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現実を落とし込む(前)

訳者コメント:
 この節では還元主義(reductionism)を批評します。日本語の「還元」と英語の reduction とは、かなり違うニュアンスがあります。reduction は reduce すること、減らすこと、小さくすることです。この二つがなぜ訳語として対応するのかですが、この文脈でのreductionは、大きく複雑なものを小さく単純なものに切り分けて(つまり落とし込んで)理解・説明することです。これに日本語の「還元」を当てたのは、根源的なものに立ち帰るという意味を捉えたためです。しかし、還元には「元に戻すこと」(例えば利益還元や酸化還元)という意味があり、還元主義ということの理解が妨げられてしまいます。
 この翻訳では「還元主義」や「還元」という用語を尊重しつつ、可能な限り「落とし込む」という表現を使っています。「落とす」という言葉によって、チャールズの主張する「劣化」のニュアンスが込められると思うからです。
 前半では、科学、教育、宗教の中にある還元主義について語られます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


3.5 現実を落とし込む

人間はついに千年の夢から覚めねばならず、そうすることで人間の完全な孤独、根源的な孤立に目覚めねばならない。いま人間がようやく気付くのは、ジプシーのように、自分が異世界との境界に生きていることだ。その異世界は彼の音楽に耳を貸さず、彼の希望にも、彼の苦しみや犯罪にも無関心なのだ。(ジャック・モノー)

還元主義は他の種類の説明を否定しませんが、還元主義的な説明こそが基本的あるいは第一義的だとします。「いま鼻を掻いたのはなぜだろう?」還元論的な説明は次のようなものです。「鼻の粘膜にある神経受容体の興奮が、脳内の神経細胞に生体電気インパルスを送り、それによって神経伝達物質がシナプスから放出されることで別のニューロンに伝達され、また別のニューロンに伝達されて、やがて筋繊維が特定の順序で痙攣を起こし、それが私の手を鼻に近付けたのだ。」 もちろん、「痒かったから」という説明もありますが、この高次の現象は神経細胞など(究極的には生化学的に記述できる)様々な状態の総和に他なりません。それが「痒かった」の本当の意味なんでしょう?

そして、なぜ私は5歳の息子が泣いているときハグしてあげたのでしょうか? またもや、完全に決定論的な化学的・電気的因果関係の長い連鎖を経て、音波がニューロンを刺激し、一連の神経発火パターンとホルモン分泌を引き起こし、これらが次に他のニューロンを刺激して、心地よい表情、音声、ハグを生み出すさまざまな筋肉の収縮を引き起こしたのです。もちろん、こうも言えます。「私は彼を慰めたかったからハグしたのです。」でも他の全てのことと同じように、この「〜したい」という気持ちは物質の状態に還元されるのです。「そう、あなたは彼をハグしたかったのだが、本当の意味は、ホルモンA、B、Cの分泌、神経伝達物質D、E、Fの分泌、脳の網様体における特定の発火パターンなどだ。それが『ハグしたい』ということの実体なのだ。」

この文の不条理は、還元主義がイデオロギーであって、必ずしも実際に科学が実践されている方法ではないことを明らかにします。ハグを素粒子と力の連携へと完全に落とし込んだとしても、その過程にあるさまざまな状態を愛や心地よさなどのような高次元の機能として解釈しない限り、それは全く何の説明にもならないでしょう。さらに科学でも目的論的説明は、「サケはなぜ内陸に向かって泳ぐのか?産卵場所に行くためだ」のように、極めて一般的です。還元主義というイデオロギーがほのめかすのは、このような記述は単なる合言葉に過ぎず、その背後には、例えば産卵行動を生み出す生化学的な「メカニズム」を生み出す遺伝的要因があるというような、「より深い」説明があるということです。

還元主義はその名の通り、根源的なものに立ち帰る、つまり複雑なものを単純なもので説明しようとします。ニュートンがケプラーの複雑な経験的惑星運動法則を説明するのに一つの単純な公式を用いたように、還元主義は全ての複雑な振る舞いが数種類の単純な相互作用の総和から生じると仮定します。例えば気体の運動論は、非常にたくさんの小さな粒子(分子)が互いにぶつかり合う統計的性質から導き出すことができます。圧力、体積、温度という高次の法則は、より低次で基本的なニュートン力学の法則から生じるのです。これが見た目の根底にある現実なのだ。複雑なものを単純なものに還元したら、我々はライプニッツの後に従うことができる。さあ計算しようじゃないか。

