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設計のない秩序

訳者コメント:
 勤め人時代の私の仕事は「設計者」でした。与えられたお題に従って、様々な機械や電気システムの仕組みや構造を考え、意図した通りに動作するように計画します。この「意図」のことをデザイン(設計)というのです。日本語のカタカナ言葉でデザインというと、多くの場合は見た目の設計、つまりスタイリングのことを指しますが、それは英語の意味とはズレています。設計とは、物質世界に意図を押し付けることです。
 自然界にも、数学の世界にも、人間が設計したわけではないのに秩序が生まれることがあります。これは自己組織化と呼ばれる創発的な現象ですが、人間だけが秩序を設計できる知性を持っているという思い込みの傲慢さを知らせてくれるようです。世界には秩序を生み出す働きが内包されていて、人間もその一部として世界の創造に関わっているのだという謙虚さが必要なのです。設計するのは「頭」の働きであって、「心」の導きが無ければ悪の道に転落してしまうのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


6.3 設計のない秩序

神学者や科学者の中には、宇宙の物理定数が生命の存在を可能にするよう正確に調整されているらしいという、驚くべき事実を重要視する人もいます。強い核力微細構造定数重力定数電子の質量などの値がわずか数パーセントでも違っていたら、生命はおろか、場合によっては恒星や固体物質が出現する可能性さえ無くなってしまうでしょう[8]。これを、創造主が生命のための舞台を整えた証拠とする人もいれば、各々異なる定数を持つ複数の宇宙の存在を引き合いに出す人もいます。私にとって最も興味をそそられるのは、定数が実際には互いに共変し、最終的に現在のような安定したアトラクター配置になるようなフィードバック機構が働いているという可能性です。いずれにせよ、宇宙に満ちる秩序や美や生命は、この(おそらく恣意的な)一連の物理定数だけから生じるものではありません。秩序と美は、それ以上に深く現実の織物に織り込まれているのです。十分に複雑なあらゆる非線形システムのあらゆるレベルで、それは現れます。このようなシステムのいくつかを様々なレベルで見ながら、そこにあまねく行き渡っている秩序、設計デザインのない秩序が、私たちの生きている奇跡の中に幾度も現れるのを感じてみましょう。

自己組織化の比喩的かつ実際的な意味合いは、おそらく量子力学以上に驚異的なものです。私が初めて自己組織化を意識したのは16年前、大学を出たばかりの私が、イリヤ・プリゴジンとイザベル・スタンジェールの共著『混沌からの秩序』を友人から手渡されたときでした。この本には度肝を抜かれました。化学システムにおける自己組織化の数多くの例の中で、私がこの本で初めて目にしたのはマンデルブロ集合で、それは極めて単純な再帰式によって生成される非常に複雑なフラクタルです。これを生成するには、複素平面上に点「C」をとり、次の式を適用します。

Z0=0
Zn+1=Zn2+C

数列Z0,Z1,...,Znは、与えられた回数の繰り返しの後、絶対値2を超えてすぐに無限大へと発散するか、原点近傍に留まるかのどちらかです。もしCが無限大に発散することなく無味乾燥な数列を生成するなら、それはマンデルブロ集合の中にあります。残念ながら、そうなるかどうかを判断する一般的で有限な方法がないのは、たとえ10億回反復した後でも、10億と10回目で発散し始める可能性があるからです。数学的な言い方をすれば、この集合は帰納的可算ではなく、したがって決定可能でもないのです[9]。そしてこれが意味するのは、「そうなっているから」という以外に、マンデルブロ集合がそのような構造を持つことの手短な説明も理由も無いということです。ある点がマンデルブロ集合に入っている理由は、(一般的には)「N回繰り返しても発散しない」という定義を引用することしかできません。マンデルブロ集合の完全な還元論的説明は、それについて何も語ってくれません。要するにこれは、何かに落とし込むことのできない現実なのです。

