「我」と「我が物」という領域
訳者コメント:
世界から切り離されたちっぽけで孤独な自己は、その欠乏感を、自分でない物を自分に取り込むことで補おうと求めます。私たちが理想とする「経済的に独立した人」は、幸運や善意に依存しないだけのお金を持っていて、誰にも依存しておらず、いつでも「誰かに金を払ってやってもらう」ことができるので、義務も無く、誰の恩義も受けていません。だから私たちは他人や自然に対してここまで冷酷になれるのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
第4章:お金と所有
4.1 「我」と「我が物」という領域
所有物という観念は個別ばらばらの自己に自然発生します。デカルトの客観主義が世界を自己と他者に分割したように、所有物の観念は世界を私の物とあなたの物に分割します。ガリレオの唯物論が、実在するのは測定可能なものだけだと主張するように、経済学はあらゆる価値を貨幣単位で表します。
我が物にしたいという衝動が生じるのは、人との実感できる繋がりを断ち切り、私たちを「宇宙で独りぼっち」にして疎外するイデオロギーへの、自然な反応です。あらゆる存在の基盤との繋がりと一体感を奪われ、そこにぽつんと残された小さな自己は、自分という存在から失われたものを可能な限り多く取り戻そうと、飽くことのない欲求を持つようになります。もし世界の全てが、生命と地球の全てが私でないのなら、それを我が物にすることで少なくとも埋め合わせはできます。
幼児については、「欲しがるものが必要なものだ」と言われます。実は大人にも同じことが言えるのですが、大人の「欲しい」はあまりにも歪んでいて、欲しい物は本当の必要を満たせないばかりか、さらに欠乏を煽ることさえあります。同じことが欲張り、強欲にもいえます。強欲は、人間の本性に付きまとう嘆かわしい添え物ではなく、コントロールしたり克服したりできるようなものでもありません。それは一体感への渇望から生じるのであり、一体感を育む豊かな関係性への渇望から生じるのです。皮肉なことに、あらゆる依存症のパターンと同じで、強欲に溺れるのは根本的な欠乏を悪化させるだけです。その理由は、世界を我が物という領域へと多く囲い込むほど、私たちが渇望する相互共存という繋がりのある状態から、私たちをさらに引き離すことになるからです。
おそらくこの認識があれば、欲張りな人たちに一方的な判断をしなくて済むでしょう。こんど欲張りを見かけたら、飢えた人だと思ってみましょう。こんど自分が欲張りだと感じたら、その欲の根底にある欠乏感、つまり実存的な不完全さに触れてみましょう。同じことが身勝手や我が儘の全般にも当てはまりますが、それは自己の外側にある世界を、自己の利益になるように管理しコントロールしたいという、窮屈な感覚なのです。あらゆる形の我が儘は、実際にはイデオロギーによって人為的に小さくされた自己を、膨張させ利益を得ようと求めるものです。
この「我が物」という言葉が示すように、所有とは物を自己に結び付けることを意味します。多く所有すればするほど、私たちはより大きな存在になります。我と我が物の集積は増大します。でも、孤立した自己がどれほど大きくなろうと、狩猟採集民の自己に比べればはるかに小さいのです。分断される前の心なら、「私はこの肉体である」、「私はこの部族である」、「私はジャングルである」、「私は世界である」と、全て矛盾なく同時に認めることができます。いくらジャングルを支配しようと、「私はジャングルだ」と知る者よりも小さい存在にしかなれません。いくら社会を支配しようと、「私はこの部族なのだ」と知る者に比べれば、はるかに小さい存在にしかなれません。そして安心という点でもはるかに劣っていますが、それは私たちのちっぽけでばらばらな個別の自我に付属している物は全て、簡単に切り離されてしまう可能性があるからです。したがって私たちは永久に、救い難いほど不安定なのです。私たちは、身分を示す付属品、つまり所有物とお金と評判を守るためならどんな苦労も惜しまず、家が泥棒に入られたり、財布を盗まれたり、評判を傷つけられたりしたとき、私たちは自己そのものを侵害されたように感じます。
