、広告主など売りたい製品やアイデアを持っている人にとって売り物なのです。その結果、絶え間なく流される商業メッセージによって、精神的な環境はゴチャゴチャになります。看板にも、バスの車体にも、請求書にも、映画の前にも、スポーツイベントにも。私が子供の頃、野球場でも地元の芸術祭のプログラムにも、企業のロゴを見た記憶はありません。あらゆる空きスペースや空き時間は、金のなる木なのです。広告主は[ニューヨークのマンハッタン島に入る]リンカーン・トンネルで通常のラジオ放送が途切れる7分ぐらいの間、トンネル内にコマーシャルを放送する特別なラジオ局の時間を買うことができるというのを読んだことがあります。今日では、各店舗の前を通り過ぎる歩行者に対して、その場所に応じたメッセージを伝える新しい音響技術の話さえあります。

社会資本の変種に「市民資本」というものがあります。市民資本とは、民主主義社会に効果的に参加するための自信と政治的技術の両方を含む、一般化され文化的に伝わる、政治と政府への参加のことです。政治学者ロバート・パットナムは、著書『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生―』の中で、民主的市民権を単なる投票の問題に、つまり「箱の中の無意味な選択肢」にまで貶めてしまった、市民参加の数世代にわたる衰退を、年代を追って描いています。最近では地方自治に有意義に参加する人はほとんどいませんが、それはかつて政治的影響力を行使していた地域社会のネットワークが、他の側面とともに消滅してしまったからです。ますます私たちは上から与えられた選択肢から選ぶことで満足するようになってきました。(とはいえ、最近この傾向が逆転しつつある兆しはあります。)

最後に、私たちは生理資本や健康資本とでも呼べるものを失いつつあります。それは人体の生物学的資質と能力です。人間の能力の多くが退化し、テクノロジーで補っていることは明らかです。たとえば、ほとんどの人が自然の中で食料や住居を手に入れる方法を知らないというだけでなく、50歳以上のアメリカ人の多くは様々な医薬品がないと生きていけません。また、ほとんどの女性は子供を産むにもテクノロジーの助けが必要です。やがては受胎するためにさえ必要となるかもしれません。不妊症は世界的に増加している問題であり、最近の研究では精子の数が年間約2%減少していることが確認されています[31]。

テクノロジーの支援と快適さは、生物学的なレベルで生き延びるのに必要な杖となりました。これを認めないわけにはいきませんが、依存のほとんどは錯覚であり、無知の結果です。医薬品の場合、自然療法と身体からだを保つ方法への無知です。出産の場合、女性の身体からだに対する制度的な不信と、専門家の援助を求めざるをえないような恐怖が女性に教え込まれていることです。テクノロジーへの依存はまだ全面的ではありませんが、私たちがゆっくりと、しかし確実に失いつつある能力には、歩くこと、眠ること、しゃがむこと、胡座あぐらをかくこと、走ること、排便すること(テレビで便秘薬のコマーシャルが多いのはなぜでしょう)、そして呼吸することさえも含まれています。かつてこれらの能力が果たしていた働きを、テクノロジーが私たちに代わって果たしてくれるのです。

ほとんどの場合、この依存性は(まだ)遺伝子に組み込まれておらず、原理的には回復可能です。それでも、私たちは身体的な健康の多くを貨幣経済の要求に売り渡すか、少なくとも抵当として差し出してきました。私の健康は資産であり、たとえばオフィスでの残業や危険な環境での労働によってお金に換えることができる資源なのです。誰かから何かを奪っておいて、それをまた売り戻すという、永久不滅の商売のアイデアを覚えているでしょうか? テクノロジー社会は、その便利さと要求を通して私たちから健康を奪い、そして今、薬、サプリメント、フィットネス・センターなどといった策略を通して、お金と引き換えに売り戻していて、その全てがあるからこそ私たちは現在の世界に対処できているのです。寒さに長時間耐えたり、木に登ったり、10キロも歩いたりする必要がほとんどないテクノロジー社会では、そのような見せかけの健康を保っているだけでも普通は十分なのですが、自然の中で暮らす人間が享受する健康水準より、はるかに低いものです。

