群衆の中の孤独
訳者コメント:
日本には、あらゆる物事に既製品と専門家が存在するので、個人の努力は無意味なものになり、そのことが心を蝕みます。「経済的自立」を良しとする人にとって、既製品と専門家は「ありがたい」ものであって、「そんなこと他の人に金を払えばやってもらえる」が捨て台詞になるのです。(まさにその言葉を、前の結婚が破綻したときに投げ付けられました。)
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
4.2 群衆の中の孤独
お金が共同体の解体に深く関わっているのは驚くことではありませんが、それは匿名性と競争が私たちの知るお金に元々備わっているからです。お金の匿名性は、その抽象性の働きです。貨幣の歴史は実体的な物から価値がだんだんと抽象化されてきた歴史です。初期の貨幣はそのものに本来備わる価値を持っていて、携帯性、貯蔵性、普遍性があることで他の価値ある物とは区別されていました。ラクダであれ、袋に入った穀物であれ、壺に入った油であれ、初期の交換媒体は社会のほぼ全ての構成員にとって元々価値ある物でした。
社会の専門性が増し貿易が盛んになるにつれて、貨幣はより抽象的な形態へと発展し、貨幣その物の本来の価値ではなく、貨幣価値への集団的な信頼に依存するようになりました。穀物袋の象徴を交換できるなら、なぜ実際の穀物袋を交換するでしょうか? 硬貨の大部分と紙幣は、その価値の根拠を実用性ではなく集団的な認識に求めます。金貨は食べられません。
価値の抽象化が次の段階に進むと、貨幣は実体的な物の象徴からも切り離されました。20世紀に金本位制が廃止され、1ドルの価値は単に1ドルということになりました。通貨は完全に抽象的な価値の象徴となり、実際その抽象化はあまりに完全で、もはや何の象徴でもなくなりました。これは言語と気味が悪いほど似ています。言葉が私たちの感覚という現実の中で拠り所を失い「ただの意思疎通にも大げさな語り口が必要」となったように、お金もまた単なる価値の表象ではなく価値そのものとなりました。この抽象化は最近の30年で最終段階を迎えました。それは、実体的な通貨を完全に廃止し、コンピュータの中の数字に置き換えていくというものです。
言葉がますます何の意味も持たなくなるのと同じように、お金もまた、かつて価値の象徴だった実用品から切り離され、金属の塊、紙切れ、コンピューター上のビットでしかなくなるという危機に近づいています。この結末(つまり、超インフレと通貨崩壊)を食い止めようとする私たちの努力は、技術的対策の論理を反映したもので、最後の審判の日を先送りするだけです。
お金は実用品から抽象化されているだけでなく、人間に対しても抽象的です。誰のお金でも同じなのです。ラクダや油の壺など、形ある物にはその起源にまつわる個性がありますが、お金は完全に無個性であって、完全に匿名です。預金通帳の数字には、そのお金が誰から出たものなのか何も書かれていません。この人のお金もあの人のお金も価値は同じです。ますますお金に依存する私たちの社会が、ますます無個性で匿名的な社会になっているのも、偶然ではありません。貨幣とは、大量生産と分業に内包されている標準化と非個性化を〈機械〉の社会が現実化する方法なのです。しかし単に非個性化を実現する手段であるという以上に、お金はそれをさらに推し進めます。
それがどのように起きるかを知るために、経済的自立という楽園に戻りましょう。それが約束する安全保証が一時的な幻想に過ぎないことを今は無視して、実際に自立が達成されたときの結果に目を向けてみましょう。多くの場合、見せかけの自立を遂げた時にこそ、その空虚さが最も明らかになるのです。ただ観察してほしいのは、経済的に自立した個人は、同じように自立した個人たちの中で、「仲良くする」「友達を作る」という努力以外には、共同体の基盤を何も持っていないということです。どんなに意欲的な社交の場であっても、その根底にあるのは「本当は互いを必要としていない」という自覚です。例えば、現代のパーティーはほとんど全て、食べ物、飲み物、薬物、スポーツなど何らかの娯楽の消費が基本になっています。それらは私たちが軽薄だと認識するようなものです。この種の楽しみは本当に重要なものではなく、楽しみに基づく友情もまた重要ではありません。一緒にパーティーをすることで親しくなった人はいるでしょうか?