同じことが、あらゆるランダムな点の集合についても言えますが[10]、マンデルブロ集合が特別で、比喩の豊かな源となっているのは、平面上に無秩序に散乱する点の群れなどではないのが明らかで、秩序、構造、そして美さえも宿しているように見えるからです。しかし完全な有限の記述は不可能で、そのような記述では無限の構造が抜け落ちてしまいます。(第2章で説明した表象言語や測定に伴う現実の必然的な落とし込みとの類似性に注目してください。)


図1:マンデルブロ集合。黒い領域は集合の一部で、色の濃さは点の発散の速さに従い青に向かって暗くなる。


図2:拡大されたマンデルブロ集合の様々な部分。数百万倍の倍率で拡大すると、集合全体の歪んだ複製が見つかることもある。


マンデルブロ集合は構造の自然発生という点で唯一のものではなく、同じことが、セル・オートマトンニューラルネットワーク、集団行動のシミュレーション、ブーリアンネットワークなど、他の数学的システムでも発見されています。スチュアート・カウフマンがこれを 「無償の秩序」と呼ぶのは、定義方程式から明らかではないからです。カウフマンはブーリアンネットワークを研究し、秩序が生まれることを事実上確実にする一般的なパラメータ値まで特定しました。(ただ、秩序がどのようなものかを知る唯一の方法は、それを計算することなのですが。[11])

もう一つ例を挙げましょう。「ラングトンのアリ」と呼ばれるセルオートマトンは、これ以上ないほど単純です。黒か白のどちらかでなければならないマスの上を、アリがっていると想像してください。アリが黒いマスに来た場合、そのマスを白にして右を向きます。白いマスに来た場合、マスを黒にして左を向きます。アリは、平面を何度も何度もパターン化しながら当てもなく彷徨さまよい、ついにある時点で(初期条件にもよりますが)非常に奇妙なことが起こります。アリは無限に続く「ハイウェイ」を作り始めるのです[12]。初期条件がどうであってもこうなることは数多くのコンピューター実験によって確認されていますが、これは経験的な事実でしかありません。解析的に証明することはおそらく不可能です[13]。言い換えれば、「なぜアリは毎回ハイウェイを作るのか」に対する唯一の理由や説明は、「初期条件A、初期条件B、初期条件C、…ではそうなるから」というもので、実際には何の説明にもなっていません。このような説明は、「そうなっているから」と言うのと同じです。マンデルブロ集合と同じように、私たちはアリの行動の一つ一つを完全に還元論的に説明できますが、その大きな構造については何も語っていないのです。

言い換えれば、ラングトンのアリの単純な定義式の中にハイウェイ建設の行動を示すものは何もありません。有限な説明は不可能なのに、同じことが起こるのです。これ以上単純な「理由」はありません。ただそうなっているのです。したがって、ハイウェイ建設が常に行われると断言することもできません。10億回の初期条件で実証できても、10億と1回目では失敗するかもしれません。セル・オートマトンやその関連分野では同じような状況がどこにでもあり、スティーブン・ウルフラムのような第一線の研究者は解析的証明ではなく経験的発見に基づいた「新しい種類の科学」を提唱しています。科学とは世界を理解することなのですから、彼らが提唱しているのは理解の新しい概念であって、それはもはや確実性に支配されたものではありません。複雑なシステムには創発的な特性があり、決して還元論的な「理由」を見つけられないということを、受け入れる必要が生じるのです。

確実性だけでなく、予測可能性やコントロールも道半ばで挫折します。私たちが受け入れねばならないのは、初期条件をいかに正確にコントロールしても、その結果が驚くようなものになる可能性があることです。ラングトンのアリでは、ハイウェイ建設が行われることは分かっていますが、いつどこで行われるかは分かりません。初期条件のマスを1つ変えるだけで、「いつ、どこで」が全く変わってしまうのです。カオス理論では、これは「初期条件への鋭敏な依存」として知られ、数学的システムだけでなく、物理学的、化学的、生物学的システムなど、非線形性とフィードバックを持つあらゆるものを悩ませています。アリのハイウェイ建設に似たような一般的な情報は、経験的に推測できるかもしれませんが、詳細を知ることはできません。例えば、地球の気象データを見て、ハリケーンがカリブ海を通過することを予測し、その理由を説明することはできますが、その時期や正確な進路を予測することはできません。データ密度が大幅に向上したにもかかわらず、数日以上先の天気予報は不正確です。データ密度の指数関数的な増加があっても、予測期間においてはせいぜい直線的な改善しかもたらさないのです。

