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自然の権利

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


革命は愛です。より賢く自然を評価し利用することではありません。それは自然に対する本物の敬意であって、自然をあらゆる面で完全な存在として見るとともに、聖なるものとして心に抱くことによってしか現れません。自然を有限の数値に落とし込んだら、その神聖さはどこにあるというのでしょう? 私たちには世界を気づかい世話するためのもっと良い理由、真の理由が必要です。理性さえも超えた動機の源と繋がる必要があるのです。

本書を書くに当たって、「地球は生きており意識を持っている」というような言葉は避けたいと思いました(し、そういう忠告も受けました)。私がそういう発言をすれば、合理的な言葉で組み立てた議論を求める政策立案者は、私のことなど聞く耳を持たなくなるでしょう。でも自分の愛し方を合理的に考えることができるでしょうか? この文脈で「合理的」というのは、ふつう功利主義を意味する符号です。なぜって、合理的な愛なんてありますか? 本当は、私たちはあるがままの地球を愛するのであって、地球が単に何かを与えてくれるから愛しているのではありません。

「地球は生きている」と言う人々を声高々に馬鹿にする最も頑固な環境保護主義者でさえ、まさに自分が軽蔑する対象への秘かな憧れを抱いているのではないかと私は思います。彼も心の奥底では、地球とその上のあらゆるものは生きていて神聖なのだと信じているのです。その認識に触れることを、憧れているにもかかわらず恐れているのです。

この人は私でもあります。地球が生きていて意識を持つという考えは私にとって魅力的であるとともに嫌悪感を抱かせるもので、機械論派とスピリチュアル派が同席する会議で目にする二極化した意見を写し出しています。「子どもっぽい!」、「あたま悪い!」、「非科学的」という非難が私の頭の中をかけ巡るのは、私自身の中にある痛みの現れです。もし私が評論家の仲間に加わって批判を外向きに転じ、他の人たちは科学を無視して曖昧な考えに耽っていると非難したなら、たぶん私は一時的な安心感を得られるでしょう。でも私の不合理性を抱きしめる方が、自分に正直というものでしょう。そして、私の中にあるのと同じ生命愛を呼び起こす方が、他の人たちを元気づけることにもなるでしょう。

私たちの地球は生きていて、さらに全ての山や川、湖、森は生き物であるばかりか、意識を持ち、目的を持ち、神聖な存在でさえあるという考えは、目の前の環境問題から注意をそらすメソメソした感傷などではなく、その反対に、もっと感じ、気づかい、世話する気持ちを私たちに起こします。この世界は自分の目的ために道具として使うべき物の山にすぎないというイデオロギーの裏にある悲しみと愛から、もう私たちは隠れることができません。

世界を破壊するマシーンにとって、道具的功利主義がどれほど中心的なものかを考えると、その物語を強化するような言葉遣いを避けるように、環境保護運動は注意しなければなりません。その一方で、別の物語を宿し、発動させ、伝えていくことが必要です。それは、気づかいと、美しさと、愛の物語です。これは生態系破壊が人間に与える影響を無視すべきだという意味ではありません(結局のところ、私たちはガイアに愛されるものたちの一員でもあるのです)が、そのような議論を最も上位に置くことを避けるべきだということです。でもこれが、気候やその他の環境問題に関する「真面目な」政策論議の、ほとんど唯一の言葉なのです。それが上手く働いたことはありません。もしかすると、私たちはもういちど愛の言葉を試してみるべきなのかもしれません。

人間以外の物質世界に愛すべき自己の特質は無いと断定することで、私たちは自然界と物質世界を愛の対象から外してしまいます。もし、この世界が根本的には非個性的で気まぐれな力に支配された無個性で目的を持たない粒子の集まりからできているのなら、愛すべきものなど何があるというのでしょうか?「天然資源」や、そもそも「環境」のような言い回しは、このようなイデオロギーの分断を生みます。思いやりのある愛は、あなたが私と全く同じように「自分」であるという認識から発するのです。子どもは太陽を見上げると、お日様も自分を見下ろしていると分かります。私たちは成長して知識を増やし、そういう感じ方を子どもじみた擬人化の投影として無視するようになります。科学者は同じように無視してこう主張します。人間だけが生き物として完全な意識、主体性、意図、欲求、経験を持っている。動物がそういう性質を持っているとしても、おそらく程度は低く、その動物が「低級」である(つまり私たちと似ていない)ほど程度も低い。植物にそういう性質があるとしても、ごく原始的な量しか持っていない。川や山、土、水、岩にはそのような自己の性質が無いことは確実だと。でも、私たちは直感的に、子どものように、古来の文化のように、よく分かっています。私たちを取り巻くこの世界全体も、そのあらゆる部分部分に至るまで、完全な「自分」だということを、私たちは分かっているのです。

お金は、値段の付けようがないほど貴重なものの価値を示すためには不十分なものですが、このような場合に人の合意を示す別の手段があります。それは法律です。高まりを見せる「自然の権利」運動は、人間以外の存在にも法的地位を確立することを目指しますが、今までのところボリビア、エクアドル、ニュージーランドがこのような権利を法律化しました。地球権の弁護士ポリー・ヒギンズは、大虐殺、戦争犯罪、武力侵略の罪、人道に対する罪と並んで、平和に対する罪のリストに生態系破壊を加え、国際刑事裁判所の管轄下に置くことで、この権利を全世界に拡げようと運動してきました。これは相互共存(インタービーイング)を個人的な哲学や宗教的志向を超えるものへと高めるでしょう。そして、これまでとは違う社会の根本原則として大切に守られることでしょう[9]。

かつては、科学は自然の人格といった概念を馬鹿げたものと見なしていました。科学は変化を続けています(たとえば、植物が知性を持つ可能性を真剣に考える生物学者の数は増え続けています)が、今のところ多くの科学者にとって、「費用と効果なんてどうでもいい、私たちが愛するからこそこの森を守ろう、美しいからこそこの森を守ろう」と発言すれば、惚(とぼ)けたことを言っていると非難されるのを覚悟しなければならないでしょう。

これは私たちが木を切り倒すべきではないという意味ではありません。樹木や全ての命を神聖ではない物と考えるイデオロギーによって、このような行いが促進されるべきではないということです。もし私たちが森を立米(りゅうべい)数や木材の価値で見るなら、もし私たちが海をタンパク質のトン数や漁獲高の金額で見るなら、もし私たちが国を「経済圏」と呼び、人を「消費者」と呼ぶなら、もし私たちが土地を鉄鉱石やボーキサイトや金の源と見るなら、もし私たちがこれらの鉱物を単なる鉱物、まわりの生命の働きとは無関係に偶然に埋蔵されているだけの鉱物と見るなら、もし私たちが森や泥炭湿原を炭素隔離能力で見るなら、私たちは地球を機械と見ているのであり、生命体ではなく、死んだ物として見ているのです。

現在の物質的生産のシステムが世界を殺す理由は、それが世界を死んだ物と見ることから出発しているからです。もしそうなら、愛すべきものなど何があるというのでしょうか?


注:
[9] 権利の概念は個人と国家を基本的な構成要素ととらえるので、「自然の権利」は法的人格を自然のものに与えるのに最適な言葉ではないかも知れません。土着文化などのコミュニティーを基にした文化にとって、「権利」は理路整然と理解できる概念ではありません。 私たちはこの概念を人間以外に拡大することには慎重であるべきかもしれません。これに代わるものとして「自然に対する責任」があるかもしれません。重要なのは、人間以外の人格をどうにかして私たちが法律と呼ぶ合意の枠組みと物語の中に明文化することです。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/rights-of-nature/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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