実際、私はそんな共同消費が楽しいとも思いません。欠乏を覆い隠すことで時間をただ苦痛なくやり過ごし、かえって空虚さが募るだけです。私たちの付き合いが表面的なものであることの意味は、そういった「楽しみ」を全く別の活動である「遊び」と対比させることで明らかになります。共同消費とは異なり、遊びはその本質からして創造的です。共同創作は表面的とは正反対の関係を育みます。しかし私たちの楽しみや娯楽それ自体が購入の対象となり、(映画、スポーツ競技、音楽のように)私たちの消費のために遠く離れた匿名の専門家たちによって創造されるなら、私たちは楽しみの生産者ではなく消費者となります。もはや私たちは遊ぶ人ではありません。
遊びは楽しみの生産ですが、娯楽はその消費です。近所の人たちが一緒にスーパーボウルを見るなら彼らは消費者ですが、タッチ・フットボールの試合を企画するなら(残念ながら、それを見る人は最近の公園に誰もいませんが)彼らは生産者になります。ミュージック・ビデオを一緒に見るならそれは消費ですが、バンドで演奏するなら生産です。後者の活動を通じてのみ、互いの長所と限界、人柄と内なる資質を知ることができるのです。対照的に、よくあるカクテルパーティーや、ディナーパーティー、スーパーボウルパーティーでは、打ち解けて自分自身を分かち合う機会がほとんどありませんが、それは何もすることが無いからです。(そして、そのような場で自分を分かち合おうとするなら、わざとらしく、居心地が悪く、気まずく、不適切で、恥ずかしく感じられることにお気づきでしょうか?)さらに、本当の親密さは、自分自身について語ること、子供時代、人間関係、健康問題などを語ることからではなく、共同で創造力を発揮することから生まれるのであり、そのような機会があなたの本当の資質を引き出し、目の前の仕事に必要となるあなたの一面を見せるよう誘うのです。その後に親密さが深まれば、自分のことを話すのは自然なことかもしれませんし、その必要さえ無いかもしれません。
子供時代の友情は、大人になってからのそれよりも親密で絆が深かったのはなぜだろうと思ったことはありませんか? 少なくとも私のはそうだったのを憶えています。それは、私たちが自分の気持ちについて腹を割って話し合ったからではありません。幼なじみの友だちには、言葉ではおそらく伝わらない親密さを感じていたのです。私たちは一緒に何かをし、一緒に何かを創り出しました。大人から見れば、私たちの創造性は遊び以外の何物でもありませんでした。私たちの陣地遊びや段ボール箱の家、ままごと遊びのお茶会、空想のスポーツチームやテディーベアの家族は、現実ではありませんでした。しかし、子供の私たちにとって、これらの活動は実にリアルなものでした。私たちは本当に真剣で、ごっこ遊びに注いだ情熱は、大人の世界のそれに引けを取りませんでした。
そう、大人の世界も〈ごっこ遊び〉なのです。役割と衣装、駆け引きと見せかけが、広大な物語を構成しています。それに気付くと、私たちはその全てに人工的なものを感じ取り、大人の振りをする子供のように感じるかもしれません。文化とテクノロジーという殿堂の全体が、世界のあり方について象徴で構成された物語の上に築かれているのです。ふつう私たちはそれに気付かず、その全てが「本当」だと思っています。私たちの物語はほとんど無意識のものです。しかし古い廃墟から立ち上がる新しい殿堂は、自己と世界についての全く異なる物語の上に建てられ、その物語は意識的に語られることになります。私たちは遊びに立ち帰るのです。
子供の頃、一緒にすることは私たちにとって重要なことでした。それは私たちにとって本物で、真剣に心を配り、私たちの全存在を呼び起こすものでした。対照的に、大人になってから楽しみや友情のため一緒にすることのほとんどは、どうでもいいことです。それらを私たちは軽薄で不必要なものと認識し、「空き時間」へと追いやります。子どもが遊びを後回しにして空き時間にするなど、強制されない限り有りえません。