現在の傾向が続けば、医療技術への依存はますます深刻になり、生まれたときから、あるいはその前から、医療機器などのテクノロジーを人体に組み込むという、SFの世界に到達することになるでしょう。遺伝子が人工的に操作されたり、特定の形質が選択されたりした「デザイナーベビー」の話が、もう出ています。コンピューターチップやさまざまな時限放出薬の体内埋め込みが、すでに行われています。そして、いつの日か精神的・肉体的能力が大幅に強化された超人類が誕生するという話もありますが、これまでのところ、その応用例のほとんどは、単に不健康な人々が何とか生きていくのを助けるだけのものです。

いま私たちは謎めいた新しい病気の流行を経験していますが、そのほとんどが免疫系の機能不全です。「科学は治療の開発に向けて前進している」と私たちは聞かされますが、別の見方をすれば、それは薬物療法や遺伝子治療のようなものを(おそらく生涯にわたって)続けることであり、それなしでは生きられない身体にテクノロジーを組み込んで生き続けるということです。ほとんどの代替医療専門家の意見では、21世紀の病気は(環境中の毒素、身体を動かすことの少ない生活、工業的加工食品をはじめとする)テクノロジーが原因なので、ハイテク医療を利用することは、そもそもテクノロジーが私たちから奪ったものを買い戻すことに他なりません。言い換えれば、私たちは生理資本や遺伝子資本を金融資本に転換しているのです。私たちは健康を売り払い、劣った代用品を買い戻しているだけなのです。

前に私は、「人が自分でやっていることは他に何があるでしょう?」と書きました。「サービス」に転換できるものは他に何があるでしょうか? 身体の一部、臓器やその機能はどうでしょう? ここで私が考えているのは、世界中の貧しい人々に自分の腎臓を欧米での臓器移植のために売るよう仕向けている腎臓産業のことです。もうひとつの成長産業は代理子宮ビジネスで、これは第三世界への委託が増加しています[32]。受胎から妊娠、出産まで、授乳からデイケア、学校まで、少年野球からサマーキャンプ、電子娯楽に至るまで、人間を作る過程プロセスは、極端に言うなら、一連のサービスとなるのです。オルダス・ハクスリーの悪夢から、本当に遠くないところまで来ています。

私たちが置かれた窮状の深刻さに気づけば、失われた富の一部を取り戻したいと思うのは自然なことです。しかし、失った健康や繋がり、物語や想像力、能力や人間関係を取り戻すことは、決して些細ささいなことではありません。人間関係を維持してきた旧来の構造の多くが破壊され、私たちは孤独で無力になりました。どこから始めたらいいのかさえ分かりません。さらに、人生の金銭化は容赦ない不安と心配を生み出し、私たちを無理やり服従させます。生き延びるためのわざが全て売り払われたとき、私たちはお金に依存することになります。人々が「経済的安定」を得るという目的のため、まさにお金のために人生を犠牲にしていることを考えれば、これは最高の皮肉です。かつてお金は(自給自足農民のように)生存にとって副次的なものでしたが、今や生存のための手段と同じ意味になりました。物理的、社会的、文化的な世界を所有物へと転換した当然の帰結として、私たちは生きるためにお金を払わなければなりません。これこそが、私たちの文化に蔓延する不安と貪欲の原因であって、人間の本性に罪深さがあるからではない、ということではないでしょうか?

