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心を型にはめる

訳者コメント:
 今回はチャールズの学校批判が全開です。学校のあり方は、そんなもんだよなあと思うほどに、当たり前として意識に刷り込まれてしまっていますが、学校が量産するのは工場や文明という巨大機械の歯車として黙って働く「労働者階級」です。そのために、学校は人間の本性も家族もコミュニティも破壊します。かつて囲い込み(エンクロージャ)によって農民を土地から切り離して都市へあぶり出し労働者にしたように、自給的農村社会は工業社会とは対立するものだったのです。
 私の住んでいる山村地域で、学校の耐震化が必要になり、統廃合の対象になりかけたことがあり、住民が行政に働きかけて学校を残しました。学校がコミュニティーの維持に欠かせないからです。廃校になると住む人がいなくなり、過疎化が進むという事例は枚挙にいとまがありません。これは、今の日本で義務教育が課されているので、学校から遠いところに住んで子供を通学させる困難を嫌って、家族ごと都市へと引っ越してしまうからです。そうやって義務教育を卒業しても、「就活」
して労働者となるように教え込まれます。すると「雇用」のない山村より都市に住むことを望むようになります。じつは過疎化が止められないシステムの中心にあるのが学校だという批判的視点を持たないと、過疎化と都市一極集中を逆転させる知恵は出てこないでしょう。
 今回は文学や歴史上の人物の固有名詞が数多く出てきて、訳者は英文学を修めたわけではないので、その多くは名前を聞いてもピンときません。ウィキペディアへのリンクを張りましたのでご参考まで。希望的観測ですが、このような文脈の人物の解説は、現代政治の対立とはあまり関係なさそうなので、偽情報で汚染されている可能性は低いと思います。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


5.6 心を型にはめる

学校は最も安上がりな警察だ。(ホーレス・マン

でも私が学んだ全ての事実を、いったい誰が解くことができようか
奴らの椅子に座り、私のシナプスが燃え上がり
チョークの粉が拷問のように舌にまとわりつくとき
思考は私のビジョンに従って太陽の下で踊り
血管の緊張はみんなゆっくり解けていく
歳を取るまで待てというのか? 若いうちは生きるなというのか?(フィッシュ

現代の学校教育に注目せずして、支配に関する議論は完全なものにならないでしょう。それは、内なる荒野、つまり人間の本性を服従させる企ての要であり、私たちがテクノロジーを使って外部を支配するのと同じです。

なぜ学校に行くのでしょう? みんなが口にする答は「学ぶため」ですが、ここで私たちは他の全てにつながる現代の学校教育で最大の矛盾に出くわします。学校の目的が子供たちの学びにあるならば、学校が機能していないのは明らかです。

1992年に米国教育省が実施した大規模な「全国成人識字率調査」は特に示唆に富んでいるので、ジョン・ガットの要約を全て引用します。

  1.  16歳以上のアメリカ人の(1億9千万人のうち)4千2百万人は字が読めない。このグループの中には、ソーシャル・セキュリティー・カードに名前を書き、申請用紙に身長、体重、出生欄を記入できる者もいる。

  2.  5千万人は小学4、5年生レベルの印刷された単語を認識できるが、簡単なメッセージや文字を書くことができない。

  3.  5千5百万から6千万人の読解能力は小学6年生から中学2年生レベルに限定されている。このグループの大多数は、1.99ドルの20オンス瓶入りピーナッツバターの1オンスあたりの値段を、四捨五入して整数にしてもいいと言われても計算することができなかった。

  4.  3千万人が中学3年生と高校1年生の読解力を有している。このグループ(と、先に述べた全てのグループ)は、陪審員を選ぶ際に弁護士や裁判官が用いる手続きについて、簡略化された書面による説明を理解することができない。

  5.  2万6千人のサンプルの約3.5%が、伝統的な大学での学習に十分な識字能力を示したが、これは1940年に全米高校生の30%が到達していたレベルであり、他の先進国では中等教育の生徒の30%が到達できるレベルである。

まあ仕方ないのかもしれません。ほとんどの人はただ頭が悪いだけなのかもしれません。その場合、学校は慈悲深く崇高な側面を持つことになり、心理学と教育学という科学を駆使して、少なくとも知識と読み書き能力の片鱗を授けられる恵まれない大衆は、善意はあるが無知な親と、自身の判断に任せておいたら、テクノロジー社会で生きていくのに適さない人になってしまうことは間違いありません。なにしろ2百年前と違って、現代の私たちは本を読み、計算をし、コンピューターも使わなければなりません。確かに問題もありますが、一般的に学校は各人の遺伝子と環境が許す知的能力のレベルまで引き上げてくれるのです。そうでしょう?