私の子供時代、長い午後に友だちと色々な事業に没頭したのを覚えていますが、その時それは宇宙で最も重要なものになりました。私たちは仲間と事業にとことんまで没頭しました。結束した私たちは個人の単なる総和より大きなものになり、全体は部分の総和より大きなものでした。繋がりへの欲求を満たす友情とは、一人ひとりを自分以上の存在にしてくれるものなのです。そこに現れる新たな特質は、パートナー双方のものでありながら、どちらのものでもなく、バーバーショップ・カルテットの合唱で4人の和声から「第5の声」が生まれるようなものです[訳註]。大人になってからの人間関係の多くで、私は大きな存在ではなく、小さくなったと感じます。境界を捨てて自分よりも大きなものの一部になったとは感じられず、自分の境界線を固く守り、安全とか好印象とか適切な自分の、ごく一部だけを小出しにしていることに私は気づきます。他の人たちも同じようにします。私たちには遠慮があります。私たちには節度があります。
私たちが遠慮するのは不思議なことでもありません。それは私たち大人の友人関係の中に、人と一緒に何かをせずにはいられないようなものが、ほとんど無いからです。みんなで集まって話すこともあり、食べて話すこともあり、飲んで話すこともあります。映画やコンサートを一緒に見て楽しむこともあります。共同で消費する機会は数多くありますが、共同で創造性を発揮する機会や、強い関心を持って一緒に何かをする機会はほとんどありません。せいぜい友人とセーリングに出かけたり、スポーツをしたりするくらいで、そのとき私たちは少なくとも共通の目的に向かい一緒に行動しているにもかかわらず、私たちはそれをゲームや道楽と認識するのです。大人の友情が表面的に思える訳は、それが表面的だからです。集まって話す、あるいは集まって娯楽に浸ること以外、することが見つからないのは、私たちの社会が専門化したため、他にすることがほとんど無くなってしまったからです。だからティーンエイジャーはいつもこう言うのです。「何もすることがない」と。彼の言うとおりです。私たちが大人になると、遊びの代わりに消費が、共同創造の代わりに競争が、そして遊び仲間の代わりに職場の同僚が充てがわれるのです[1]。
「お互いを必要としてなどいない」という感覚は、決して余暇の集まりに限ったことではありません。現在の世界におけるコミュニティーの喪失について、これ以上の表現があるでしょうか? 私たちはお互いを必要としてなどいないのです。私たちの食料を栽培し、出荷し、加工し、衣服を作り、家を建て、音楽を作り、車を作り、修理する人を知る必要はなく、私たちが仕事をしている間に赤ちゃんの面倒を見てくれる人のことを知る必要さえありません。私たちは役割に依存していますが、その役割を果たす人には付随的に依存しているに過ぎません。何であれ、お金さえあれば、誰かにお金を払ってやってもらえばいい(あるいは他の誰かにお金を払ってやってもらえばいい)のです。ではどうやってお金を手に入れるのでしょうか? おそらくは別の専門的な役割を果たし、私たちから何かをしてもらうために他の人たちが支払う対価を得るのです。これを私は金銭化された生活と呼んでいて、そこでは存在のほぼ全ての側面が商品に変換されるか、経済的価値を付与されます。
生活に必要なものは専門家の手に委ねられてしまったので、私たちには(自分の専門分野以外で)意味のあることは何も残っておらず、娯楽を楽しむしかありません。一方、私たちに残された日常生活での働きは、そのほとんどが孤独なものです。自動車の運転、買い物、支払い、インスタント食品の調理、家事。このどれも、隣人や親戚、友人の助けを必要としません。私たちは隣人との距離がもっと近ければ良いのにと思い、自分たちは喜んで彼らを助ける友好的な人間だと思っています。しかし彼らを手伝うような物事はほとんどありません。家という箱の中で、私たちは〈自活〉しています。というより、私たちは自分の知っている人に対しては自活していますが、何千キロも離れたところに住む見ず知らずの他人には、かつてないほどに依存しているのです。
