見出し画像

祭の死


チャールズ・アイゼンスタイン著
2021年6⽉(ルネ・ジラール論考:第1部)

我々は、科学技術⾯では⽂明的だが、⼼の問題では野⽣的で原始的という⼆重⽣活を送っている。原始的であることを意識しなくなったことで、我々の中にある飼いならされた野⽣のようなものが、より危険なものになっている。 (ハンス・フォン・ヘンティグ)

⾃然の秩序は崩壊しつつあります。疫病、洪⽔、⼲ばつ、政情不安、暴動、経済危機などが、社会が⽴ち直る前に次から次と襲いかかります。⼈間の⽣活を包んでいる正常性という殻に⻲裂が⼊ります。歴史上、社会は繰り返しこのような状況に直⾯してきましたし、現在も同様です。

私たちは、⾮科学的だった昔の⼈たちよりは合理的で効果的な対応をしていると思いたいのですが、そうではなく、昔からある社会的なドラマや迷信を現代の神話の⾐をまとって演じているだけです。それもそのはず、私たちが直⾯している最も深刻な危機は、新しいものではないからです。

いま⼈類が直⾯している問題は、技術的に解決が難しいものではありません。ホリスティック農法を用いれば、⼟壌や⽔を癒し、炭素を固定し、⽣物多様性を⾼め、実際に収穫量を増やすことで、さまざまな⽣態系や⼈道的危機を速やかに解決できます。また、世界の海の半分で漁業の一時停止を宣⾔するだけでも、海は癒されます。⾃然療法や代替療法の癒しの様式を全身に用いることで、新型コロナの死亡率を⼤幅に減らし、⾃⼰免疫⼒やアレルギー、依存症といった(客観的に⾒ればより深刻な)問題を解決できます。新しい経済制度を導⼊すれば、簡単に貧困を根絶できます。しかし、これらの簡単な解決策に共通しているのは、そこに⼈間どうしの合意が必要なことです。統⼀され結束した社会が成し遂げられることは、ほとんど際限なくあります。だからこそ、⽣態系の崩壊よりも、経済の崩壊よりも、パンデミックよりも深刻な、現代の包括的な危機は、市⺠社会の分極化と断⽚化です。結束していれば、何でも可能です。そうでなければ、何もできません。

哲学者の故ルネ・ジラールは、先史時代から社会にとって最⼤の脅威は「結束⼒の崩壊」だったと考えていました。神学者の S・マーク・ハイムは、このジラールの考え⽅を端的に表現しています。「特に初期の段階では、社会⽣活はもろい新芽のようなものであり、敵対⼼や復讐⼼という災いに⾒舞われると壊れてしまう。法や政府が存在しない場合、エスカレートする報復のサイクルは、社会の根源的な病である。この病を治療する⽅法を⾒つけなければ、⼈間社会が営みを開始するのはほとんど不可能だ。」

これまで試みられてきた対策は、大して素晴らしいものでもありません。ハイムは続けます。

この悪循環を断ち切る⼿段は、まるで奇跡のように現れる。ある時点で、不和によってコミュニティが崩壊しそうになると、グループ内の目立つ⼈物や少数派に対して、⾃然発⽣的かつ⾮合理的な集団暴⼒が発⽣する。彼らは集団が想像しうる最悪の罪で告発される。その罪の巨大さこそ、コミュニティが現在経験しているひどい苦境の原因だったかもしれないのだ。そうして彼らはリンチされる。

この凶行の中に悲しいけれど良い点があるとすれば、それが実際にうまく機能することだ。殺⼈事件のあと共同体が気づくのは、⼀⼈を相手にした全員の戦争が突然起きたおかげで、全員を相手に全員が戦争する事態から救われたことだ。スケープゴートとして⼀⼈の⼈間が生贄いけにえになることで、こらえていた報復⾏為が解消されるのだ。それは「空気を晴らす」ことだ。平和が突然に訪れたのは、そもそも危機の背後にその生贄がいたという絶望的な容疑を裏付けるものだ。スケープゴートの死が解決策であるならば、スケープゴートが原因であったはずなのだ。死がそのような和解の効果をもたらすのだから、生贄は超⾃然的な⼒を持っているに違いないように見える。そのため、生贄は犯罪者、神、あるいはその両⽅になり、神話の中に記憶される。

この解決の前触れとして起きていた、相互暴⼒と無秩序の蓄積を、ジラールはその代表作『暴⼒と聖なるもの』の中で「供犠の危機」と表現しています。分断が社会を引き裂き、暴⼒と復讐がエスカレートし、⼈々は通常の抑制や道徳を無視し、社会秩序はカオスへと溶解していきます。その頂点で、相互暴⼒は満場一致の暴⼒へと移⾏します。群衆は虐殺する生贄(または生贄の集団)を選び、その全員⼀致の⾏為によって社会秩序を回復します。

