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科学的方法

訳者コメント:
「科学」は自説の正当性を主張するための殺し文句として使われることがしばしばあって、科学の衣をまとっていると、似非科学であろうがついつい信じてしまいたくなります。科学が真実を解き明かしていくときの〈科学的方法〉は、対象物とは切り離された他人行儀な観測者の存在が前提なので、(そのような客観的観測者が有り得ない量子力学の議論を別にしても)それが有効となる領域には限界があるということです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


第3章:この世界のあり方

3.1 科学的方法

16世紀の頃から、私たちは切り離された人間の領域への「上昇」を劇的に加速させました。言語とテクノロジー、数、イメージ、時間のそれぞれは、バベルの塔のような大胆な野心の対象となりました。自分たちの領分を拡大し、現実のすべてを包含するのです。この計画の兆しは古代から、ギリシャ神話や聖書の中に、世界を支配しようとする衝動として存在していましたが、実際にそれを達成するためのもっともらしい手段を思い描くようになったのは、〈科学革命〉が起きてからのことです。

それから4世紀後、私たちは変貌した世界を目の当たりにしています。神々の領域だった奇跡と魔法は、今や日常的に行われています。大陸をまたいだ瞬時のコミュニケーション、空中の移動、ボタンひとつで本が丸ごと読める、完璧な動くイメージなど、多くのことが今や当たり前になったのは、科学のおかげです。文明が発達したのは科学のおかげです。私たちを原始的な迷信から引き上げ、検証可能で客観的な知識を授けてくれたのは科学だと、私たちは信じています。科学こそ、現代人の最高到達点なのだ。科学こそ、宇宙の最も深い秘密を解き明かすのだ。科学こそ、全宇宙を人間の理解と支配の領域へと導く運命にあるのだ。

「科学的」という形容詞そのものが、現実の性質や現実と私たちの関係についての深い仮定を含んでいます。科学は、人生をどう生き、社会をどう組織するか、世界をどう理解し、知識をどう追求するかについての処方箋を示し、私たちが何者なのか、どのようにして今の私たちになったのか、どこへ行こうとしているのかを教えてくれます。別の文化について話すとき、このような処方箋や世界のあり方についての物語は宗教なのだと、私たちは説明するかもしれません。ところが私たち自身に対しては、それらを真実、事実、科学と呼び、他の文化の神話とは根本的に異なるものだとします。でもなぜでしょう?

自分たちの神話や物語を特別だと信じているのは、私たちの文化だけではありません。私たちは自分の文化が本当に真実だと考えていますが、他の文化は彼らの文化が真実だと信じているだけです。私たちは何を根拠に正当化するのでしょうか? 理論と実践の両面にある二つの根拠が際立ちます。客観性という原理と、テクノロジーという力です。

実践的なレベルでは、科学が与えた偉大で実証可能な力によって、物質的な環境をあやつれるようになったので、私たちはそれが正当だと信じています。私たちが経験する世界、つまり人工的な世界、人間の世界は、科学が実体となったものです。私たちが生きている世界が存在することそのものが、科学の正当性を証明しています。科学という神が私たちに与えた能力は、風景そのものを作り変え、生命の掟を書き直し、先に挙げたような「魔法と奇跡」を実現するものでした。このような目に見える力を我々に与えたのだから、それが偽りの神であるはずはありません。

しかし想像に難くないのは、物理環境に及ぼす私たちの力を他の文化が見て、それを取るに足らないもの、人生にとって重要でない側面と見なしたり、あるいは私たちの力が本当に偉大であることを否定したりするかもしれないということです。私たちは他のすべての人間と同じように、食べ、眠り、排泄し、愛し、老い、病み、死ぬのではないですか? 私たちは、いつでもどこでも同じように人間として様々な感情を経験するのではないでしょうか? ヘンリー・ミラーはこう言いました。

