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機械の中の幽霊

訳者コメント:
 チャールズの文章でキーワードの一つがスピリット、魂です。日本語でspiritに対応する語は幅広く、魂の他にも精神、精気、精霊、霊、霊魂などがあります。人間の精神も、自然に宿る精気(あるいは精霊)も、英語では「スピリット」で、これらを厳密に区別していないように見えます。人間に宿るものとしては魂と精神があり、精神は「思考」、魂は「直感」の領域で、精神が科学・医学の対象となったのに対して、魂は科学の枠外、宗教の領分とされています。人間以外や無生物に宿るものとしては、魂と精気があります。「入魂の職人技」のように物に魂を注入するとも考えられます。物質から遊離したものとして、精霊、霊、霊魂があります。霊魂は死者の魂ですが、かつては身体と結びついていました。ここでは霊という言葉が「非物質」を示していると考えられます。
 チャールズの説くスピリチュアルなものごとは、人間も人間以外の生命も無生物にさえも「魂が宿っている」ということです。人間の持っている精神は、精霊と同じく神聖なものでもあるということになります。デカルトの二元論によって機械の身体から切り離し消去されてしまったスピリットを取り戻す試みです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


3.6 機械の中の幽霊

生命とは手足の動きにすぎない…。なぜなら、心臓は単なるバネに過ぎず、神経は多くの糸に過ぎず、関節は多くの糸車に過ぎず、それが全身の動きを作っているだけではないか?(トマス・ホッブズ)

宇宙を客観的なものと主観的なものに分けるガリレオ的な考え方に従えば、次の段階は定性的なものを定量化することによって後者を完全に排除することでしょう。これは多くの分野で達成されています。例えば音は、数多くのサイン波に落とし込み、それを(シンセサイザーで)足し合わせると、どんな自然音でも再現できます。同様にあらゆる視覚体験は、赤、青、緑の成分を表す数値からなるピクセルの有限配列のデータセットで模擬できます。そう、私たちは世界を数字に変換することでは大きな進歩を遂げました。

もちろん宇宙の市民として、私たちが宇宙にすることは同じように私たち自身に対してもすることになります。時計仕掛けのパラダイムが生命全般に、とりわけ人間に適用されるようになるまでに、長くはかかりませんでした。世界がすべて機械であるならば、世界の一員である私たちもまた機械なのです。

人間を機械と同列に扱うというのは、常識では考えられないことであり、それが明確化され受け入れられるようになるまでには何世紀もの準備が必要でした。何といっても、機械は作られるものですが、人間は成長するのです。機械は指示された通りにしか動きませんが、 人間は自律的に動きます。機械は標準仕様で製造されますが、人間は一人ひとり個性があります。機械は一般的に硬いですが、人間は柔軟です。機械の動きは規則的で予測可能ですが、人間のは不規則で自発的です。機械は自己修復しませんが、人体はできます。

しかし機械論的な結論が必然になったのは、ガリレオが現実から主観を排除し世界の日常的な営みから神を排除したときでした。主観的性質を体験する存在は、もはや物質の世界に参加する資格はなく、せいぜい単なる傍観者となります。その傍観者の外にあるのは、身体を含む機械的な物質の世界だけです。厄介な主観的体験について、ガリレオ以降の数世紀にわたる解決策は、それらを多くの測定可能な入力と出力に変換することであり、そうすることで主観的体験は、ガリレオの基準によれば、再び現実のものとなるのです。20世紀半ばの行動主義は、主観的状態の実在を明確に否定するまでになりました。現在の神経科学はそれほど厚かましくありませんが、企てとしては似ています。主観的な状態を、電磁気的、化学的、物理的な活動の測定可能なパターンに従って特徴づけようとする神経学は、これらの状態を科学の領域(定量化可能な領域)へ、そして潜在的にはテクノロジーの領域(コントロール可能な領域)へと導きます。神経学者によれば、宇宙ではなく心が最後のフロンティアであり、それを征服することで人間の苦しみを完全に終わらせることができるかもしれないのです。苦しみを主観的な状態から客観的な状態に移し替えることで、電気的あるいは薬学的な手段を用いて適切な力を投げかけることにより、苦しみをコントロールできるかもしれないのです。