還元主義の企てが無限の落とし込みで収拾がつかなくなるのを避けるため、基礎的で還元不可能な構成要素、つまり「元素エレメント」へと最終的に行き着く他ありません。初等の教科書に頻繁に登場する「基礎エレメント」という言葉は、私たちが還元主義を前提にしていることを物語っています。まず基本から始めて、そこから積み上げていくのです。でもこのような教育法は退屈なだけでなく効果もないことは、有機化学や微分方程式の科目で苦労したことのある人なら誰でも証言できるでしょう。数学や科学を教えるなら、歴史的な背景から教える方がずっと良いのです。例えば、抽象代数学の初級科目では、ぐんを定義する公理を列挙するところから始めてはいけません。重要な歴史的問題、例えば五次方程式が代数的に解けないことから出発し、それが解かれるまで抽象化が段階的に上がっていく経過をたどります。歴史にならうことで、公理は数学という分野の出発点ではなく、終着点として到達することになるのです。「基本」とは、文脈と興味と動機を身につけることです。

あらゆる外見は数種類の基本的要素の異なる組み合わせに過ぎないという考えは、中国の五行思想、ギリシャの四元素、ヒンズー教の三ドーシャなど、古代にまで遡りますが、主にはギリシャの原子論と関連しています[14]。それが育む信念は、自然を完全にコントロールできる可能性があるというものです。私たちがしなければならないのは、これら少数の構成要素を使いこなすことだけ。身体を四体液に還元したギリシャの医者にとっても、物質を原子一つ一つから構築しようと目論む現代のナノ・エンジニアにとっても、〈還元主義〉が提供する同じビジョンは「自然を支配する無限の力」です。

私たちの体験という複雑な世界を有限の要素という単純なものに落とし込むことは、第2章で述べたような、言語と尺度によって唯一無二のものから一般的なものへ落とし込むことと類似しています。唯一性は幻想なのだ。全ての物体は、一般的な同一の陽子、中性子、電子が(今はこのように単純化しておきましょう)異なる組み合わせをとったものに過ぎないのだ。還元主義の企てでは、ある一つの要素が二つあったとすると、それらは同一であると考えます。電子は電子であって、電子なのだ。同じことが、陽子や中性子、それらから作られる全てのもの、つまり全ての原子、全ての物質にも当てはまります。確実性とコントロールのどちらにも、この無個性な一般性が求められます。ある物事をその要素に還元すれば、その特徴を完全に把握したことになります。それ以上の変動要因はなく、私たちの手の届かないような個性も独自性もありません。還元主義によれば、無限の現実を有限の名前とデータの集合に還元することは、実際には全く落とし込みなどではないということになります。十分に徹底すれば、名前と数は現実を完全に包み込み、取り残されるものは何も無いのです。

もし宇宙に存在する物質の一つ一つが唯一無二なら、もし水の一滴一滴が他のどれとも異なるなら、もし電子の一つ一つに個性があるとしたら、還元主義にとっては最悪の事態です。もちろん、これはまさにテクノロジー以前の人々が持っていた世界の見方です。精霊信仰アニミズムでは全てのものに魂が宿っていると考えるので、どの岩もただの岩ではなく、どのタンポポもただのタンポポではなく、どの水滴もただの水滴ではありません。それぞれが持つ個性は、どれほど細分化した名前を付けても捉えることができません。不思議なことに、量子力学はまさにこれを裏付けているように見えます。同じ実験環境でも、二つの電子はそれぞれ別の人格を持つかのように異なった振る舞いをします。従来の解釈ではこの状況を確率論的に扱い、両者が同一であることに変わりはないと主張してきました。宇宙に存在する二つの物質が唯一無二で還元不可能だという可能性はほとんど考慮されませんが、もしそうならば還元主義の企ては粉砕され、現実は完全な記述とコントロールの域を超えたところへと永遠に逃げ去ってしまうからです。デヴィッド・ボームがしたような量子力学の解釈は、「隠された変数」の存在によって異なる振る舞いをする電子は異なるものであると認めることになるため、科学の権威にとっては忌むべきものです。結局、私たちは精霊信仰アニミズムに戻ることになるのです[15]。同じことが言えるのは、水についての気付きの芽生えで、それは水が均一な流体ではなく、地球上の水の一滴一滴が構造的に唯一無二だというものです。主流科学は長い間この情報を無視してきましたが、それは現実を一握りの一般的な要素、つまり「構成要素」に還元するという企てに沿わないからです。この言い方に企ての動機が改めて示されています。つまり、私たちもこれらの「構成要素」を使って改善された現実を構築できるということです。

自然をその要素へと還元することで得られる力と確実性は、これらの要素が本当に基本的なものである範囲内にしか当てはまりません。おそらくそれが理由で、フランスの著名な化学者、ルイ・ケルブランが1960年代に、ある種の元素が日常的に低温で生物学的元素転換されるという説得力のある証拠を示した研究に対して、激しい組織的な抵抗を受けたのです[16]。またそれが後押ししたのは、気まぐれで厄介で複雑に見える化学元素の性質を、わずか数個の単純な素粒子という観点から説明しようとする試みで(これは成功)、次いで様々な素粒子の一見気まぐれな大きさの力を、先に述べた「万物の理論」の一部となる単一の力に統一する試みが行われました(が、あまり成功しませんでした)。現在、あらゆるものを少数の基本的構成要素に落とし込もうという野望は大問題にぶつかっています。物理学で観測される全ての相互作用を説明するための「基本」粒子の数が、元々92種類あった化学元素の数さえも上回って急増しているのです。私たちが聞かされているのは、またしても、これらの粒子がもっと根源的な何物かが作り出す数々の組み合わせに過ぎないとする〈統一理論〉に、物理学者は近づきつつあるということです。アインシュタインの時代から目前に迫っているとされるこの〈万物の理論〉とテクノロジーの〈ユートピア〉は、驚くほど類似しています。あと数回の発見があればいいのです。