私たちは驚異的なコミュニケーション手段を考案するが、私たちは互いにコミュニケーションを取っているだろうか? 私たちは信じられないようなスピードで身体をあちこちに移動するが、本当に元いた場所から離れるだろうか? 精神的にも、道徳的にも、霊的にも、私たちは束縛されている。山脈をえぐり取り、大河のエネルギーを利用し、全国民をチェスの駒のように動かしても、もし私たち自身が、以前と同じように落ち着きがなく、惨めで、苛立たしい生き物のままだとしたら、私たちは何を成し遂げたのだろう? このような活動を進歩と呼ぶのは全くの妄想だ。私たちは原形を留めぬまで地球の表面を作り変え、創造主でさえ認識できなくなる程にしてしまうかもしれないが、もし私たちが何も変わらなければ、どこに意味があるのだろうか?[1]

そう、私たちは山を動かし、高層ビルを建て、地球の裏側の人々と話すことができますが、このようなことを私たちの科学や物語が真実であることのあかしとして重要視するというのは、その究極的な正当性のことよりもまして、私たちの価値観や重視する点について多くを語っているのかもしれません。

言い換えれば、私たちは物質世界の(ある側面について)高度に発達した科学を持っていますが、物質世界のまさにそのような側面に対する私たちの力を引き合いに出して、私たちの科学が正当であることの証明にするのです。この論理は堂々巡りです。別の文化になら、私たちが認識していない、あるいは重要だと考えていない世界の側面について、高度に発達した科学があるかもしれません。オーストラリアの原住民は、夢の理解と利用について、私たちが絶望的に未発達だと考えるかもしれませんし、伝統的な漢方医は、私たちが植物と人体のエネルギー論について笑ってしまうほど無知だと思うかもしれません。

これが、私たちが科学と呼ぶ信念体系の二つ目の正当化の根拠につながります。私たちが自分の物語に特権的な地位を与えるのは、〈科学的方法〉によって客観性が保証されると考えるからです。科学は単なる宗教以上のものだと考えるのは、これまでの宗教とは違って検証可能で客観的な真実の上に成り立っているからです。科学は単に一つの考え方ではなく、知識に対する他の全ての見方や方法を含み、それに取って代わるものなのです。私たちは夢や漢方医学を科学的に調べることができます。他の知識体系の主張に対して、私たちは測定を行い、二重盲検試験を実施し、管理された条件下で検証することができます。〈科学的方法〉は、観察から真実を導き出すための公平で信頼できる方法を規定することによって文化的偏見を排除したと、私たちは信じています。物理学者のホセ・ウードカはこのように言います。「科学的方法は、嘘や妄想から真実を峻別しゅんべつするための、これまで発見された最良の方法である。[2]」この信念は科学のイデオロギーに不可欠のものです。つまり、科学は文化の枠を抜け出し、再現可能性と論理を求めることで、知識を主観のくびきから解放したということです。

〈科学的方法〉が仮説の検証を通じてもたらすものは、他の知識へのアプローチにはないある種の確実性であり、文化に縛られない普遍的な正当性です。誰でもどんな文化圏の人でも、同じ実験をして同じ結果を得ることができます。私たちが〈科学的方法〉を厳格に守る限り、事実と迷信を区別する確実な方法があって、それは幾重いくえもの文化的な信念を切り裂いて、その下にある客観的な真実に到達する、知的な剃刀かみそりなのです。ついに私たちは主観性の束縛から解き放たれ、理解に対する個人的・文化的限界から解放されるのです。

でも解放されたでしょうか? それとも、もしかして科学的方法は真理に至る超文化的な王道ではなく、それ自体が宇宙についての私たち自身の文化的な前提を具体化したものなのでしょうか? もしかして科学そのものが、現実の本質についての私たちの社会の一般的な信念を壮大に精緻化したものなのでしょうか? もしかして科学という建造物の全体は、私たちの文化を宇宙に投影しているに過ぎず、その投影を私たちは差別的な観察と安易な解釈によって検証し、補強しているに過ぎないのではないでしょうか? 言い換えれば、もしかして私たちも神話を作り上げてきたということなのでしょうか?

