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工業的医療を超えて

 チャールズ・アイゼンスタイン著
2021年9月29日

 
私が処方薬鎮痛剤の依存症になっているとしましょう。あなたは私のことを心配する友人です。あなたは言います。「チャールズ、この薬は本当に止めた方がいいよ。あなたの体はボロボロになるし、いつかきっと過剰摂取で死ぬよ。」

 「でもこの薬は止められないんだ。薬を飲まないと全然まともに働けない。腰痛がひどくて、医者には打つ手がないと言われたよ。」

 私の返答の前提を受け入れたら、返す言葉はなくなります。他に痛みを軽減する方法はなく、痛みの原因は治療できないことを、両方とも認めるなら、私は正しくて鎮痛剤を飲み続けなければなりません。

ではグリホサートの話をしましょう。モンサント社がラウンドアップとして販売する悪名高い除草剤です。これを批判する人々は人体と生態系に対する影響について説得力のある主張をしています。これを擁護する人々はそのような主張に反論し、少なくとも規制当局を納得させています。この論争はこれまで何十年にもわたって大荒れに荒れてきました。ラウンドアップ擁護者の主張の一つはこういうものです。「見たまえ、ラウンドアップは現在最も有効な広域除草剤だ。これを使うのを止めたら、作物の収量は低下するだろう。効果の低い他の除草剤を使わなければいけなくなり、それは人間や環境にとって毒性がもっと高いかもしれない。ラウンドアップは現在使用できる最も安全で最も経済的な選択肢だ。」

ここでもまた、そのような前提を認めるなら、私たちは9割方その主張を真実と認めることになります。ラウンドアップそのものと、その相対的な害とメリットに議論を限定することで、ラウンドアップがその一部となっている農業システム全体を、私たちは暗黙の内に当然の前提として認めます。単一栽培農業という工業的システムを当たり前と思うなら、ラウンドアップ擁護者は正しいかもしれません。現在のシステムを動かすために、私たちはラウンドアップや、それに似たものを必要としています。システムを変えないかぎり、ラウンドアップを禁止しても他の除草剤への切り替えが起きるだけです。新たな化学物質にせよ遺伝子操作技術にせよ、危険な副作用があるはずです。

グリホサート批判者の多くは別の除草剤で代替したいという願望から動いているわけではありません。むしろグリホサートは、工業的農業というシステム全体を批判する人にとっての注目の的なのです。小規模で、有機、再生型の、生態系に配慮し、多様で、地域に根ざした農業というシステムがあったら、グリホサートが大きな問題となることなど無かったでしょう。そんなものはほとんど必要なくなるからです。私が『気候』の本で十分に説明したように、このような形の農業は単位面積当たりの収量で工業的農業を上回ることもあります(ただし、より多くの労働が必要で、家庭菜園を作る人が増え、小規模農家が増えることが必要です)。

ではグリホサートを使い続けることが必要かどうか? もし現在の農業システムを当然とするなら、答はイエスかもしれません。でも議論すべきはシステム自体のことです。そこを無視するなら、グリホサート論争は無意味な空騒ぎです。技術的な観点から反対することはできるでしょうが、最も強い批判はグリホサートという化学物質に対するものではなく、それを必要とするシステムに向けられるものです。モンサント社で働く善良な人々は、おそらくこのシステムを当然と見なしていて、この農薬の働きを少しでも改良しようとコツコツ努力しているのに、なぜ環境保護主義者たちに誤解され悪者扱いされるのか、全く理解できないのです。

いわゆる「メンタルヘルス」にも同じパターンが当てはまります。私は13年前に『魂の反抗』というエッセイを書きましたが、そこには鬱や不安のような様々な精神的症状のことを狂った世界への反乱の一種だと書きました。そのような症状を病気と呼んで向精神薬により治療することで、私たちは反乱を鎮圧し、現状の社会に適応するようにその人を調整します。