ほとんどの研究者が認めるのは、苦痛と快楽という最も基本的な状態を定量化することでさえ、主観性を乗り越えるという困難に阻まれていることです。この認識はまだ精神医療に大きな影響を与えるには至っていません。しかし、そこでは記録的な数の幸福薬が処方され、その前提にあるのが、幸福とはセロトニンなどの神経伝達物質の数値レベルが高いことそのものか、あるいはそれによって引き起こされるものだという機械論です。

ガリレオが主観性を切り捨てたことの根底に隠されている客観性の概念は、古代の世界観と現代物理学の両方に反しているにもかかわらず、私たちの歪んだ直感はそれを合理的と捉えます。その直感とは、本章の最初の節で言及した空間と時間の絶対デカルト座標系で、観察者とは関係しない物体や事象が個別ばらばらに存在する方眼紙のようなマトリクスです。現在の数学的座標概念の創始者であるルネ・デカルトが、近代的自己の定義づけも行ったことは重要です。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という不滅の宣言は、ガリレオによる心と感覚世界の切り離しを最も極端な結論に導きました。もし心が世界から切り離され、人間存在の在処ありかが心であるならば、人もまた世界から独立していることになるからです。人間であるということは、切り離されているということです。何から切り離されているのでしょうか? 私たちが体験する世界から、つまり最も一般的な意味での自然から、切り離されているのです。

この宣言でデカルトは、宇宙を自己と他者の二つの部分に分ける二元論的な分割を論理思考の極限にまで推し進め、有史以来発展してきた変化を完結させたのです。原始的な自己が人々や自然との親密な関係によって定義されるのに対し、象徴文化と農耕とテクノロジーの持っている引き離しの効果によって、新たな自己が出現しました。それは、自由に選択する合理的行為者というものです。ジョセフ・キャンベルはこう書いています。

生きている宇宙の有機的で神聖な存在との本質的な一体性を失うとともに、またその結果として、人が与えられた、いやむしろ自力で勝ち取ったのが、自分という存在への解放であり、それに伴うある程度の自由意志だった。それによって人は、自分とは別のところにいる神との関係の中に置かれるのだが、その神もまた自由意志を享受する存在である。偉大なる東洋の神々は、世界の巡りの仲立ちであるが、監督以上の存在ではなく、その巡りに人の形を与えて司るのだが、その巡りを生み出したり制御したりすることはできない。[19]

デカルトが自己を極限まで縮小するための舞台は整いました。身体、脳、感覚、思考を観察している一点の意識は、それらとは別のものであって一体ではありません。デカルトの「我」は思考者であって思考ではなく、感覚者であって感覚ではなく、つまり観察者であって、残りの宇宙はその観察対象なのです。デカルトはこうして、技術や象徴文化の起源以来続いてきた自己の縮小を極限にまで推し進めましたが、それに伴って先鋭化したのが自然や他者からの疎外であり、今やデカルトのおかげで、私たち自身の身体、思考、感情からさえも疎外されるようになったのです。

デカルトが提唱した二元論は、その最終的な分析で、宇宙全体を単なる物体という地位に引き下げ、「物質と運動だけでできた、寂れた無人の世界、つまり不毛の荒れ地」におとしめました[20]。それは、肉体という動く牢獄に閉じ込められたデカルト的自己にとって、全く異質な世界です。この信念が心を破壊する理由の一つは、私たちがいなくても宇宙の他のものは何も変わらないことを暗示しているからです。私たちは使い捨ての存在、無関係な存在、不必要な存在なのです。それを裏付けるのが、〈機械〉という匿名社会で私たちの体験することです。各人は役割に、つまり標準化された機能の実行者に落とし込まれます。ニュートンの宇宙で、各物体はみな同じように、位置、速度、質量、後には電荷などの一般的な特性によって完全に特徴づけられる質量へと落とし込まれます。宇宙が自己の外部にあるという意味で物体であるだけでなく、自己もまた物体となるのです。不特定多数の一つに過ぎず、先に書いたような物理的特性に従って便宜的に定義され、他の物質と全く同じように、ニュートンの非人間的で決定論的な法則に従って、宇宙の他の部分と相互作用するのです。そう、あなたは物量マスなのです。[訳註]