「理性の時代」になっても、このあがないの暴⼒という深いパターンを根絶することはありませんでした。それどころか理性は暴⼒を合理化し、工業は暴⼒を工業的規模に拡⼤し、ハイテクは暴⼒を新たな⾼みに引き上げる機会をうかがいます。社会がより複雑になるにつれ、贖いの暴⼒というテーマのバリエーションも複雑化しました。でも、このパターンは壊すことができます。そのための第⼀歩は、このパターンをありのままに⾒ることです。


祭の死

フルサイズの供犠の危機を繰り返さなくてもいいように、⼈類社会にほぼ普遍的な制度である「祭」が⽣まれました。ジラールは⺠俗学、神話、⽂学などを駆使して、祭が秩序の崩壊とそれに続く暴⼒的な⼀致団結による回復を再現する儀式として⽣まれたと主張しています。

真の祭は飼いならされたものではありません。それは、通常のルール、道徳観、構造、社会的区別を一時的に無効化することです。ジラールはこう説明します。

このような(法的、社会的、性的規範の)侵害は、最も広い⽂脈から⾒なければならない。つまり、全体的な差異の排除だ。家族や社会のヒエラルキーが⼀時的に抑えられたり、逆転したりして、⼦供は親を、使⽤⼈は主⼈を、家⾂は領主を尊敬しなくなる。このモチーフは、祭日の美学にも反映される。衝突する⾊の表⽰、異性装した⼈物のパレード、白黒まだら模様の「愚者」のドタバタ劇などだ。祭の期間中は、不⾃然な⾏為や⾮道な振る舞いが許され、むしろ奨励される。

予想されるように、このような差異の破壊は、しばしば暴⼒と争いを伴う。部下は上司を侮辱し、社会の様々な派閥は罵詈雑⾔を投げ合う。混乱の中で論争が繰り広げられる。多くの場合、ライバル関係というモチーフは、コンテストやゲーム、スポーツイベントのような形で登場し、儀式のような雰囲気を醸し出す。仕事は中断され、祝賀者たちは酒宴に⾝を投じ、何ヶ⽉もかけて蓄えた⾷物を一気に消費する。

この種の祭は、社会の結束を固め、結束が崩れると⼤惨事が待ち受けていることを社会に知らしめる役割を果たしています。その名残は、サッカーのフーリガン、ストリートカーニバル、⾳楽祭、そしてハロウィンの「トリック・オア・トリート」などに⾒られるように、今もかすかに残っています。「トリック」は既成の社会秩序が⼀時的に破壊されたことの遺物です。ドルイド学者のフィリップ・カー=ゴムは、ケルト⼈がハロウィンの前⾝としたサウィン祭をこう表現します。

10 ⽉ 31 ⽇から 11 ⽉ 2 ⽇までの サウィン祭は、時間のない時間だった。ケルト社会は、他の初期の社会と同様、⾼度に構造化され、組織化されており、誰もが⾃分の居場所を知っていた。しかし、その秩序を⼼理的に心地良いものとするためには、秩序や構造が放棄され、混沌が⽀配する時が必要であることをケルト⼈は知っていた。サウィン祭はそういう時間だった。この祭の3⽇間は時間が廃⽌され、⼈々は狂ったことをし、男は女装し、⼥は男装した。農家の⾨は外して溝に放り込まれ、⾺は違う⼈々の畑に移された...。

現代の「先進国」社会では、ハロウィンなどの祝⽇や、⽂化的に認められたどんなイベントも、このレベルの無秩序を許しません。私たちの休⽇は完全に飼い慣らされたものです。これは良い兆候ではありません。ジラールはこう書いています。

脱儀式化された祭の楽しげで平和的な外⾒は、代理の生贄やその団結⼒への参照を取り除いたものだが、相互の暴⼒が伴う供犠の危機の枠組みの上に成り⽴っている。だからこそ、平凡な祭や「余暇社会」の安っぽいユートピア主義の背後のどこかに悲劇が潜んでいることを、本物の芸術家たちはいまだに感じ取ることができるのだ。祝祭⽇がつまらぬもの、下品なもの、平凡なものになればなるほど、⼈は何か不気味で恐ろしいものが近づいていることを敏感に感じ取る。

最後の⼀⽂には、不吉な予感が漂っています。私は何⼗年もの間、⾃分たちの⽂化の中で退化していく祭を、自分でもよくわからない警戒⼼を持って⾒てきました。ハロウィンの夜が午後 6 時から 8 時までの間に細々と⾏われる⼦供の遊びに変わり、復活の儀式がイースターバニーとジェリービーンズに変わり、ユールが消費の乱痴気騒ぎに変わっていく中で、私たちは自身を俗世間の箱の中に押し込めました。それはつまり、野⽣を完全に遮断することで狭い秩序を維持しようとする総体的な飼い慣らしだと私は理解しました。その結果は、爆発しかないと私は思いました。