お金への依存は、お金に暗示される競争の絶え間ない激化と相まって、自分自身のために人生を取り戻すことが、単に困難なだけでなく不合理であることを意味します。私たちの生活の営みを担っているのは遠くにいるプロや専門家たちですが、私たちよりもずっと効率良く仕事をこなします。料理を一から作り、庭を耕し、自分の車を修理し、自分で音楽を奏で、自分で服を作るというのは、経済的に非効率な行為なので、人生という大きな競争で後れを取ることになるのです。経済学で、「合理的」という言葉は自分の経済的利益を最大化することを意味しますが、これは非常に重要な仮定です。あなたの時間にはどれだけの価値があるのでしょうか? 1時間あたり何ドルですか? 自分でオイルを交換したら、どれだけの節約になるか計算してみましょう。(あなた自身の労働にかかる「コスト」も含めてください。)専門家に任せる方が合理的だということが分かるでしょう。息子の誕生日ケーキはスーパーのパン屋で専門家に焼いてもらう方が合理的です(ケーキの値段はたった4ドルで、1時間以上はかかります)。膨大なスケールメリットを持つ専門家に料理を全て任せる方が合理的です。専門の業者に家の掃除や子供の世話を任せる方が合理的です。結局のところ、時間はお金なのです。

この考え方は明らかに空虚なものですが、それは(「時は金なり」という言葉が示すように)人生をお金に落とし込んでしまうからです。しかし、人生のお金への落とし込みこそ、私たちが選択し、あるいはやむを得ず選択していることによって起きていることなのです。それはまさに、テクノロジーが私たちの生活をより便利にしてくれるたびに起きていることです。生命をお金に落とし込むということは、社会、魂、文化、自然のあらゆる形の資本を金融資本に変える、まさにこの膨大な転換を通じて起きているのです。

「時は金なり」という方程式が、問題の核心へと導いてくれます。あらゆる世界とそこにある全てのものを所有物に変えてしまった私たちは、同じ方程式を時間そのものに適用し、私たちのあらゆる相互関係を経済的正当性という計算の対象にします。この言葉に規範化されているのは、人の命の完全な金銭化に他なりません。賃金という考えには何か恐ろしく醜悪なものが含まれていて、それは自分の時間を売ることであり、自分の人生を売ることです。あなたは自分の人生の時間そのものを売っているのです。このような概念は、産業革命初期に実に大きな抵抗運動を巻き起こしましたが、それより前なら、カークパトリック・セールの言葉によれば、「時間は商品ではなく媒体だった」のです。しかし、組立ラインの労働者や産業機械のオペレーターの機械的な繰り返しの動作が、自営職人の技能に取って代わるにつれ、技能はますます不要なものになり、労働者は時間しか提供するものがなくなっていきました。生活そのものが金銭化されることに、彼らは勇敢に抵抗しましたが、その代償として困窮に陥ることさえありました。そして、「労働規律」をどのように浸透させ徹底させるかという問題が、当時の知識人の間で主要な話題となりました。

残念ながら、その空虚さは明らかかもしれませんが、人生をお金に落とし込むということは、経済学の前提や公共政策の基準に深いレベルで書き込まれているのです。その概念的な大義名分の根幹はジェレミー・ベンサムの哲学に始まったものですが、彼の考えでは政府の義務は幸福の総計を最大化することにありました。ガリレオの伝統に基づいて彼が取った道は、善の数値化、つまり彼が「効用」と呼ぶものを数値化することでした。そうすれば、政策Aから得られる効用の合計を計算し、政策Bの合計と比較し、幸福の「効用」を最も多く生み出す政策を選ぶのは簡単なことになるはずでした。

幸福や善を数値化するということは、意見する必要もないほど馬鹿げた考えだと思うでしょう。それが本当なら良いのですが。実際、私たちはベンサムの提案を実行に移そうとしてきましたが、それは偽装した形を取りました。「効用」ではなく、私たちは善をドルで表示するのです。

経済学では、私たちは合理的な行為者、つまり「経済人」であり、自己利益の最大化、つまりドルで測られる個人にとっての善を最大化しようと求めるのだと断言します。経済成長が有益な善であるという前提があれば、国家の善もまたドルで表現されます。経済成長は、国内総生産、つまりドル建てで測定されるすべての「財」とサービスの総価値と定義されます。もうひとつの重要な善の定量化は費用便益分析に具体化されていて、そこでは関連するすべての費用と便益に金銭的価値を割り当てることができると仮定します。そうすることで、人の命にさえ価値を付ける必要が出てきます。10人の命を救う安全設備に10億ドルを費やす価値があるでしょうか? 人の命にはどれほどの価値があるのでしょうか? あなたの命にはどれほどの価値があるのでしょうか? このような考え方が持つ、文字どおり命をお金に落とし込むという、恐ろしく醜悪な意味合いは明らかです。倫理学者たちはこの問題に頭を悩ませていますが、善の数値化を続ける限り満足のいく解決策はありません。