これらの例は、決定性と実際的な予測可能性がじつは別のものであることを示しています。理想化されたニュートン二体力学は、過去、現在、未来が一つの方程式に含まれ、どの時点のシステムの進化も簡単に計算できるという二つの性質を兼ね備えています。しかし、いくつかの例外を除き、これが成り立つのは線形システムだけです。自由振り子は無限に予測可能ですが、(モーターで支点を揺り動かす)強制振り子の振る舞いはカオスです。線形システムなら、測定の不確かさは予測結果に線形的な乖離をもたらすだけで、「ノイズ」は「信号」に比べれば小さく抑えられます。しかし非線形システムでは、ノイズがすぐに信号を圧倒してしまいます。わずかな初期条件の違いで全く異なる挙動を示すのです。

設計デザイン」という言葉が意味するのは、最終結果についての意図的な認識が初期条件に組み込まれていることです。技術者はある特定の結果を望み、それを設計に組み込みます。設計とは、ある種の予測可能性、つまり部分の特性から予測できる全体の特性を意味します。「インテリジェント・デザイン」が宇宙論として語られるとき、彼らが念頭に置いているのはまさにこのことです。宇宙の初期条件と法則を知的生命体が誕生するように正確に調整した、外部の創造主たる神のことです。私が提案しているのは神についての別の理解で、神は創造主ではなく創造性そのものであり、宇宙の外側にいるのではなく宇宙から分かつことのできない性質なのです。なぜマンデルブロ集合がこれほど装飾的に美しくあらねばならないのでしょうか? 私たちは「なぜ」に飢えていますが、そこに理由はありません。「そういうものだ」という以外の理由は無いのです。現実とはただそういうものです。マンデルブロ集合の中に私が見るのは神の存在で、その奇跡的な神秘を私が完全に把握することはできないけれど、それは私の知性に限界があるからではなく、本質的に把握不可能で、単純なものに還元することができないからです。そこには「理解」したり把握したりできるようなことは何もありません。ただそういうものなのです。そうなっているから、そうなっているのです。それは永遠の「我あり」です。2+2が4であるように、マンデルブロ集合はそれ以外にあり得ません。無償の秩序です。無償の美です。そのように設計されたのではなく、現実の還元不可能な性質なのです。それが「組み込まれている」と言いたいところですが、その言葉でも自己完結する奇跡の二元論的な落とし込みを忍ばせてしまいます。

実に皮肉なのは、数学が「数字」によって自然を操作し、手なずけ、再構成しようとしたにもかかわらず、最も根本的なレベルで現実は永遠に私たちの手の届かない所にあるという明白な認識に、私たちを立ち戻らせたことです。そして、これは抽象的な計算数学の奇妙な現象などではなく、あらゆる非線形システムに広く当てはまるため、完全なコントロールという〈テクノロジーの計画〉は決して実現できません。たび重なる経験から分かっているのは、測定や制御がいかに精密であっても、非線形システムでは最終的な結果が予測不可能なことです。テクノロジーの上昇が成功したとされるのは、機械テクノロジーが線形のものだったからです。線形システムでなら、初期条件をより正確に制御すればするほど最終結果はより正確に予測できます。私たちの文明は線形テクノロジーを最大限まで発展させてきました。機械が複雑になればなるほど、それを「管理下」アンダー・コントロールに置くために考慮しなければならない部品間の関係は(指数関数的に)増加していきます。こうしてコントロールに払う代償はエスカレートしていきますが、その代償とは、人間でいえば人生そのものをコントロールの要求に屈服させることに他なりません。第4章で説明した、あらゆるものが指数関数的に換金されていくことは、その一つの側面にすぎません。現在のテクノロジーのあり方が機能するのは、その対象が単純で直線的なものに留められ、変数がコントロールされるか排除されている場合だけです。私たちは現実をコントロールするために、現実を単純なものへと落とし込むしかありません。複雑な生態系を管理された森林へ、単一栽培の農場へ、郊外の芝生へと落とし込み、ハーブや食品に含まれる複雑な化学物質を単なる「有効成分」やビタミン群へと落とし込み、人間の複雑な社会関係を計画された社会秩序へと落とし込むのです。