もし現状の社会を正しくて良いものだと認めるなら、適応できない人は病気の人とされるのは当然です。また、社会的孤立、未解決のトラウマ、アメリカの標準的食生活、自然からの隔絶、身体的活動の不足、あるいは人種的、経済的その他の形での抑圧のような、人々を不幸にする状況を普通と思う(あるいはそれが見えない)なら、ここでもまた、その人を「調整する」より他になすすべがありません。そして医薬品によらない「調整」[1]を考慮の対象から外すなら、私たちにはSSRI[選択的セロトニン再取り込み阻害薬(抗鬱剤)]のような薬品しか方法がなくなります。したがって、そのエッセイと続編を非難した人たちは、彼らの枠組みの中では完全に正しかったのです。「このような医薬品は、過剰に使われているかもしれないが、強力で必要な医療介入で、これが多くの人々を鬱から救い通常の生活を送れるようにしたのだ。」このような医薬品が偽薬プラセボよりも高い効果を持つことを立証できなかった研究を別にするなら、他の全ての変動要因を一定にすれば、これが有益な技術だと主張するのは理にかなったことで、工業的農業の文脈でのグリホサートがそうであるのと全く同じです[2]。

同様に、現在のシステムが基本的に善で正しく、あるいは変えられないものだと受け入れる人たちは、それを批判する人々を精神が弱い人だと見るでしょう。かなりの数の人々が、これ以上無いぐらい親切な意図から、たいていとても穏やかに私に尋ねたことがあります。ワクチンや主流医療システムに懐疑的な立場を私が取っているのは、権威をめぐって子供の頃に受けた心の傷が解消されていないことの表れなのかどうかということ。私は本物の不正に反旗を翻しているのか、それとも医学の権威を私の父の代理に見立てているのか(父は私が就寝時刻を過ぎて『オール・イン・ザ・ファミリー』を見るのを許さないような絶対君主でした)。私は「反抗的行為障害」なのかもしれません。医学の権威が基本的には善で正しいと受け入れる人にとって、私が医学の権威を疑うことはある種の精神病理から発しているに違いないと思うのは理にかなっているように見えます。

グリホサートとSSRIの例は、自分たちが浸りきっているシステムと現実を単に認めるだけで完全にまともな人々が危害に加担する様を示しています。悪意では上手く説明できなません[3]。これが、私が著作活動を始めるきっかけとなった洞察のひとつです。15年間、私はたった一つの疑問を心に抱き続けました。この誤りの根源は何なのだろう? 私に分かったのは、上に書いたシステムと現実を生みだしたイデオロギーが、文明そのものから分かちがたい程にまで深く文明に織り込まれているということでした。力と質量と原子と真空からなる気まぐれな宇宙に放り込まれた個別ばらばらの自己という概念を、悪の天才がでっち上げたのでしょうか? そうではありません。その神話は生き物のように進化し、私たちの時代にその絶頂へと達したのです。実際それは熟期を過ぎているのに、その果実、つまり私たちが住み私たちに取り付いているシステムは、まだ木から落ちていません。果実が木から落ちると、割れた果実から新たな文明の種子が芽生えるのです。

そう、新型コロナワクチンです。その比較的な害とメリットについて主張することもできるでしょうが、またこのように議論を狭めることで、それが自然に収まっているシステムを当然のものと見なしてしいます。ここで完全に公表しておきましょう。私の個人的な意見は次のようなものです。他の変動要因を一定にしたとしても、メリットを遙かに上回るようなリスクと害があるということ。前回私がエッセイで、それは意見であって主張ではないと書いたにもかかわらず、「その主張を立証」しないことに対して激しい非難の集中砲火を浴びました。私は今もそれを主張しませんし、立証するつもりもありませんが、その理由は(1)私が引用する情報源は私と意見を異にする多くの人々にとって受け入れ難いものですし、情報環境における系統的バイアスの複雑な議論を紐解くことが必要になること、(2)私の意見は被害を直接目にしている仲間の実践家の経験を基にしているので、公表されている文書を使って引用することができないこと、(3)最も重要なのは、いま私が望んでいるのは工業的医療というシステムに対する議論を拡げることで、それは工業的医療が多くの面で工業的農業というシステムに酷似しているからです。また、私は虚偽の「主張」をでっち上げようとしているわけではないので、徹底して論理的なソーシャルメディアの検閲官はこのエッセイを削除することはできません。や〜い! イタダキ〜![4]