しかし経済学者の中には、この数値化が十分に進んでいないと考える人もいるようです。ゲイリー・ベッカーに代表されるように、犯罪から結婚、教育の追求に至るまで、経済的計算がすべての人間関係を支配していると主張します。ベッカーは、「ミクロ経済分析の領域を非市場行動を含む人間の行動と相互作用の広い範囲に拡大した」ことでノーベル賞を受賞しましたが[33]、市場メカニズムをこれらの残された非市場領域にまで拡大することを提唱しています[34]。ああ、人生の金銭化さえ完了すれば、人生は完璧に合理的で、完璧に効率的なものになるのでしょう。

人間の活動で作られた販売可能な産物を表すのに、「商品(グッズ、善)」という言葉を使うのは、そこに非常に深い前提があることを明らかにします。第一に、農耕を思い起こせば、善は自然そのものからではなく、人間が自然を操作することによって生まれるということを示唆しています。商品(きもの)とは、地中、水中、森林から取り出されたものに、他の加工を経て生産されるものです。改善されなければ、自然は善ではありません。地中に埋蔵された石油や放置された森林は、経済計算からは見えません。それらがまだ「商品グッズ」でないのは、母親がお金をもらわずに世話しても、まだ「サービス」でないのと同じです。第二の含みは、何かが善なるものであれば、価格を付け、商品化し、売り買いできるということです。分かりましたか? 私たちが考える「商品グッズ」とは、お金と交換できるものです。お金=善なのです。まだ商品になっていない「良い」ものがあるということは、社会、文化、魂、自然の資本からの転換がまだ完了していないことを意味します。経済学者以外にとっては良い知らせです。経済学者から見れば、経済成長はより多くの「善」をもたらすという方程式が、経済成長の追求に道徳的な要請を加えるのです。もっともっと善があれば、もっともっと幸福が得られる。人類の上昇です。「もう十分だと叫んだり制限を求めたりするのは反逆だ。幸福と生産拡大は一体になったのだ。」[35]


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注:
[31] 何年か論争が続いたが、カリフォルニア州保健サービス局のシャナ・スワンが主導した大規模なメタ研究(マギー・フォックス[Magie Fox]の『Sperm Count Decline Confirmed(精子数の減少を確認)』, ロイター, 1997年11月24日)によって、精子数の減少という現象が確認された。理由については意見が一致しないが、私が思うに、主な原因はPCBなどの有害なエストロゲン様化学物質、食事に含まれる過剰な大豆、工業用食肉動物に含まれるホルモン、そしてピチピチのパンツだと思う。最後のは冗談ですけど。
[32] たとえばこれを参照。『India’s New Outsourcing Business – Wombs(インドの新外注産業、代理子宮)』, スダ・ラマチャンドラン[Sudha Ramachandran.]アジアタイムズ, 2006年6月16日.
[33] これは1992年にベッカーに賞を授与した際のノーベル財団の公式見解である。詳細はここを参照。http://nobelprize.org/economics/laureates/1992/press.html
[34] この見方の超合理主義と抽象化については、ゲイリー・ベッカーとリチャード・ポズナー判事のブログを参照。http://www.becker-posner-blog.com
[35] ルイス・マンフォード[Lewis Mumford,] 『Technics and Civilization(技術と文明)』, p. 104

訳註:
アメリカでは大型車両や建設機械がバックするとき警報音を出すことが義務付けられているので、大抵どこでもこのような音が耳に入る。
https://www.youtube.com/watch?v=QfiS6P4fiQo


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-08/

2008 Charles Eisenstein


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