現代のテクノロジー社会は、設計のない秩序を(そして設計のない美しさの兆しさえ)持ったシステムの一例です。残酷な事実は、社会を有機的に成長させるのとは対照的に、トップダウンで社会を設計しようとする人間の試みが、全て大失敗に終わってきたことです。(北朝鮮とキューバの対照的な現状を見てください。両国は世界から相当に孤立しています。前者は中央集権的な指令経済ですが悲惨な状況にある一方、後者は貧しいとはいえ、高度な地方自治に由来する弾力性のおかげで十分な生活の質を保っています。[14])テクノロジー社会の複雑さと規模の大きさは、人が設計デザインしようとする試みを拒みます。どんな新しいテクノロジーの発明も、どんな新しい法律や社会的革新も、その影響は予測不可能な形でシステム全体に波及します。

社会や生態系のような非線形のシステムでは、いかなる技術的対策テクノロジカル・フィックスの効果も全く予測不可能です。害虫を駆除するために新しい生物種を導入すれば、もっとたちの悪い害虫の出現という結果に終わるかもしれません。再取り込み阻害薬でセロトニン濃度を上昇させると、最終的にはセロトニンや他の神経伝達物質の受容体の数が減少し、鬱は以前よりさらに悪化するかもしれません。渋滞を緩和するために新しい道路を建設しても、新たな宅地開発が渋滞をさらに悪化させることになりかねません。成長が遅い樹木をすべて伐採し、成長の早い木材用の樹木に置き換えると、弱体化した生態系に病気が蔓延し、結果的に木材生産は増えるどころか減ってしまうかもしれません。事務作業の単調な雑務を減らすためにコンピューターを導入すると、人々はこれまで以上に多くの時間を机の前で過ごすことになります。土壌の肥沃度を高めるために窒素肥料を施用すると、結果として土壌の生態系が変化し、肥沃度は低下します。これらの予測不可能な、さらには矛盾した結果は全て、非線形性から生じています。私たちは世界が直線的であるかのように見せかけ、その見せかけをある程度まで実行に移すことはできますが、自由と人生に対する代償がどんどん大きくなっていくのは、非常に狭い領域の外では、世界が実際には直線的ではないからです。私たちの文明が築かれているのは、直線的な、あるいは概ね直線的だと見ることのできる、ごくわずかな世界の一部分なのです。今日、その見せかけは崩れ去ろうとしています。代償は耐え難いものになってしまいました。しかし、それが耐え難いものであろうとも、代わりとなるものに目を閉ざしている限り、私たちはそれに耐え続けるでしょう。私たちはコントロールの失敗をさらなるコントロールで手当てし、地球、生命、美、健康の略奪を強め、全てが消費され尽くすまで続けるでしょう。だからこそ、本章で説明する科学的発展が示唆する別の道を意識することが、非常に重要なのです。

私たちはテクノロジーの予期せぬ結果を先見性が無かったせいだと見なし、社会工学を改善すれば問題を解決してくれるかもしれないと期待しがちです。実は、問題は解決不可能です。つまり、私たちが「設計デザイン」と呼ぶ種類の解決策では解決できないのです。他の解決策を思い付くことができないので、絶望に屈するまで必死に努力します。設計されていない解決策とは、他にどんなものがあるでしょうか? 自然発生することを許されている解決策はどうでしょう? そのようなパラダイムから生み出されるテクノロジーは、現在のものとは似ても似つかぬほど異なるものになるかもしれません。