おそらく私たちは、他の全ての文化がしてきたのと同じことを単にしてきただけなのです。私たちの基本的な神話に合致する観測結果を、私たちは事実として受け入れます。私たちの自己と世界の概念に合致する解釈を、私たちは科学的正当性をもつ候補として受け入れます。合致しないものは、検討も検証も、証明も反証もほとんどしようとせず、検討する価値もない馬鹿げたこととして片付けてしまいます。「真実であるはずがないのだから、真実ではないのだ。」その精神は、ガリレオと同時代の学者たちが、木星に月があるはずはないとして彼の望遠鏡を覗くことを拒んだことにも現れていました。

歴史が証明しているのは、同調圧力、自己欺瞞、組織的盲目、視野狭窄の影響を、科学者は誰よりも受けやすいことです。自分に真理があると信じているのは、私たちの文化だけではありませんし、その信念の強さも私たちが唯一無二ではありません。しかし、この問題は〈科学的方法〉の乱用や改竄かいざんよりもはるかに深いところにあります。もっと重要なのは〈方法〉に内在する限界で、この限界を生む隠された前提は、私たちの世界観にあまりにも継ぎ目なく織り込まれているので、私たちがそれを疑うことはほとんどなく、私たちが実際それに気づくこともほとんどありません。どのように人生を生き、どのように社会を構成し、どのように世界を理解し、どのように知識を追求するかについて、その前提は私たちの常識に染み込んでいます。そう、科学的方法は文化的・組織的な偏見のために捻じ曲げられることがあって、もっと見えにくいのは、〈科学的方法〉そのものの表しているのが、現実の本質についての非常に深くかすかな推測であることです。科学的方法は私たちを文化的偏見から解放するどころか、さらなる深みへ引き込みます。

私が何を言っているのか分かりますか? 科学に造詣の深い読者は、私が無駄話をしていると思われるかもしれません。「私たちは何も鵜呑みにしない。あらゆる仮説を検証し、それが本当に真実かどうかを確かめる。」科学的方法が事実上そう言っているのに、どんな推測があり得るでしょうか?

〈科学的方法〉の中心的な前提は、議論の余地がないほど明白に思えるかもしれませんが、このようなものです。二人の人間が同じ実験をすれば、同じ結果が得られる。このために必要なのは、(1) 決定論:初期条件が同じなら最終条件も同じになるということと、(2) 客観性:実験者を実験から切り離すことができるということ。この二つの前提は絡み合っています。もし実験者を「初期条件」の一部として含めるなら、両者は決して同一ではありません。たとえ実験者が同一人物であっても、時間や空間の異なる点で実験を行うなら、同一のものとはなりません。

基本的に〈科学的方法〉は、客観的な宇宙が「そこ」に[(out there)つまり自分たちの枠外に]存在し、それを実験的に調査することで、私たちの理論の真偽を確かめることができるという前提を置いているのです。この前提がなければ、「事実」という概念全体が捉えどころのないものになり、おそらく支離滅裂になってしまいます。(重要なのは、事実(fact)という言葉の語源がラテン語のfactio(作る、行う)にあることで[3]、それはおそらく、存在と知覚、存在と行為、「あるもの」と「作られるもの」の区別が、かつては曖昧だったことを暗示しているのです。おそらく事実は、人工物アーチファクト製造物マニュファクチャのように、私たちが作るものなのです。)

「そこ」にある宇宙は、原理的に誰彼の観測者とは無関係であり、それゆえ科学実験の再現性があるのです。あなたと私が同じ実験で宇宙に質問するなら、同じ結果になるのです。私たちは存在論によってはなはだしく盲目になっているので、これを仮定としてではなく、論理的必然として見ています。客観性を具体化せずに理路整然とした思考体系を、私たちはほとんど想像できません。また、因果関係という現代的な概念を内包した決定論を排除する思考体系を想像することもできません。このようなものは条件付きの文化的前提のはずなのに、私たちは論理の基本原理だと見ています。