客観性という仮定は、ニュートンが重力と運動の法則を定式化することで数学的な形となりましたが、その背景にはデカルトの絶対座標系があります。この座標系は永久不変です。それは私たちが運動する現実をなしている織物であり、その中に含まれる物体よりも根本的なものであり、しかも観察者に先立って存在します。観察者は他の物体の性質やそれらに作用する力とは無関係なのです[21]。このように、個別ばらばらの自己は科学の根幹に書き込まれています。絶対的で普遍的な座標系は、科学的には1905年に忘却の彼方へと追いやられはしましたが、それはまだ健在であり、何が合理的で、客観的で、科学的であるかという私たちの直感の中に生きています。そこには絶対的な現実があり、科学はそれを発見する方法なのです。

宇宙と生き物までも本質的に魂のない機械と見なすなら、生きて感情を持った存在の扱いに対する良心の呵責かしゃくは無くなります。マックス・ヴェルマンスは次のように見ています。「デカルトによれば、レス・コギタンス(意識のもの)とレス・エクステンサ(物質のもの)を結合するのは人間だけである。彼が『けだもの』と呼ぶ動物は、意識を持たぬ機械にすぎない。[22]」その結果、デカルトの信奉者たちは、犬を釘で板に打ち付けて切り開き、各部品がどのように動くかを見ることに何のためらいも持たず、犬の苦痛の叫びはふいごあえぎと車輪のきしみに過ぎないと考えました。デカルトの同時代人の一人であるフォントネルは、それをこのように表現しています。「彼らは犬に対して全く無関心に殴打を加え、犬がまるで痛みを感じているかのように憐れむ人々を馬鹿にした。彼らが言うには、動物たちは時計仕掛けであり、叩かれたときに発した叫び声は小さなバネに触れたときの音に過ぎず、体全体に感覚などは無いのだった。彼らは哀れな動物たちの四肢を釘で板に打ち付けて生きたまま解剖し、血液の循環を見たのだ。[23]」ほら、これがポンプだ! これがふいごだ!

この理屈に従えば、生きているものも含め、宇宙の他の物体は大して重要ではないことになります。それらには自己が持つはずの何かが欠けているのです。それらに適用される道徳は、せいぜいミキサーや時計に適用されるのと同じようなものです。例えば、握ると鳴き声を出すソフトビニール製の猫のおもちゃを、猫が断末魔の叫びを上げる装置で改造したとしましょう。私がブーツで踏みつけても、本当に苦しみを引き起こしているのではなく、苦しみのように見えるだけです。私は何も不道徳なことはしていません(少しひねくれているかもしれませんが、悪ではありません)。もし動物や宇宙全体が同じように無感覚で、感情という幻想を抱いているだけだとしたら、同じ道徳的免責が宇宙全体に適用されることになります。これこそ、ガリレオが科学的現実の領域から主観的なものを追放したことの、無慈悲な結論なのです。

先に述べた猫の例は、現代の生活にも大いに関係しています。エンタテインメント産業ではこれを「効果音」と呼びます。人間の領域がすべてを飲み込んでしまった人工的な世界で、ビデオゲームに描かれるむごたらしい死と、写真や新聞記事にある陰惨な死の画像に、いったいどんな違いがあるのでしょうか? 観客の目から見て何が違うのでしょうか? 唯一の違いは、言葉やイメージを現実あるいは非現実として、どう解釈するかという点にかかっています。しかし、私たちは還元主義者として、物事を文脈から切り離して理解し、標本を自然界から切り離して実験室に持ち帰るよう訓練されてきました。映像の出所が何であれ、それがバグダッドの刑務所であろうと、シリコンバレーのビデオゲーム制作スタジオであろうと、視聴者が体験するのはスクリーン上の同じピクセルです。暴力的な映画を観ると精神的な衝撃が強すぎてトラウマになるので、幼い子供たちには暴力的な映画を見せないようにします。子供たちは暴力が現実のものだと思うでしょう。でもすぐに、私たちの文化に蔓延する暴力にさらされて感覚が麻痺していきます。他人の苦しみは非現実性を持つようになっていきますが、そうしなければ私たちは他人に苦しみを与え続けることができません。しかしこの非現実性を全てメディアのせいにすることはできません。それはガリレオ的な科学の概念に組み込まれているのではないでしょうか? それによれば、他人の苦しみは数値化できる範囲を除けば非現実的なものということになります。残念なことに、暴力を数値化するために使われる数字、例えば死傷者数の統計、熱帯雨林の伐採面積、有毒化学物質の濃度、破壊された家屋の軒数などは、実際の苦しみを遠く安全な距離へと引き離し、したがって非現実的なものにしてしまいます。それが私たちにとって現実となるのはいつでしょう? 客観性の領域から抜け出て、実在の人物と結びついた物語やイメージになったときです。このことを理解している政治家たちは、戦争の惨状を伝える実際の写真を私たちが目にするのを可能な限りさまたげようとします。苦しみの現実を知ったとき、私たちはその苦しみを止めるよう求めるだろうからです。ガリレオの考えはその逆を行くものでした。でも主観こそが現実なのです。