危機の時にこそ、私たちは隣人との距離を縮めることができます。日常生活の単純な働きが健康危機で不可能になったり、食料や電気の供給や交通手段など、遠くの見知らぬ他人に依存しながらも身近な隣人には頼れないようなものが、自然災害や社会危機で途絶えたりしたとき、私たちは喜んで助け合います。互恵的な関係がすぐに生まれます。でも普段から隣人を助けることがあまり無いのは、助けることが何もないからです。
典型的な郊外の住人にとって、何か友人とすることがあるでしょうか? 楽しみのため一緒に料理をすることはあるでしょうが、食べ物を作るのにお互いの助けは必要ありません。住居や衣服を作るのにお互いを必要とはしません。私たちが病気になったときの世話をするために、お互いを必要とはしません。これらの働きは全て有料の専門家に委ねられ、普通それは見知らぬ人です。大量消費の時代に、娯楽を作り出すのにお互いを必要とはしません。有償保育の時代に、私たちはお互いに子供の世話を頼むのをためらいます。テレビとインターネットの時代に、ニュースを聞くのにお互いを必要とはしません。実際、一緒にすることがほとんど無いだけでなく、話すこともほとんどありません。話すことといえば、天気と芝生と有名人とスポーツのことぐらいです。「深刻な」話題はタブーです。社交の場を言葉で埋め尽くすことができるのは事実ですが、私たちは空虚な気持ちになるばかりで、その言葉を流し込む空虚の痛みを、言葉で埋めることは決してできません。
そして私たちの文化に現れているのは、歴史上類を見ないほどの孤独と本物への渇望です。私たちは「共同体を築こう」としますが、社会の社会・物理的基盤そのものに分断が組み込まれているので、単にそう望むだけでは不十分だということに気づきません。この基盤が私たちの生活に無傷で残っている限り、私たちは決してコミュニティーを体験することがありません。高度に専門化された仕事と、その仕事以外の他の専門家に完全に依存する現代の生活様式にとって、コミュニティーは相容れないものです。私たちが超専門的な生活を送りながら、その上に「コミュニティー」という別の要素をどうにかして追加できると考えるのは間違いです。繰り返しになりますが、本当に分かち合うべきものが何かあるでしょうか? 私たちが隣人から独立し、顔の見えない制度や遠く離れた他人に依存している限り、大したものはありません。試すことはできます。近所の人に会いに行ったり、持ち寄りの食事会やオンライン・コミュニティーやパーティーを企画したり。このようなコミュニティーは決して本物にはなり得ません。なぜなら、もはや生活の本質が匿名性と利便性になっているからです。
食料を栽培し、食事を調理し、娯楽を創造し、衣服を作り、家を建て、家を掃除し、病気を治療し、子供たちを教育するため、プロにお金を払うとしたら、他に何が残るでしょうか?コミュニティーの基盤として他に何が残るでしょうか? 本当のコミュニティーは相互依存関係にあるのです。
いま私たちは経済的自立の不吉な核心にたどり着きました。それは見知らぬ人の世界で私たちを孤立させる性質を持っているのです。私たちが先に挙げたような仕事をやってもらうためにお金を払うのは、見知らぬ人たちです。あなたの食料を誰が栽培しているかは重要ではありません。その人に何か問題があれば、いつでも他の人にお金を払ってやってもらえばいいのです。この言葉には現代社会の多くのことが凝縮されています。全ての職務が標準化され狭く定義されていれば、誰がその職務を担うかは大した問題ではありません。私たちはいつでも他の誰かにお金を払ってやってもらうことができます。個人として、使い捨てにされる機械の歯車だと感じないのは難しいことです。私たちが使い捨てだと感じるのは、生存という点で、また生活のあらゆる経済的職務という点で、私たちが使い捨てだからです。