私たちの欲深さは分断から生じるだけでなく、分断を強化もします。森や遺伝子、アイデア、イメージ、歌が、所有権の認められる別個のものだという考え方は、かなり最近のものです。世界の一部を所有し、神聖な宇宙の一部を切り離し、それを我が物にするなんて、いったい私たちは何者でしょうか? このような思い上がりは、かつての世界には知られていませんでしたが、それがもたらした不幸な結果は、現実の基盤から自分自身をも切り離し、互いから、自然から、そして魂から、(事実ではないにせよ、体験的には)私たちを切り離すというものでした。世界とそこにある全てを物扱いし、世界を他者とすることで、必然的に私たちはその他者との関係の中で自分自身を物として扱うことにもなるのです。自己は孤独で孤立した自我となり、実際的には世界と繋がっていても本質的には繋がっておらず、死を恐れ、生に対して自分を閉ざします。そのような自己は、自分の本性から切り離され、自身の定義が作り出した人工的な環境から隔てられているため、常に不安であり、常にこの環境へのコントロールをますます強めようとします。
自分の身体や所有物や支配する領域と自己が同一だと思うのと同じくらい、私たちは死を恐れます。私がここで言っているのは、どんな動物でも捕食者と出会えば闘うように駆り立てる生物学的な恐怖ではなく、私たちが死を取り繕ったり逃げ隠れたりするよう仕向ける漠然とした恐怖のことです。他のどんな危機にもまして、死はただ近づいてくるだけで、孤立した自己の砦を崩す侵入者となります。自分自身が死に瀕したり、あるいは愛する人が亡くなったりすると、我と我が物という構築物を超えた現実へと私たちを繋げてくれます。死は私たちの心を開きます。死があらゆる論理を凌駕する明晰さで思い出させてくれるのは、愛だけが本物であることです。愛とは、自他の境界が崩壊することではありませんか? 多くの詩人が理解しているように、愛もまた一種の死なのです。
部族、森、地球と自分が一体だととらえる人にとって、自分の肉体とその支配が及ぶ限りのものが死ぬのは、まったく恐ろしいことではありません。別の言い方をするなら、このような人は世界に恋をしているのです。愛が死の恐怖への解毒剤となるのは、儚いものの範囲を超えて自分を広げてくれるからです。その反対に、死への恐怖は私たちを閉じこめ小さくすることで愛を阻みます。死への恐怖が組み込まれた私たちのイデオロギーは、客観主義科学が暗黙のうちに含んでいる自己定義なのです。
お金と所有物は、この自己定義をただ実行に移しているだけです。それらが体現しているのは、孤立した自己、つまり死を恐れ、愛に閉ざされた自己です。現在の形のお金は、愛に反するものです。しかしそれが諸悪の根源なのではなく、分断のもうひとつの現れであり、パズルのもうひとつのピースに過ぎません。現在の通貨とは正反対の効果を持ち、「我と我が物」の蓄積を構造的に抑制するような、別の通貨制度も可能なのです。興味がありますか? どうぞ読み進めて下さい。それについては第7章で説明します。
貨幣制度のようなものを、単独で変えることはできません。それは、私たちの自意識と、自我を自分だと思っていることとに一致しているだけでなく、ここまで述べてきたような分断の形而上史学的な過程から生じるものでもあります。[訳註]
世界を物として捉える客観的な見方は、火と石器、名付けと数の中にすでに芽生えていましたが、農耕の出現によって新たな段階へと結晶化しました。それは動植物の家畜化であり、自然を人間の目的のために作り変えることです。その後、機械が分断をさらに新たな段階へと押し上げました。機械は自然の制約を超越することを約束し、私たちを自然から引き離し、その上に立たせましたが、その一方で機械社会の大規模化と分業化は人間の共同体を瓦解させました。そしてついに、機械の方法と論理が科学において頂点に達した結果、長い間かけて現れた孤独な自己というイデオロギーは神格化され、真理の地位にまで高められました。
このイデオロギーを物質的・社会的な領域で展開する舞台は整いました。世界が(象徴文化のように)物の集合体になるとき、これらの物が(家畜化や農耕のように)人間の用に従わされるとき、それらは必然的に所有物となり、売買され、人間の目的にとっての有用性で定義されるものとなります。次に科学と機械テクノロジーが自然の征服を社会全体に押し広げると、世界を貨幣と所有物に作り変える動きも全体に向かって広がっていきます。本章で論じる生命の所有権化と収益化を必然的に生み出した分断は、農耕あるいはそれ以前に始まり、ニュートン的な世界マシーンによって概念的に完成しました。