支配的な現代医学のパラダイムとともに公衆衛生の現状を前提として受け入れるなら、ワクチン接種擁護論は少なくとも論拠あるものとなり、工業的農業という文脈におけるグリホサート擁護論と同じようなことになります[5]。相対的な害、調査の計画、企業の利害による情報の抑制、表示されていない原材料、ワクチン有害事象報告制度への過小報告などについて議論することもできるでしょうが、そういった個別の論争に加わることで、賛否両側とも土俵の外にあるものについて口にしないことを暗黙のうちに同意することになります。

ワクチン安全性論争の外にあるのは何でしょうか? 新型コロナに有効な自然療法や代替療法。ワクチンで誘導された免疫に対する自然免疫の優越性。感染の「素地」、つまり重症化し死亡する人がいる一方そうならない人がいるのはなぜか。たとえ病原性のものであっても、ウイルスが健康と進化にもたらす積極的な役割。時間とともに起きる病原性の低下。身体の主権を政府当局に渡すことの社会学的な影響。

基本的に、ワクチンは私たちが知る形の社会が通常どおり機能し続けるようにするための手段です。そこでの考えは、「みんな接種を受ければ普通の生活に戻れる」というものです。それは精神病の治療薬にとてもよく似ています。膨大な数の人々を惨めな状況に置く社会を当たり前と思うなら、人々の幸せを保つため、あるいは少なくとも働き続けるようにするためには、そのような薬がもしかすると必要なのかもしれません。人々が帰っていく普通の生活とは、社会の常識が規定する生活です。しかしその生活がそもそも人々を惨めにしたかもしれないのです。同じように、私たちが普通の生活と思っているものの中には、(たいていは有無をいわさず)接種する必要を生み出す状況が、そもそも含まれています。

「普通」とされているのは、自己免疫、依存症、糖尿病、肥満[6]などの慢性症状が疫病ともいえる水準にある社会です。この疫病は実はとても新しいものです。1950年代には、米国での糖尿病の患者数は現在の10分の1でした。肥満は3分の1でした。自己免疫疾患は医学的にも希なものでした。新型コロナによる死者の多くは糖尿病などの慢性疾患をもつ人々なので、ワクチン政策の全体像には歴史的に常軌を逸した状況が含まれています。

「普通」とされているのは、自分の健康を自分とコミュニティーで維持しようとする人々を無力化し、代わりに専門家が施す医療に依存させることです。「患者patient」は受け身で、専門の医師がすることを我慢強patientlyく耐えるものです。

「普通」とされているのは、社会に行きわたっている死への恐怖で、安全の祭壇を崇め、安心のためなら何でも差し出し、市民の自由や個人の自由、コミュニティーの自己決定さえも犠牲にします。

「普通」とされているのは、新型コロナを含む多くの症状に有効なホリスティック療法や自然療法などの治療法の疎外です。おっと、こう書くとデマ情報の警告が付けられてしまいます。データはどこにあるんだ、チャールズ? そう、これは問題の一部です。社会が製薬業界に注ぎ込む膨大な資源に比べたら、薬草、栄養、バイブレーション療法などの非正統的な治療法の研究開発に向けられるのは微々たるものです。それは資金調達システムに馴染まず、現行のパラダイムに馴染みません。したがって、複数の大規模で二重盲検のプラセボを対照とした臨床試験というレベルの証拠は乏しいのです。さらに、多くの代替療法は治療者と患者の固有の関係や、個別化された治療、癒される側の人の能動的な働きに依存しているので、もともと標準化された臨床試験には不向きです。前述の「データ」を作る標準化された臨床試験には変動要因の管理が求められます。それは私が工業的医療と呼んでいるものの一部で、「工業的」というのは標準化、管理、数値化、規模拡大のことです。

これは、新型コロナなどの病の代替療法やホリスティック療法には証拠が欠けているというわけではありません。むしろその逆です。だが、その力を全面的に利用するには、工業的パラダイムと証拠を超えた領域に足を踏み入れるしかありません。

ならば、私は違う種類の普通を想像したいと思います。地球や生命、人間をイメージどおりに作り替えるという工業の夢とは決別します。それはエコロジーの時代、関係性の時代、コミュニティーの時代、再合一の時代の「普通」です。