ガリレオとデカルトは、名付けと計数で既に始まっていた犠牲者からの引き離しを、イデオロギーとして完全に確立しました。ウェンデル・ベリーの言葉を借りれば、「それ自体が聖なる世界の中の、他の聖なる存在の中で生きる、聖なる存在」として、原始的な精霊信仰アニミズムの世界に生きていた私たちは、たどり着いた先の世界で、それ自体が巨大な機械である世界の中の、他の機械的な存在の中で生きる、機械的な存在になったのです。

デカルト自身は、このプロセスの最終段階に難色を示し、人間には一かけらの主観性、つまり意識を持った個別の点としての魂を残すことにしました。私たちの誰もがそうであるように、デカルトも機械のように感じてはいなかったのです! しかし、デカルトが動物に適用したのと同じ論理を、人間にも適用できますし、歴史を通じて繰り返し適用され、壊滅的な結果をもたらしてきました。

ルメトリが1748年に発表したエッセイ『人間は機械である』で初めて明言し、ダニエル・デネットの『意識を説明する』のような現代の著作に結実しているこの論理は、容赦がありません。意識の核など存在せず、魂の座も、入ってくる感覚情報を魂(精神、意識)が見る(デネットの言葉を使えば)「デカルト劇場」も存在しないのです。言い換えれば、主観性が逃げ込む場所はなく、測定可能なものへと際限なく変換されるのです。視覚や聴覚といった知覚の分析において私たちが成し遂げてきた進歩は、無限に拡張することができるのです。デカルトの魂の聖域である意識そのものさえ例外ではないのです。最近の研究によると、宇宙や神との一体感といった合一体験の神秘的な状態は、脳のある部分における測定可能な活動に対応づけられるのです[24]。おそらく適切な電気刺激があれば、いつの日か望むときにそれを体験できるようになるでしょう。あらゆる意識状態は、脳の何らかの状態から生じ、あるいは脳の何らかの状態に対応しているのであって、結局のところ脳は宇宙の他の物質と同じ物理法則に従う物質で構成されているのです。

分かりましたか? すべての思考、すべての感情、宗教的体験でさえも、あなたを構成するさまざまな物質の相互作用に他ならないのです。科学は私たちの魂そのものを否定しているようです。

機械論が最大限に表現された結果として魂の存在が否定されたように見えるにもかかわらず、組織宗教は機械論に対して真剣な異議申立をしません。宗教は基本的に、宇宙は機械的な原理に従って動いているという正統派の科学的見解に同意しています。ただし、物質世界の外にいる〈神〉と呼ばれる存在が、奇跡と呼ばれる現象によって宇宙の決定論的法則に干渉するという、ある特別な状況は除きます。〈神〉を宇宙から切り離し、時計職人や時たま奇跡を生み出す役割に委ねることで、科学に対する教会の対応が生命の非神聖化を助長したのは、どちらの制度も同じく根本的な文化の力から生まれていることを考えれば当然のことでした。科学的な観点でも宗教的な観点でも、人間は本質的に孤独です。前者の場合は〈神〉が全く存在しないからであり、後者の場合は〈神〉が私たちの住む物質世界から切り離されたからです。

デネットによる〈デカルト劇場〉の解体は、精神と物質の切り離しの最終段階にすぎませんが、それは精神が(デカルトがしたように)肉体という機械から切り離された一かけらの自己意識に落とし込まれてしまえば、物理的世界、ひいては科学とは全く無関係になってしまうからです。物質から切り離された精神は、現実的な目的からすれば全く存在しないも同然です。

デカルトの二元論と、急成長する科学が世界を説明する力を目の当たりにした宗教は、世界の仕組みを説明するというかつての役割から離れ、「精神的な問題」にのみ関わるようになりました。しかし科学の魔の手から逃れるほど遠くへ退散することもできず、科学は残された謎を一つ一つ解きほぐし、精神を思考に、思考を頭脳に変換していきました。精神医学と神経学が思考と感情の生物学的基盤を解明しつつある今、非物質的な魂が入り込む余地はほとんどありません。