祭は、単にガス抜きのために必要なだけではありません。⼈間が世界を秩序づけることの⼈⼯性と脆弱性を思い起こさせ、その中で発狂してしまわないようにするために必要なのです。

集団的狂気は、誰もが知っている真実を否定することから⽣まれます。⾃分が⼈⽣という⽂化的ドラマの中で演じている役割や仮面ペルソナではないことを、すべての⼈間は無意識であれ知っています。社会のルールは恣意的なものであり、ショーが結末まで演じられるように設定されていることを、私たちは知っています。このショーに参加し、舞台の上で⾃分の時間を闊歩したり悩んだりすることは、狂気ではありません。映画の中の俳優のように、私たちは⼈⽣における⾃分の役割を熱⼼に演じることができます。しかし、役者が演じていることを忘れ、役に完全に没頭するあまりそこから抜け出せなくなり、映画を現実と勘違いするようになったら、それは精神病です。社会秩序の慣習から逃れ、その中での⾃分の役割から逃れることがなければ、私たちも正気を失います。

⻄洋社会が集団的精神病の兆候を⽰していることは驚くにあたりません。現在残っている祭の痕跡は、先に述べた休⽇、クルーズ船、パーティー、バーなど、スペクタクルの中に封じ込められていて、その外には存在しません。バーニングマンや、変容的な音楽アートのフェスティバルは、祭本来の機能の⼀部を発揮してきましたが、最近になってオンライン・プラットフォームに追放され、超越的な可能性が失われてしまいました。主催者は祭のアイデアを維持するために最善を尽くしていますが、オンライン・フェスティバルは消費のための単なるショーになってしまう危険性があります。⼈はクリックし、座って、⾒ているだけです。対⾯でのフェスティバルは違います。それは旅から始まり、試練(何時間も列に並ぶ)を受けなければなりません。最終的には、⼊り⼝の神殿(登録ブース)にたどり着き、そこで⼩さな占いの儀式(名簿のチェック)が⾏われ、(事前に適切な⽣贄、つまり⽀払いを⾏ったことで)参加する資格があるかどうかが判断されます。そして、ブースにいる祭司や巫⼥から、常に⼿⾸につけておくべき特別なお守りを授与されます。このようにして、⾃分が別の領域に⼊ったことを潜在意識は理解します。そこでは、少なくともある程度、通常の区別や関係、ルールが適⽤されません。ところが、オンラインイベントはどれも家庭内で安全に⾏われます。内容はどうであれ、身体はそれをショーとして認識します。

より⼀般的には、閉じ込められ、ロックダウンされ、締め出されて、人々はインターネットという⾼度にコントロールされた環境の中に監禁されて気が狂いそうになっています。「コントロールされている」というのは検閲のことではなく、むしろ、触覚的、運動的な次元を⽋いた現実の描写を、座して⾒ているという身体的な体験のことです。オンラインでは、リスクというものがありません。確かに、誰かがあなたの感情を傷つけたり、評判を落としたり、クレジットカードの番号を盗んだりすることはあるかもしれませんが、これらはすべて⽂化的なドラマの中でのことです。滑りやすい岩の上を渡るとか、暑い中を歩くとか、釘を打つとか、そういうものとは別次元のことです。社会慣習としての現実は⼈⼯的なものなので、⼈間が正気を保つためには、慣習とは異なる現実と定期的につながる必要があります。プログラムされていない、野⽣の、本物の体験、つまり魂の糧への飢えは、調理済み食品のような休⽇、オンラインでの冒険、教室での練習、安全なレジャー活動、消費者の選択といった現代のメニューの下で、さらに強まっています。

本物の祭がなければ、鬱積した欲求は、ジラールのパターンに従う⾃然発⽣的な擬似祭典として噴出します。このような祭に付けられた呼び名のひとつが暴動です。暴動では、本物の祭と同様に、⼀般的な⾏動規範が覆されます。私有財産、不法侵⼊、道路や公共スペースの使⽤などに関する境界線やタブーが、「祭」の期間中は解消されます。このような社会的崩壊の再現が頂点に達すると、本物の集団暴⼒か、カタルシスをもたらす擬似暴⼒(これは容易に本物へと移行します)のどちらかになります。そのひとつの例が像の打ち壊しで、たとえそれが「⾏動を起こす」という名⽬であっても、本物の⾏動の代わりに象徴的な⾏動で置き換える明らさまな儀式です。確かに、(⽩⼈⾄上主義などの象徴を含む物語を解体するという)その理由は理解できますが、その主な役割は象徴的暴⼒による団結の⾏為です。しかし、このような社会的緊張のカタルシスによる解放は、そもそもその緊張を⽣み出している深い状況を変えることがほとんどありません。それゆえ、その状況の維持に加担するのです。