その未来では、健康を身体の内外における良い関係性の問題と見るのが普通です。病んだ人を治療するため社会が費やしている何千億ドルもの資金を、このような関係性を理解し修復するために振り向けます。ホリスティック、薬草、ホメオパシー、栄養、エネルギーなどありとあらゆる治療法が追求され、試され、改善されて、有効なら誰でも受けられるようにします。

その未来では、自分自身の健康に責任を持ち、そのための支援を受けることも普通になります(なぜなら、個人の意思の力だけでは十分ではないのであり、私たちは社会的存在で支援を必要とするからです)。その支援は経済、法律、社会基盤に及びます。

妻のステラは極めて有能な治療者ヒーラーですが、医療はどんなものになり得ると思うか、私は妻に尋ねました。「私たちの認識では、心と体はひとつながりのものです。病気を気まぐれな不運とは見ません。治療者と患者が共鳴して心を通わせ、全体性が立ち現れる空間を持つことが、癒しを可能にするのであって、これは誰でもできるということが、私たちには分かります。医学を人々に返すことは可能です。」人々が本当の身体疾患から癒される手助けをステラがするのを、私は毎日のように見ています。それは医師が治療不能という病状のこともあります。このような(あるいは代替療法の世界にある数多くの)技法の力は本物で、人に教えることが可能で、その上に新たな「普通」を築くこともできるでしょう。

そう、私たちは医療を人々の手に戻すことができます。自分自身とお互いを癒す力は、現代生活の大部分と同じように、職業化され、もう一つの商品やサービスへと作り替えられてきました。その力を私たちは取り戻せます。その医療の未来はハイテクではありません。テクノロジーには(たとえば救急医療のような)相応ふさわしい場所があるのですが、手、薬草、心、水、土、音、光など他の力の占めていた場所を奪ってきました。従来システムの影で何百万人もの命を救ってきた別の医療の約束をかなえる医療システムを想像できるでしょうか? このような選択肢が「代替医療」であるべきではありません。さあ皆さん、これらは本当に有効なのです。冷笑、疎外、資金難、主流制度からの迫害にもかかわらず、ここ半世紀の間に勢いを増してきました。効果は本当にあります。真剣に受け止めようではありませんか。私たちは健康になる方法を知っています。その気付きをもとに私たちは社会を作り直します。

新型コロナの間に当局が決して言わなかったことがあります。「人々が病気なら、屋外で過ごす時間を増やすべきだ。人々が病気なら、もっと触れあいが必要だ。人々が病気なら、健康な腸内細菌が必要だ。人々が病気なら、きれいな水が必要だ。人々が病気なら、電磁波汚染を減らすことが必要だ。人々が病気なら、食物中の化学物質を減らすことが必要だ。人々が病気なら、炭酸飲料に糖尿病の警告を表示しよう。人々が病気なら、冥想や祈りを推奨しよう。人々が病気なら、ガーデンに連れ出そう。人々が病気なら、都市を歩けるように直そう。人々が病気なら、空気をきれいにしよう。人々が病気なら、無料のカビ除去を全ての住居に提供しよう。人々が病気なら、地域の薬草についての教育を奨励しよう。人々が病気なら、植物マニアと健康グルが使う最良のサプリメントと技法を全ての人が利用できるようにしよう。人々が病気なら、農地を癒そう。」このどれも、あらゆる人に2メートルの間隔を保たせるほど難しいものではありません。ですから実行しましょう。社会をそのイメージで作り直しましょう。新型コロナの年月で社会を作り替えたのと同じ熱意をもって。

私はワクチンのことを言わず全体像だけに注目するように言っているでしょうか? そうではありません。ワクチンと、その危険、欠点、気乗りしない人に強制するための方策は、氷山の一角が見えているだけですが、それが象徴するシステムの姿を見事に示しています。それはテクノロジー依存の未来を垣間見る窓です。それは何であれ当局が命ずるものに私たちの身体を投じ、健康、自由、「通常」への回帰という約束が常に水平線の彼方にあって到来しないのはなぜだろうと思い悩む世界です。