意味や意義、神聖さを救うために、「科学では決して説明できない」謎を引き合いに出す人もいます。皮肉なことに、これらの謎が次々と崩れ去るにつれて、理性と〈科学的方法〉の普遍主義的な主張がより強く現れてきます。さらに皮肉なことに、こうした試みはそもそも世界の非神聖化の原因となった核心的な仮定を、実際には強化します。要するに、神聖なものや奇跡的なものは、世の中の平凡な営みの外にあります。でも本当は、そのようなものはうちにあるのです。

第6章で展開するこの命題は、科学と宗教の間の文化戦争全体を回避すると同時に、両者の基本的な前提を覆すものです。この戦争で科学勢力を代表するのは「新人文主義」と呼ばれる哲学者の一団です。ダニエル・デネット、ジャレド・ダイアモンド、スティーブン・ピンカー、マービン・ミンスキー、リチャード・ドーキンス、リー・スモリンを筆頭に、彼らは〈科学の計画〉のイデオロギーを支持し、最後まで残った自然の謎、つまり自由意志、愛、意識、宗教的体験が、解き明かされる日も間近に迫っていると宣言します。

この哲学者たちは、彼らが選んだ第一の敵である宗教勢力に対して十字軍を仕掛けているのです。宗教勢力は、人生と宇宙に意味を吹き込む外的な神、精神、あるいはそれと同等の力を仮定することで、人生には目的と意義があるという私たちの直感的な感覚に訴えかけます。この二元論の哲学的な問題点はよく知られています。第一に、もし非物質である精霊が物質と何らかの形で相互作用するのであれば、どうしてそれが非物質なのでしょうか? もし物質であるなら、物質のどの構成要素に存在するのでしょうか? 主な物理的な力はすでに知られており、方程式に記述されている(と主張されています)。そして新人文主義者たちが好んで示すように、神秘的な領域は常に縮小しているので(解明するには新たな力が必要なようですが)、神学者に残されている明白な選択肢は二つしかありません。つまり、(1)物質の世界を完全に科学に委ねることで、精神は単に機械の中の亡霊となり、全く無力で、全く取るに足らない存在となるか、(2)科学の証拠を見ようとせず、膨大な証拠があるにもかかわらず(例えば)進化論を信じることを拒否するのです。

したがって私たちの社会では、組織宗教に異なる二つの流れができます。最初の選択肢に対応して、宗教的信念はますます普通の社会生活にとって無関係となり、私たちの生き方にほとんど影響を与えなくなります。同時に二番目の選択肢に対応して、大勢の原理主義者が主流社会から脱落し、救われる者と救われざる者とに二極化した世界を作ります。第一の場合では、宗教は物質的な生活と無関係です。信仰している宗教に関係なく、誰もが同じテレビ番組を見、同じスポーツチームを応援し、同じブランドを買い、同じ学校に通います。宗教は物質世界にとって重要でないものなので、教室や役員室、会話から閉め出しておくことができます。第二の場合では、世界の事実という合意事項を彼らが否定するのと並行して、一部の宗教グループは孤立したサブカルチャーに引きこもり、そこで宗教が再び生活のあらゆる面に浸透します。こうして彼らは子供たちを家庭で教育し、同じような宗教を信仰する人たちとだけ付き合い、子供たちがハロウィーンのトリック・オア・トリート、ハリー・ポッターやポケモンなどから「悪魔の影響」を受けるのを防ぎ、テレビ、ロック音楽、大衆文化を避け、独自のコミュニティーを作って要塞のような住宅団地を建設することさえあります。彼らの孤立主義は現代の宗教を特徴づける「この世からの排除」の、もうひとつの変種です。

新人文主義と宗教原理主義の一見正反対の対立は、両者が根本では一致していることを覆い隠す見せかけの姿です。それは、科学的世界観を受け入れると、意味、目的、意義、神聖さを失うことになるという点にあります。聖なるものを聖なるものとし、平凡な物質に欠けているスピリットを吹き込むような存在が、私たちの外部に無い場合、聖なるものを非二元論的に捉えることができない私たちは、途方に暮れるのです。本書の目的の一つは、二元論的でないスピリットの概念、つまり、この世の生活から私たちを切り離すことのないスピリチュアリティの概念を提示することです。