20世紀の物理学全体が、まさにこうした客観性と決定論の原則を否定しているという残念な事実は、まだ私たちの直感にまでは沁み込んでいません。ニュートンの古典的な世界観が時代遅れとなってから百年が経ちますが、それに取って代わった量子力学の革命的な意味を私たちはまだ吸収できていません。驚くべきことに、数学的に定式化されて80年が経った今も、量子力学は解釈を拒んでいます。現在、量子論には主な解釈が5つか6つあって、さらに無数のバリエーションに分かれ、アマチュア哲学者やニューエイジ探求者だけでなく、主流の物理学者の間でも信奉者数を競っていますが、物理学者の多くは解釈を完全に避け、存在論的な意義を無視するかのように量子論の数学的側面だけを使っています。解釈について同意できないか、あるいは解釈しようとする努力さえ諦めてしまったかのどちらかなのですが、それはどの解釈も、現実の本質についての私たちの基本的・文化的な前提とは相容れないからです。

本章で述べる古典科学の世界観は、時代遅れかもしれませんが、今も私たちの文化の支配的な信念や直観に影響を与えています。科学とは、私たちの文明を特徴づける神話を壮大かつ精巧に表現したものです。私たちは別個ばらばらの自己であり、他者である客体的な宇宙の中で生きているのです。科学はその神話を前提とし、体現し、補強し、他の考え方や、生き方、あり方を見えなくします。

科学という宗教を正当化するどちらの理由も、同じような制限を生みます。テクノロジーの力は、まさにそれが適用される領域において、私たちの科学の実際的な真理を堂々巡りの論理で裏付けますが、私たちをそのような領域に縛りつけます。その一方で、〈科学的方法〉はまさにその性質から、有りうる現象の分野全体を立証のための探究から排除してしまいます。〈科学的方法〉によって客観的でも決定論的でもない現象を理解することは、構造的に不可能なのです。〈科学的方法〉こそ「嘘や妄想から真実を峻別しゅんべつするための、これまで発見された最良の方法」だと私たちは信じ、そのような現象は実際には存在しないと結論づけます。そんなものは嘘であり、妄想であり、デマであり、迷信なのだ。私たちの存在論と方法論では、「私にはユニコーンがいたが、あなたにはいなかった」というような可能性を根本的には受け入れ難いのであり、それを「ユニコーンはいたのだが、あなたが見なかっただけだ」という筋書きで説明するしかありません。存在、つまり「そこにある」ことは、誰かがそれを観察しているかどうかとは無関係に、絶対的で客観的な現実があると仮定されます。もっと正確にいえば、私たちは存在を絶対デカルト座標系における出来事と素朴に関連づけているのです。もしユニコーンが時刻 t に点 (x,y,z) にいたなら、それは存在するのです。

さあ、試してみましょう! 目を閉じて、何か、例えばフォークがただ存在していることをイメージしてください。実体から切り離されたフォークが空間にぽつんと浮かんでいるのが見えるでしょうか? 分断は私たちの存在の観念に織り込まれています。存在は孤立して生じるのであり、関係性の中で起こるのではないのだ。存在するということは、空間と時間の中で個別の一点を占めることなのだ。

宇宙が「本当に」そうであるなら、そのとおりでしょう。しかし、古代思想と20世紀物理学の両方が、そうではないという点で一致しています。絶対デカルト座標の宇宙はせいぜい近似的なものであり、非常に狭い範囲の問題を解くのに役立つ数学的な道具に過ぎません。しかし、私たちは現実全体を無理やりその型に押し込めようとしてきました。〈科学的方法〉を真理の判別者に昇格させることで、その基礎となる前提そのものを、私たちは恣意的判断によって暗黙のうちに決定しているのです。

〈科学的方法〉の文化を超えた正当性は、それ自体が前提となった原則に依存しています。その正当性は堂々巡りの循環論法です。例えるなら、アボリジニがこう主張するようなものです。「さて、科学的実験と夢想のどちらが真の知識への道なのか、この問題にきっぱりと決着をつけよう…。そのためには、まず夢の中に入って先祖に尋ねることで決着をつけよう。」想像するのは難しいですが、〈科学的方法の〉根底にある客観性と決定論という大前提は、決して世界のすべての伝統的な思想に共通するものではありません。非客観的、非決定論的でありながら首尾一貫した思考体系は可能なのです。それは可能という以上に、私たちが作り上げた個別的ばらばらの自己という世界の崩壊が差し迫っていることを考えれば、必然なのです。それはまた、ここ百年の新たな科学革命という観点からも必然です。私たちの考え方や在り方はもう通用しなくなっています。