いつか近いうちに、宇宙の非直線性から生じるコントロールの無益さを私たちが完全に理解したなら、テクノロジーに対してまったく異なるアプローチを受け入れ、自然を小さなものへと落とし込もうとするのではなく、むしろその充足を求めるようになるでしょう。これは単に特定の技術の「妥当性」についての判断ではなく、私たちがその最終的な影響を見極めることはできないという認識です。テクノロジーの発展は謙虚さから生まれるのです。

完全なコントロールという〈テクノロジーの計画〉は、還元主義と予測可能性というニュートン的な意味で、完全な理解という〈科学の計画〉の延長線上にあります。コントロールによらない新たなテクノロジーは、新たな理解の様式に基づいたものとなります。何かを理解するということは、それを測定したり、内部の働きを知ったり、分析的に単純なものへと落とし込んだりすることを意味するのではありません。物理学と数学におけるこの理解様式の限界は、ここまで見てきたとおりです。次の二節では同じ限界が生物学と生態学にもあることを明らかにします。あるものを、おそらくほとんどのものを理解するとき、全体として、世界の他の部分との相互作用を通してのみ、それが可能となります。そのような理解は、人間関係や体験、さらには親密さを通してもたらされると言ってもいいでしょう。もはや科学が我々を「自然の支配者にして所有者」にしてくれるなどとは期待できず、その代わりに、科学の目的は私たちを自然とのより親密な関係に導くことだと考えるでしょう。科学の最も深い動機である発見、好奇心、驚嘆の精神は、そのまま残るでしょう。

確実性がなければ、理性は真理への王道としての優位性を失い、おのおの適切な領分を持つ、いくつかの知の様式の一つとして、正当な地位を取り戻すでしょう。第3章の錬金術のモデルに戻れば、考えるのは頭、知るのは心臓、そして変容するのははらわたの機能です。頭は冷たく、心臓は暖かく、はらわたは熱い。頭、つまり冷静な理性、冷厳な科学には、ふさわしい場所がありますが、現在の問題は、それが他の部分の機能を侵害してしまったことです。私たちが築いてきた文明では、理性と、科学と、あらゆる分野の専門家を頼みにして、社会を導き、未来を創ります。私たちが彼らに与えたのは、体質的に不可能な仕事だったのです。分析や理性では知ることができません。彼らは探求し、分解し、熟慮することはできますが、知ることと選ぶことは彼らの役割ではありません。彼らに捉えることができないのは、第3章で挙げた全ての資質、つまり魂、美、人生、意識、意味、目的、愛で、それは「分解すると、そこにはない」ものなのです。その結果、広く知れ渡っているように、これら全てが「冷厳な」科学には欠如していて、その対象となるのは、ガリレオがしたように、測定可能なもの、つまり数に落とし込むことができるものだけなのです。別の言い方をすれば、科学と理性は盲目だということです。ハートの導きがなければ、彼らのやり方は善にも悪にも等しく力を持ちます。ホロコーストが恐ろしい論理に従い最大限の合理的効率性をもって行われたことを忘れてはなりません。ある特定の第一原理を選択したことで、全てのことが完全に合理的だったのです。同じように、現在では科学と工学における莫大な努力が、軍備や、有害化学物質、ゴミ屑のような消費財など、惑星を荒廃させ、文化を貧困化するあらゆる道具の製造に費やされていて、またもや、この全てが情け容赦のない経済の論理に従っているのです。

理性は真理を評価できません。理性は美を理解できません。理性は愛について何も知りません。頭で生きるなら、個人としてであれ社会としてであれ、私たちは同じ場所にたどり着きます。私たちはさまざまな危機に直面することになります。頭は同じようなコントロールの方法で管理しようとし、けっきょく危機は激化します。やがて手に負えなくなって、コントロールの幻想が透けて見えるようになり、頭は降伏し、ハートが再び主導権を握ることができるのです。私たちは今、この時点に極めて近いところまで来ています。