お金は道具であり、原因ではありません。自然、魂、愛、美、正義、平和、そして共同体から、私たちを最大限まで分断するための道具なのです。
お金の論理にどっぷり浸かっている私たちは、実はこの分断を良いことだと考えています。それがとんでもないことのように思えるなら、「経済的自立」と、それに密接に関連する「経済的安定」という目標が何を意味するのか考えてみましょう。経済的な安定とは、幸運や善意に依存しないだけの十分なお金を持つことです。お金が約束するのは、自然の気まぐれや運命の浮き沈み、物理的・社会的な環境から私たちを隔離することです。この観点からすれば、経済的安定を求めるのは〈テクノロジーの計画〉を個人生活に投影しているに過ぎません。環境の気まぐれから身を守ること(つまり環境を支配し、コントロールの下に置くこと)は、テクノロジーが古くから追い求めてきたことです。またその達成(つまり自然の完璧なコントロール)は、完璧な安全とリスクの廃絶をも意味します。
運命の気まぐれや自然の激変、コミュニティへの依存から自分を完全に解放しようとする企てが、実際に成功することは決してありません。(それは〈テクノロジーの計画〉が自然を完全にコントロールする企てに決して成功できないのと同じことです。)しかし見せかけの成功はしばらく続くかもしれません。アメリカに典型的な郊外に住む上流中産階級で、良い仕事に就いていて(さらに、万一のことがあっても別の良い仕事に就けるような履歴書も持っていて)、健康で(さらに、何かあったときのための保険がたくさん掛けてあって)、分散投資を(念のため)してある、などなど。そのような人は、まさに本当の意味で、誰にも、つまりどんな特定の人にも依存していません。もちろん彼の食料を栽培する農家に依存してはいますが、特定の農家や個人に依存しているわけではありません。彼はいつでも「誰かに金を払ってやってもらう」ことができるので、個人の善意は必要ありません。こうして彼は義務のない世界に生きています。誰の恩義も受けていません。
完全な自立は(経済的であれ何であれ)永遠に私たちの手の届かないものであるだけでなく、さらに大きな依存を覆い隠す幻想なのです。その依存が危険だというのではなく、それは幻想なのです。その幻想は、私たちが実際に依存している非常に多くのものから私たちを引き離し、結果として私たちはそれを破壊できるようになります。その幻想を突き破るには何が必要なのでしょうか? 多くの場合それに必要なのは危機です。先に書いたような死との遭遇、あるいは離婚、破産、大病、屈辱、投獄といった人生の破局です。管理とコントロールの企てによって私たちはこれらを可能な限り食い止めますが、最も堅固な自己の砦であっても、いずれその一つや二つが入り込んできます。こうした出来事が私たちを変えます。永続的で信頼できる安全保障を作り出す唯一の方法は、より多くではなく、より少なくコントロールし、生に対して心を開き、硬直した自己の境界を緩め、他人を招き入れ、人々や自然のコミュニティーとの繋がりを持つこと、つまり依存の度を下げるのではなく高めることにあるという気付きとともに、私たちは今までしがみついてきたものを手放すのです。
上なる如く、下もまた然り。このような個人的な危機はそれぞれ、いま人類が直面している集団的な危機と対応します。土壌、水、エネルギーなど天然資源の枯渇の中で、私たちは破産に直面し、地域社会が崩壊し社会構造が引き裂かれる中で、私たちは離婚に直面し、深刻化する環境危機と核戦争の脅威の中で、私たちは死に直面しています。従来の対応は、全てを繋ぎ止め、さらにそれを拡大することで独立という幻想を維持しようとするものでした。それはコントロールの失敗をさらなるコントロールで修正することです。
私たちが社会的にも物質的にも世界からの独立を重視するのは、私たちの基本的な神話に深く根ざしています。根本的に無関心なニュートンの宇宙や、根本的に競合するダーウィンの世界では、世界の他の部分から独立するのが良いことなのは間違いありません。世界をますます多く所有することで、私たちは世界を安全なものにし、我が物にします。私たちは襲いかかる無作為な力を打ち負かし、自らの生存のため利用できる資源を最大限に確保しようとするのです。