科学とは、何千年も前から続いてきた自己認識の傾向を強化したものです。客観性と決定論は、世界との関係で私たち自身を理解する方法を深く反映していて、思考、言語、理性の最も深いレベルにまで浸透しています。上の一節をご覧ください。「宇宙が『本当に』そうであるなら…。」 この「本当に」とは何なのでしょう? それが意味するのはこんなことです。「一部の意見ではなく、事実としてそうなのだ。」ではこの「事実」とは何なのでしょう? 客観的でない思考は、客観性という前提がコミュニケーションの言語に組み込まれている場合、伝えるのが極めて難しいのです。繰り返しますが、親方の道具で親方の家を壊すことはできないのです。客観性と決定論は、私たちの自己定義そのものに織り込まれています。だからこそ、20世紀の新しい科学を私たちの宇宙に対する一般的な理解に統合することが難しかったのです。だからこそ、量子力学の発見は直感に反し、奇妙に思えるのです。

私たちは自分のことを周囲の宇宙から切り離された存在として感じています。したがって、〈科学的方法〉は実験者が切り離せない側面となるような現象を扱うことができません。たとえば、テレパシーのようなものが機能するのは実験者が本当にそう信じている場合だけだとしましょう。もしそうだとすれば、テレパシーはもともと〈科学的手法〉の及ばないもので、なぜならこの実験は自由に再現できないからです。疑い深い実験者が「初期条件」を正確に再現することでそれを確認できないのは、初期条件が同じでも実験者によって異なる結果をもたらすからです。この決定論の破綻、つまり同じ初期条件が異なる結果をもたらすのは、実験者を初期条件の一部と認めることでしか解決できず、客観性の原則が成り立たないことを示します。

私は〈科学的方法〉の撤廃を主張しているのではありません。私がただ明らかにしようとしているのは、そこに内在する限界と、それが構造的に生み出すことのできる知識の種類です。〈科学的方法〉は、私たちの社会の進化に伴って出現する新しい科学の中で、非常に重要な役割を持ちます。本質的に、〈科学的方法〉は謙虚さと知的無執着の理想という美しい衝動の上に成り立っていて、それはどのような信念体系にも役立つものです。私が第6章で述べる実験科学への別の取り組み方は、自然との遊びであってベーコン的な尋問ではなく、客観性による疎外を生むことなく謙虚さという理想を維持します。

一般的に言って、〈科学的方法〉は、「そこにある」と想定される現実について、理論を立て検証するという行為そのものが、その現実を創造したり変化させたりする時はいつも、確実性を作り出せなくなります。科学における客観性がどのようにして失われるかを理解するためのモデルはジャーナリズムで、それは観察者と現実の必然的な共依存を明らかに示しています。ジャーナリストがいることを知ると人々の行動は変わり、さらに、ある出来事を報道することで、その出来事の意味が変わってしまい、ジャーナリストがいるという理由だけで報道価値を持つようになります。さらに、報道機関の価値観や優先順位が報道価値の基準に投影されることは避けられないので、それが客観性を損ないます。にもかかわらずジャーナリストはいまだに客観性を装っていて、それは不可能な理想どころでなく、支離滅裂な概念であり、危険な罠です。

しかし、客観性は私たちの文化でほぼ普遍的な知的誠実さの基準であり続けています。個人的な偏見を排除し、純粋に客観的な真理を追求する孤高の科学者という理想は、ジャーナリズムや法律、さらには個人生活といった他の分野にも投影され、「合理的」な決断とは感情にとらわれないものだとされます。少し考えればそのような客観性は不可能だとわかりますし、さらにそれを盲目的に追求すれば、私たちが宇宙を理解する可能性を制約し、私たち自身と宇宙との間に気の滅入るような分断の壁を築きます。