理性は美や真理や愛について何も知り得ませんが、それらに奉仕することはできます。還元主義的な手法では全体性という創発現象を理解できませんが、それを探求するための道具にはなり得ます。私たちがその一部をなす広大な宇宙という〈全体性〉の中で、人類の役割と務めを発見することに特化した科学を想像できるでしょうか? その役割を果たすことに特化したテクノロジーを想像できるでしょうか? おそらくそれが、人類の宿命なのです。宇宙の支配者でもなく、無関心で無目的な宇宙での無意味な生と死でもなく、宇宙の進化プロセスに意識的に参加するのです。その壮大さを、私たちは今ようやく想像できるようになったばかりです。


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注:
[8] これらの定数に関する詳細な技術的概要は、フランク・ティプラーとジョン・D・バローによる古典的名著『The Anthropic Cosmological Principle(人間宇宙論原理)』(未訳)に記載されている。彼らの説明は、実際には反説明なのだが、これらの定数はあるべきものであり、もしそうでなかったら、私たちはここで定数について尋ねることさえできなかっただろう、というものだ。多くの人の受け止め方では、彼らの理屈は正しいのだが、深く納得できない。あなたはなぜこの本を読んでいるのだろうか? まあ、この本を読むことになったあなたの人生の全てが、そうあらねばならなかったのは明らかで、そうでなければこの本を読んでいるはずがないのだ。
[9] 私は最近この言葉が証明されていないことを知った。マンデルブロ集合の双曲性予想が本当なら、この集合はある意味で計算可能である。しかしこの予想は、証明しようとする膨大な努力にもかかわらず、いまだに証明されていない。厳密に言えば、帰納的可算性は可算集合にしか適用されないが、ここでマンデルブロ集合について私の言うことは全て代数的複素平面との交点にも適用される。
[10] ここでいうランダムとは、再帰的に列挙できないという意味だ。哲学者たちがランダム性と非再帰的な列挙可能性という方程式についてあれこれ言うかもしれないので、アルゴリズム情報理論(AIT)で使われるランダム性の定義と本質的に同じであることを念のためお伝えしておく。AITでは、その集合を生成できるコンピュータ・プログラムが、その集合自体よりも短くない場合、その集合はランダムである。
[11] スチュアート・カウフマン[Kauffman, Stuart, ]『At Home in the Universe: The Search for the Laws of Self-Organization and Complexity(自己組織化と進化の論理: 宇宙を貫く複雑系の法則)』, Oxford University Press, 1995年(邦訳:ちくま学芸文庫、2008年), and 『The Origins of Order: Self-Organization and Selection in Evolution(秩序の起源:進化における自己組織化と選択)』, Oxford University Press, 1993年.
[12] 初期条件に有限個の白マスまたは有限個の黒マスが含まれていることを条件とする。
[13] 仮にそのような証明が見つかったとしても、セル・オートマトンには他にも形式的に決定不可能な創発的性質がある。ジョン・コンウェイの「ライフゲーム」はその一例だ。コンウェイは、このセル・オートマトンが万能チューリングマシンに相当するように構成できることを証明したが、これは停止性問題によって、与えられた開始配置が無制限に成長するかどうかを決定する有限で一般的な方法が存在しないことを意味する。
[14] デール・アレン・ファイファー[Pfeiffer, Dale Allen.]『Drawing Lessons from Experience: The Agricultural Crises in North Korea and Cuba. (経験からの教訓: 北朝鮮とキューバの農業危機。)』http://www.fromthewilderness.com/free/ww3/111703_korea_cuba_1_summary.html. 人工社会を計画する試みは一様に失敗してきた。中央集権的な支配を行おうとすればするほど、社会は機能不全に陥る。スターリン時代のロシアと現在の北朝鮮がその好例だ。より小規模なものでいえば、19世紀のオーウェニズムの実験のような共同体は、基礎となる「計画」がその依って立つ社会と共進化することを許されない限り、速やかに崩壊する。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-6-03/

2008 Charles Eisenstein


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