ダニエル・デネットは正統科学の断固とした支持者であり、〈科学の計画〉を固く信じていますが、彼の研究は全面的にスピリットをもった宇宙へ回帰するための土台となります。なぜなら、彼は現実を精神と物質という別々の側面に分ける二元論的な区分を解体し、個別ばらばらの自己(つまりデカルトのいう意識の観測点)が本質的には幻想だということを指摘したからです。彼の洞察は新しいものではありません。仏教では何千年もの間、本質的に同じことを言ってきました。それでも彼の研究が重要なのは、意識の本質を二元論的ではない言葉で説明し、科学に二元論的な仮定がしつこく残っていることを明らかにしたからです。

私たちは完全に振り出しに戻ってしまいました。物質とスピリットが一体であった精霊信仰アニミズムに始まって、私たちは何千年にもわたり両者の隔たりを広げてきた挙げ句に、スピリットは完全に非物質的、つまり存在しないものとなりました。私たちに残ったのは物質だけです。これでは精霊信仰者アニミストとどう違うのでしょうか?

じつは決定的な違いがあります。その違いはスピリットに対する姿勢にあるのではなく、物質に対する姿勢にあります! 世界を再びスピリットあるものにするには、物質界の外部にあったスピリットを物質に取り込むのではなく、以前はスピリットにあるとされていた性質を、物質そのものが持っていることを理解する必要があるのです。世界全体が〈スピリチュアル〉なのです。世界がスピリットを含んでいるのでも持っているのでもなく、スピリットそのものなのです。

本書で提唱する概念は、自己が個別的で独立した存在ではなく、複雑な相互作用の創発特性であって、それは脳だけでなく身体全体や物理的・社会的な環境をも含んでいるというものです。そうでないと装うなら、私たちの本質の大部分から自分自身を切り離すことになります。デカルト流に極端な言い方をすれば、もはや本当の自己ではなく単なる物質となった自分の身体や、自分の感覚からさえも切り離すことになります。「我思う、ゆえに我あり。」その「あり」は思考の中だけにあるのです。いや、それ以下かもしれません。というのも、デカルトの論理では、自己とは思考そのものではなく思考を意識するもの、つまり前に述べた「一点の自己意識」だからです。自他二元論が行き着く論理的な結末は、自己を完全な無に落とし込んでしまうことです。これもまた私たちの社会の背景にある不安の原因なのでしょうか? このように私たちの全存在を否定して、自己を存在しない一点の意識へとだんだん落とし込んでいくことが原因となって、私たちは失われた存在の実感を取り戻そうとするあまり、抑えがたい欲望に駆られ、多くの非自己的なもの、多くの物質的・社会的な持ち物を増やしてしまうのでしょうか?


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注:
[19] ジョセフ・キャンベル [Campbell, Joseph,] Myths to Live By, Viking Press, 1972. p. 76 of the 1993 Compass reprint.
[20] ルイス・マンフォード [Mumford, Lewis,] Technics and Civilization, Harcourt, Brace & Co., 1934. p. 51
[21] 同時代のライプニッツやバークレーは、ニュートンの「絶対空間」の考えに異を唱え、位置は星や他の物体との相対的な関係で定義できると主張したが、絶対デカルト座標系は、それが物理的に実在するか否かにかかわらず、非常に捨てがたいものである。それは、ニュートンの理論のユークリッド数学に組み込まれているからである。物理的に真実である絶対空間が存在しないとしても、位置、長さ、時間といった性質が座標系全体にわたって不変であるという事実によって、数学的に絶対座標系を構築することができる。
[22] マックス・ヴェルマンス [Velmans, Max,] Understanding Consciousness, Routledge, 2000. p.264.
[23] アンソニー・ダマト[Anthony D’Amato]による引用. Whales: Their Emerging Right to Life (with Sudhir K. Chopra), 85 American Journal of International Law 21 (1991)
[24] たとえばアンドリュー・ニューバーグ [Andrew Newberg], Eugene G. D’Aquili, Vince Rause, Why God won’t Go Away, Ballantine Books, 2002 を参照.


[訳註] ニュートン的宇宙の中の「質量」という第一の意味の他に、不特定多数の群衆・大衆(マスメディアのマス)の意味が読み取れます。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-3-06/

2008 Charles Eisenstein


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