科学的な客観性だけでなく理性そのものが、私たちの自然からの段階的な抽象化を表し、強化しています。デヴィッド・ボームが説明するように、理性とは基本的に、抽象化された関係を新しいものに適用することです。私たちはAとBの関係を観察し、CとDの関係もそのようになるだろうと言います。たとえば、「すべての人間は死ぬ。私は人間であり、だから私は死ぬ。」AのBに対する関係は、CのDに対する関係に等しい。つまり、A:B::C:Dです。それは比率(ratio)であり、合理的(rational)なのです。理性とは抽象化された規則性を認識し適用することです。リーズン・ドットコムのようなフォーラムで、ニューエイジのスピリチュアリティなどによって客観性に基づく科学を否定するのは不合理であるというプロの懐疑論者の批判は、一理あります。彼らが理性と思っているものは、抽象化の基礎となる客観的な現実があるという前提に付随するものであって、それより前から存在していたわけではありません。この前提が正しくないなら、他の形の認知は正当であり、理性は危険をはらんでいることになります。

「合理的(rational)」という言葉の数学的な意味合いは、「比率(ratio)」という言葉を内に含んでいることから分かるように、合理的な思考が数学の厳密性と確実性を体現していることも示しています。そして、数は(少なくとも本来は)具体的な物体に関連付けられ、したがって科学におけるように単位に紐付けられるものですが、このような単なる数とは異なり、比率は単位を相殺し、具体的な経験とは切り離された純粋な抽象へと到達します。これは、理性を具体的な現実から抽象化した、つまり自然から抽象化した超自然的な領域へと昇華させた一因となっています。理性という能力は人間にしかないので、理性は人間が自然を凌駕したことの証明だと私たちは考えます。そして理性に頼れば頼るほど、私たちは自然をはるかに超えて上昇し、それゆえ完璧に合理的な社会が人類発展の頂点だという夢が生まれたのです。

科学と理性そのものが、自然界における規則性の発見に基づいています。このような規則性を私たちが観察しているのではなく、私たちの信念によって作り出しているという可能性は、私たちが知っている科学の正当性そのものに対する重大な挑戦であり、私たちは自分自身の鏡像を観察しているに過ぎないことを示唆しています。この相反する二つの可能性を超える第三の可能性は、信念と現実が弁証法的に互いを共に創り出していくというもので、それが、主体と客体が根本的には別々ではないことを確認するのです。〈科学的方法〉と科学的理性という大伽藍がらんの基礎にある深い前提は、現実は私とは無関係に「そこに」あり、発見されるのを待っているということです。それは、個別ばらばらの他者からなる世界の中の孤立した自己という、われわれの基礎的な文化的前提と正確に対応するものです。それは、主観と客観という基本的な二元論の、もう一つの姿です。

これは、前章でその起源を探った人類の上昇によって成長した文化的前提であり、それがテクノロジーに動機を与え、逆にテクノロジーによって動機づけられるという自己強化の循環が生まれたのです。科学はそれを論理的に極限まで高め、完成させたにすぎません。したがって、科学は自己と宇宙についての理解より前からあったものではなく、その理解から生まれ出たものです。科学はイデオロギーなのです。

私たち以前の他の文化と同じように、私たちも神話を作り出し、〈この世界のあり方〉を説明する一連の物語を作り出しました。その中には、自然の力、人間の本性の力、私たちの起源の物語、そして宇宙における私たちの役割と機能の説明が含まれています。あらゆる文化の神話がそうであるように、私たちの神話も完全にでっち上げられたものではなく、真実の窓なのですが、そこには私たちの文化が持つ偏見という歪んだレンズがまっています。科学はこの神話の完成形です。したがって、科学という学問は世界についてだけでなく私たち自身についても多くを明らかにしてくれます。本章では、私たちが自分のために作り上げた、個人的・集団的な科学的生活について探求していきます。


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注:
[1] ヘンリー・ミラー [Miller, Henry,] “The World of Sex”, 1940.
[2] この言葉はインターネットに拡散しているので、本当にホセ・ウードカが発したかどうかは定かでない。それは重要ではなく、この言葉が表現している信念は何世紀も前のものだ。
[3] 動詞は「facere」(作る、行う、実行する)。「fact」の語根は分詞「factus」(作られる、行われる)であるかもしれない。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-3/

2008 Charles Eisenstein


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