私たちは有限の構成要素を使ってより良い現実を構築することができるのでしょうか? それは、現実そのものも有限である場合だけです。私たちは天まで届く塔を建てられるでしょうか? それは、空が有限の距離にある場合だけです。興味深いことに、この記事を書いている時点で、正統的な宇宙論は有限の宇宙を仮定しています。巨視的な方向では境界があり、微視的な方向では離散的です。前者の限界はビッグバン宇宙論の産物で、後者は時間と空間を量子化した結果です。宇宙のありとあらゆる変数は、その値の範囲が有限です。その結果、組み合わせの数は天文学的な数字をも超え、あらゆる実用目的にとって無限といえますが、それは私たちが17世紀以来もっている、全宇宙は数字にすぎないというおごりを強化します。いかなる現実の側面も、きっといつの日か人間の領域に取り込まれるだろう。

還元主義という企ての根底にあるのは、現実の本質についての深い思い込みです。第2章での議論とは裏腹に、私たちは世界に名前と数を付けることで世界を落とし込み貧しいものにしますが、還元主義では本質的なものが失われることはないと決めつけています。それが意味するのは、消えてしまったように見えるもの、つまり神聖さ、美しさ、意味、魂は、もともと存在などしなかったはずだということです。それらは幻想であり、人の投影なのであって、冷厳な現実の一部ではないのだ。世界をバラバラにしても、そんなものは存在しない。もし存在するなら、どこにあるのか?

人間の魂はどこにあるのでしょう? デカルトの考えに反して、それは松果体にはありません。心臓にもありません。脳下垂体にも肝臓にも胃にもありません。人をバラバラに分解しても、そこにはありません。還元主義の考えでは、もし何かが存在するなら、それを抽出し、分離し、切り離すことができます。(ここでもまた宗教が科学に同調していることに注目してください。魂は肉体とは別であり、切り離せるのです。)

美しさはどこにあるのでしょう? それは蝶の中にありますが、クロロホルムをかけ、解剖台に並べ、切り離すと、美しさは消えてしまいます。美しさは詩の中にありますが、その詩のどこが美しいかを正確に見つけようとして分析し過ぎると、そこからも美しさは消えてしまいます。美しさは絵画の中にありますが、それを色やプロポーションといった定量的な尺度に還元し、それを応用して標準的な美を生産できるでしょうか? いいえ。美とは関係性であって客観的な性質ではなく、無個性で一般的な関係性を大量生産すると、それと同じくらいインチキで無個性で安っぽい審美眼を必然的に生み出してしまいます。

神聖さはどこにあるのでしょう? 科学という仲間と同じ深いイデオロギーに従って、宗教権力も神聖さを隔離しようとし、聖書と十字架と教会に限定してきました。この分離を最も徹底した運動は16世紀から17世紀にかけて生まれましたが、その起源は科学の運動と一致しています。プロテスタント運動は神を人間世界からだんだんと排除していきました。それ以前に、カトリック教会は一般人から神性を取り除いていましたが、こんどはプロテスタントの改革者たちが聖母マリアと聖人たちからも神性を取り除き始めたので、当初の汎神論の世界から残っているものは、イエス・キリストに体現される孤立した一点の神性だけになってしまいました。

後半につづく

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注:
[14] 実際、中国に原子論的存在論があるというのは、いささか語弊がある。五つの元素「五行」は、英語で“five phases”(5つの相)と訳され、それらは陰と陽のように相互に依存し合っており、分離して独立した存在ではない。
[15] 精霊信仰アニミズムに戻る理由は、これらの隠された変数は知ることができないからだ。それらは量子力学の結果を導き出すための数学的な作為だが、実験的に分離することはできない。従って、隠れた変数の理論は還元主義的な企てを前進させるように見えるが、実際にはそれを葬り去るものなのだ。
[16] ケルヴランの著作は英語で見つけるのが難しいが、読者には、1989年に出版された『Biological Transmutations(生物学的元素転換)』(Happiness Press刊)を紹介する。私はまた、彼の仕事に対する説得力のある反論を探したが、私が見つけたもののほとんどは、「その結果はありえない、だから彼はXYZを説明できなかったに違いない」というような、初歩的な誤りに対する非難を論理の上で繰り広げたものだった。


原文リンク:http://ascentofhumanity.com/full-text/chapter-3-05/

2008 Charles Eisenstein


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