別の未来が手招きします。いま支配権を握っているのと同じ当局やシステムが私たちに与えてくれるのではなく、私たちが要求しなければなりません。私たちはその未来が差し出す選択を通して要求します。あなたが踏み出す次の一歩はどちらの未来に向かうのでしょう? コントロールされた世界のさらなる通常化に向かうのでしょうか? それとも私が書いた新たな「普通」に向かうのでしょうか? 私たちは岐路に立っています。選択の時は来ました。

 

 注:

  1. 医薬品によらない鬱の治療法の例は、幻覚剤療法、太極拳、クンダリーニ・ヨガ、冷水浴、赤色光療法、パルス電磁場療法など数多くあります。でも待って、これで私は医学的助言を与えたことになるのでしょうか? ちがいます! 私はこのどれも実際に効果があると示唆しているわけではありません。そう、私はただ指の体操をしているだけです。上記のどれも医学的助言と解釈してはなりません。このどれかを試みる前に必ず資格を持つ医療従事者に相談すること。あなたは自分で研究する資格を持っていません。実際、生命はどんどん医学の領域に取り込まれていくので、全く何もしないことです。屋外に出ることさえ、医学的権威の許可無く行ってはなりません。

  2. 誤解のないように言うと、リスクと便益の狭い意味においてさえ、グリホサートとSSRIはどちらも使わない方が良いと私は考えます。それは副作用があるからですが、産業界はこれを隠そうとする傾向があります。SSRIの場合、副作用にはあらゆる種類の身体的問題に加え、高い可能性で殺人と自殺が含まれます。ここで私が指摘するのは、このシステムを変えられないものとするなら、それらを支持する主張は少なくとも可能ということです。

  3. 確かに、冷酷で悪意があり精神異常の人の比率は、世界の権力エリートの中で飛び抜けて高いのです。彼らは現在のシステムの中で力を得て、トップに登り、そこに居座る方法を見つけます。でも彼らの権力は私がここに書く深い物語に依存しています。彼らがその物語を作ったわけではありませんが、彼らはその物語に餌をやり、それを食い物にしています。

  4. [訳註:著者はここで “Pwned” という言葉を使っているが、これはネットゲームで使われるスラングで、”owned”(勝負はもらった、の意)のスペルミス ”pwned” から来ている。発音はこのままで「オウンド」または「ポウンド」。]人々が私に言い続けるのは、私がここでスペルミスをしているということです。“Pwned” というのは実はビデオゲーム文化に由来する言葉です。私がそれを知っているのは私が無類のゲーム好きだからです。というのは冗談です。私には十代の息子がいた時期があり、そのために私はスタイリッシュでヒップなのです。というのも冗談です。また、私は検閲官を煙に巻くために冗談を言っていたのです。私が真面目だと思った人もいたようです。

  5. 「ワクチン未接種者(の間だけ)のパンデミック」という物語が崩れ落ち、ワクチンは感染や伝染を防げないが症状を軽減するにすぎないという証拠が積み重ねられたので、ワクチン義務化の擁護論はずっと弱いものになりました。

  6. 私が肥満に言及すると「肥満の辱め」という非難を受けることが多いのです。ならばこう言わせてください。肥満を人々の弱い意志力や愚かな選択のせいにすべきではありません。その元になっているのは、子供時代のトラウマ、社会的な刷り込み、有毒な環境、身体活動が「エクササイズ」というカテゴリーに分離される社会基盤、食物へと転嫁される満たされないニーズ、本物の栄養が欠如した食物環境、その他多くの要因です。過食が伴わないこともあります。過食の場合、誰かの体重を、特に自分自身の体重を減らす方法として、肥満の辱めは実際には逆効果です。その理由は、(特に砂糖の)過食は無条件の愛情と受容の欠如を埋め合わせる手段かもしれないからです。私たちが自分自身とお互いをそのまま愛すとき、その段階が完了し変化が可能になります。これらを含む関係する考えを探索し実践的に取り込むため、私は「食生活の変革」という小さなオンライン講座を開催しました。


 

原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/beyond-industrial-medicine

【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
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翻訳:酒井泰幸

 

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