本章では、お金が愛、真実、美、魂、自然、コミュニティーを破壊する道具となってきた方法と手段を探ります。概念的なレベルでは、それらの消滅を還元主義的な科学が数世紀前に予言していたのは、それら全てがガリレオの排除した二次的性質の典型例であり、「分解するとそこには存在しない」からです。お金は生命を落とし込むための計算単位であり、還元主義を日常の領域に持ち込みました。本章では私たちが窮乏化していく物語をつむいでいきます。私の目的は、私がどんなに憤慨しているとしても、あなたを苦々しい思いにさせることではありません。私の目的はむしろ、皆さんの期待を高め、自分の中に高い可能性を感じていただくことです。何がどのように失われたのかを明らかにすることで、私たちはその回復への道を切り開くことができるでしょう。あなたの中にある、力を奪われたという感覚に、私は話しかけているのです。あなたが金持ちでも貧乏でも、権力を持つ人でも虐げられた人でも、それは同じです。実際、私が言う「力を奪われた感覚」は、社会の勝者ならもっと極端かもしれず、それには二つの理由があります。ひとつは、お金がもたらす貧困の力学が、勝者の人生ではより高度化している場合が多いということで、もうひとつは、社会のもたらす報酬が何も無いことは、お金や成功を手に入れたことでより明らかになるからです。そのようなものを追い求めることでは、もう失われた繋がりや存在の豊かさへの渇望を覆い隠すことができません。
言い換えれば、もっと美しい世界が可能だというあなたの感覚に、私は話しかけているのです。失われた美しいものを嘆く必要はなく、そのようなものを私たちから奪った力に憤る必要もありません。しかし重要なのは、失われたものを認め悲しむことで、そうすれば私たちは過去の行いを終わらせ、完全な形で未来を創造することができるのです。「悲しい(sad)」とは、サンスクリット語の語源である「sat」を引くと、「満ち足りた」という意味になります。悲しみ、気が済み、満ち足りる。完全に終わらせる。現実を完全に体験することで、新たな命を生き、創造する準備が整うのです。
本章は、現在の世界について私たちを悩ませていることの多くを、広大な文脈の中に位置づけていきます。10年以上にわたって本書につながる探求の着想を与えてくれた疑問のいくつかを、ここに紹介しましょう。本章を読みながら、それらを心に留めておいていただきたいと思います。
なぜ私の大人の友情はこんなにも表面的なのか?
なぜ人々はそんなに忙しいのか?
なぜ子供たちはスケジュールでいっぱいなのか?
私が子供の頃と比べて、屋外で遊ぶ子供たちの数が減っているのはなぜか?
なぜアメリカ人はめったに人前で歌わないのか?
偉大な語り部たちはみんなどうしてしまったのか?
大家族はどうなってしまったのか?
家や庭はなぜこんなに巨大になったのか?
古い電化製品を修理するより新しいのを買った方が安いほど価格が歪んでいるのはなぜか?
善良な人々で構成される企業がひどいことをするのはなぜか?
人々が隣人のことをよく知らなくなったのはなぜか?
なぜ至る所に「立ち入り禁止」の標識があるのか?
なぜ最近になって訴訟や賠償責任に関する心配が蔓延しているのか?
なぜ社会はここまで理想主義的になってしまったのか?
なぜ私たちは生態系の破壊を遅らせることができないのだろうか?
なぜ仕事は不快なのか?
幼い子供の世話をする親は不機嫌で孤独だと決まっているのだろうか?
なぜ人々はコミュニティを作りたいと口にしながら、行動では無関心だと示すのだろうか?
なぜテレビやビデオゲームには中毒性があるのか?
著作権、商標権、知的財産権について、何がそんなに私を悩ませるのか?
なぜ人は自分のために何かをすることができなくなったのか?
[訳註] 形而上史学(metahistory)とは、イギリスの歴史家、クリストファー・ドーソン(Christopher Henry Dawson、1889〜1970)が提唱したもので、歴史哲学とは異なった歴史のなかの大きな潮流を取り扱い、ヨーロッパを形成したのはカトリック教会であるとの確信から、中世から近代へかけての文化の根底がキリスト教的価値観に由来することを証明しようとした。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4/