スーパーの惣菜売場で食品を買うなら、厨房の扉の向こうにいる会ったこともない人たちは、使い捨てです。その人が辞めても、たとえ死んだとしても、誰かがその役割を果たすために雇われるだけです。同じことは、あなたがスーパーストアで買う服を作るインドネシアの労働者にも当てはまります。同じことは、あなたのコンピュータを設計する技術者にも当てはまります。彼らの役割や職務に私たちは依存していますが、個々の人間としては消耗品なのです。もしかしたらあなたは親切で友好的な人で、近所のスーパーマーケットで5年間働いているレジ係と実際に親しげに挨拶を交わすかもしれませんが、あなたは彼女の役割に依存しているにしても、その役割を担っている特定の人物が重要なのではありません。その人と仲が良いとか、名前を知っているとかいうことは大して重要ではありません。彼女は解雇されるかもしれないし死ぬかもしれませんが、あなたの生活にはほとんど関係ありません。大して喪失感を覚えることもないでしょう。よほど小さな町に住んでいない限り、彼女に何が起こったのか知ることも、聞こうと思うこともないでしょう。私たちの物質的な生活を支えている大多数の人々についてはなおさらです。レジ係と違って、彼らは私たちにとって全く顔の見えない存在なのです。
経済社会が私たちの役割に依存しているにもかかわらず、どのような個人がその役割を果たそうとも気にしないため、私たちを苦しめる不安感と不安定が社会の隅々まで行き渡っています。それは、自分がいなくても世界は何の問題もなくやっていけるという事実から来るものです。私たちは簡単に取り替えられます。もちろん、友人や愛する人たち、つまり私たちを個人的に知っている人たちにとって、私たちはかけがえのない存在です。しかし現代社会がますます細かく分業化され大規模化が進むにつれ、このような人々はどんどん減っていきますが、それはいっそう多くの社会的職務が金銭化された領域に入っていくからです。こうして私たちは恐怖と不安感と不安定の中で生きていますが、それも当然だといえるのは、私たちがお金を稼ぐために果たす役割において簡単に置き換え可能だからです。
あなたがいなくても全く問題ない。他の誰かにお金を払ってやってもらうだけだ。
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注:
[1] 私たちは、特に共通の利害のために献身している限りにおいて、仕事上の同僚と友人になるかもしれない。しかし、職場における友情の可能性は、私たちの仕事における主な動機付けとしてお金が優位であることによって毒されている。そして、個人的な利益は共通の利害とはならない。それどころか、労働者は昇進や終身在職権、その他の手当をめぐって競争しなければならないことがあまりにも多い。お金が人々を労働に駆り立てる主な動機である以上、お金を稼ぐことは当然、その労働の主な目標として、共同創造よりも優先される。それゆえ、職場での友情はしばしば高度に条件付きのものとなる。
[訳註] バーバーショップ・カルテットとは、19世紀アメリカで理髪店に集まる男たちの中から生まれ、黒人音楽の影響を受けた独特の無伴奏四部合唱。上から二番目のパートである「リード」 がメロディーを歌う。4声の合唱から第5の声がするというのは、完璧にハモった声に含まれる「倍音」が強め合い、一段高い別の声として聞こえてくることを言っている。
https://youtu.be/0q4o_8-xe4E?si=OC6tV60bq5dhzWsL
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-02/