私が2000 年代初頭に⼤学で教鞭をとっていたとき、暴動には祝祭的な側⾯があることに気づきました。私の学⽣の何⼈かが、バスケットボールで地元チームが勝利した後、暴動に参加しました。最初はお祭り騒ぎだったのが、すぐに窓ガラスを割ったり、道路標識を盗んだり、農家の⾨を壊したりして、社会秩序を乱しました。これらの違反⾏為は、ストリートカーニバルのような創造的な側⾯も持ち合わせていました。ある学⽣は、発泡スチロールで巨⼤な「ファックサイン」を作り、街中を練り歩いたと述懐し、「⼈⽣で⼀番楽しかった」といいました。この祭は、封じ込められ骨抜きにされたどんな祝⽇にもまして、⽣まれ出ようとしている本物の祭でした。そして、それは安全なものではありませんでした。誤って怪我をする人もいました。本物の祭は真剣なものです。普通の法律や慣例、モラルや因習は通⽤しません。独⾃の進化を遂げることはあっても、それは有機的に発生するもので、通常の秩序の権威によって押し付けられるものではありません。そうでなければ本物の祭ではありません。本物の祭は、本質的には繰り返される儀式化された暴動で、独⾃のパターン言語を進化させてきました。

ロックダウンされ、取り締まられ、規制された社会であればあるほど、その秩序から外れたものに対する寛容さは失われます。そして最後に残る唯一のミクロ祭が、ジョークです。物事をそれほど深刻に考えないということは、現実の外側に⽴つことです。それは、この現実は私たちが作り出しているほどにリアルなものではなく、この外側に何かがあるということを、しばし確認することです。ジョークの中には真実があり、それは祭の中にある真実と同じものです。それは、社会慣習としての現実による完全な囲い込みからの遮断です。だからこそ、全体主義的な運動はユーモアを⾮常に嫌うのです。唯⼀の例外は、相⼿を貶めたり、あざ笑ったりするようなユーモアです。 (⼈種差別的なユーモアなど、⼈をあざ笑うユーモアは、実際にはスケープゴートの準備として⼈間性を奪う道具です。)ソビエト・ロシアでは、間違ったジョークを⾔っただけで収容所に送られることがありましたが、この国で⼈々の正気を保っていたのもまたジョークでした。権⼒者の愚かさをあぶり出すだけでなく、彼らが押し付けようとする現実を軽視することによって、ユーモアは深く反体制的にもなり得ます。

社会慣習としての現実を覆すユーモアは、平和の原始的な提案でもあります。つまり「敵対相⼿をそんなに深刻に考えないようにしよう」ということです。だからといって、常に冗談を⾔い、ユーモアを使って親密さを茶化し、⼈間社会の体験というドラマで演じると同意した役割から⽬をそらすべきだと⾔っているわけではなく、また⼈⽣が終わりのない祭であるべきでもありません。しかし、ユーモアは私たちを超越的な現実に繋ぎ止める⼀種のミクロ祭のような役割を果たすので、良いユーモアのある社会は供犠の暴⼒に⾛る必要のない健全な社会である可能性が⾼いのです。そして、政治的に正しい範囲内にジョークを閉じ込めようとする社会は、祭を飼いならした社会と同じく「不気味で恐ろしい」展望に直⾯します。ユーモアの欠如は、供犠の危機が迫っているという兆候です。

⾮現実的な世界に閉じ込められた結果として⽣じる正気の喪失は、ジラールのいう供犠の危機そのものであり、その本質的な特徴は仲間どうしの暴⼒です。感情が傷つくこと以外はほとんど問題にならないので、オンラインでのやりとりは対⾯でのやりとりに⽐べて争いが少ないと思うかもしれません。しかし、当然ながらその逆です。それはこのように理解することもできます。「⼈⽣」という秩序ある社会慣習という領域の外にある超越的な視点がなければ、些細なことが⼤きく映るようになり、⼈⽣を真剣に考えすぎるようになるということです。意⾒の相違の存在を否定するわけではありませんが、それを理由に戦争をする必要があるでしょうか。私たちが問題の原因として非難する相⼿の⽋点は、本当にそんなにひどいものなのでしょうか? ジラールは次のように述べています。「供犠の危機の最中に激しく争っている同じ⽣き物が、危機の前も後も、儀式的な秩序という相対的な調和の中で共存することが⼗分に可能である」と。

ソーシャルメディアの現状を調べると、私たちは本当に激しく争っていることがわかります。そして、それが単なる⾔葉の綾に留まると限らないのは、不気味で恐ろしいものが近づいてきているからです。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/essays/girard-series-part-1-the-death-of-the-festival/

【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
次> ファシズムと反祭
<前 白人至上主義の宴(3)


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸

いいなと思ったら応援しよう!