いいえ、そうではありません。過去60年間で、教育への実質支出は4倍近くに増えましたが、非識字率はそれに伴って4倍になりました。1940年以前に学校に通っていた黒人はほとんどいませんでしたが、その年の黒人の識字率は80%でした。それが現在は60%前後で推移しています。一方、白人の非識字率は4%から17%に上昇しました[24]。

学校教育が強制される以前の1840年、ニューイングランドの識字率は100%に迫っていて、当時のベストセラーには、ハーマン・メルヴィルジェームズ・フェニモア・クーパーラルフ・ワルド・エマーソンのような本が含まれ、その全てを買っていた層のほとんどは小規模農家でした。午後のひととき、ゆったりと読書にふけったことはあるでしょうか? ギリシア神話を引用した30ページにも及ぶエマーソンのエッセイには、複数の接続詞や従属節が入れ子になっている複雑な文章、複雑な論理、現代の大学院生の多くを悩ませるような語彙が満載です。私は頑張って集中力を高めても、19世紀初頭の文学で精いっぱいです。注意力が散漫になり、議論の筋道が分からなくなり、やがて理解できないままページの上を目が泳ぐだけになってしまいます。

ジョン・テイラー・ガットは次のように述べています。「1882年、5年生が『アップルトン学徒読本』で読んだ作家は以下のようなものだった。ウィリアム・シェイクスピアヘンリー・ソロージョージ・ワシントンサー・ウォルター・スコットマーク・トウェインベンジャミン・フランクリンオリバー・ウェンデル・ホームズジョン・バニヤンダニエル・ウェブスターサミュエル・ジョンソンルイス・キャロルトーマス・ジェファーソンラルフ・ワルド・エマーソン、その他これに類する著者たちである。」現在、本書の第4章で引用したトーマス・ジェファーソンの一節を理解できる大学生は、全体の20%にも満たないでしょう。小学5年生に関しては、文章は簡略化された語彙を使った短い平叙文が中心です。最近の傾向として、『若草物語』や『たのしい川べ』といった児童文学の名作が、特別に易しく書き直して再版されることがあります[25]。『宝島』を扱える読解力を持つ子供は、最近ではほとんどいません。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』も、かつては高校英語の定番でしたが、生徒たちがそれを理解する集中力を持たなくなったため、カリキュラムから外されました[26]。

現代の学校教育は失敗なのでしょうか? それは学校教育の本当の目的しだいということになり、このページではとても説明しきれない膨大なテーマです。幸いなことに、私が語るまでもなく、ジョン・テイラー・ガットの大著『アメリカ教育史の底流』があり、そこには天才的な学識、揺るぎない誠実さ、経験豊かな洞察力、そびえ立つ憤慨が現れ出ています。彼の洞察(と憤り)の一部を紹介しますが、それらはコントロールの精神構造メンタリティ、ニュートン的な世界マシーンの論理、魂の資本の金銭化、ひいては自然や人間性に対する我々の文化の根本的な態度を、非常によく言い表しているからです。

大量強制教育の表面的な理由のすぐ下に、本当の動機の第一段階があります。それは産業経済の要求に合致した人々を創り出すためです。(いま私たちがいるのはポスト工業経済だと考えられていることは、エリートたちでさえ学校が「もはや機能していない」と認めている理由の一部です。)私たちの知っている学校が始まったのは、大量生産のテクノロジーと精神構造メンタリティの他の応用と同じように、19世紀初頭のプロイセン王国、イギリス、フランス、そしてアメリカといった石炭大国でした。

初期の産業は問題に直面していました。鉱山や工場での労働は、退屈で、反復的で、辛く、危険なものだった一方、賃金水準は生活を維持するのがやっとでした。事務作業、つまりコンピューター導入前の事務員や書記官、経理担当者の仕事も、危険というほどではないにせよ、同様に退屈で非人間的なものでした。工場の規律は、工業化以前の社会を構成していた独立独歩の農民や職人にとっては無縁のもので、労働規律をどのように浸透させるかという問題は、当時の知識人たちによって長らく議論されていました。ひとつの解決策は徹底的な強制力でした。囲い込みによる農民の土地からの追い出し、ストライキ禁止を強制するための民兵の使用、そして多くの場合その動機は経済的に極限まで追い詰められたからでした。しかし、この解決策の非人道性は良心に反していた上に、ヨーロッパや北米で反乱や革命、血なまぐさい労働争議の続発が証となっているように、大きな爆発力をはらんでいました。ならば、人々を子供の頃から条件づけ、部分的で、平凡で、機械的で、退屈で、反復的で、思考や創造性にとって手応えのない仕事を受け入れさせ、さらにはそれを望むように仕向ける方が良いのではないでしょうか?

もうこの説明で学校を思い出したのではありませんか? そこでは、学習は好奇心からではなく権威の計略から生じ、達成度は外部基準によって査定され、人間は多くの物体のように番号が振られ、「クラス分け」され、「等級付け」され、知識が解答や○×に落とし込まれ、先生が「休み時間」や離席を許可するとき以外、子供たちは教室や机に閉じ込められ、先生の指示に従って問題を解き、言論と集会の自由は凍結され、あらゆる自由は無く、あるのは与えられた特権だけで、チャイムが私たちに規則正しいスケジュールを押し付け、友愛は密かに行われ(かつて私の教師が言ったように、「お前らは付き合うためにここにいるのではない!」)、権力の階層構造にいる者以外には規則を作ったり変えたりする権限がなく、与えられた仕事は受け入れる他なく、気まぐれに与えられる仕事も、それがもたらす外的報酬を除いては意味が無く、ほぼ全知全能の中央権力の前では抵抗など無益であることが証明される…。オフィスや工場に閉じ込められる大人になるため、これ以上の準備があるでしょうか? 与えられた人生を疑うことなく受け入れるようになるために、これ以上の準備があるでしょうか? 学生たちが「自分は経営陣の機嫌を取るために競争している従業員だと考える」ことを学べる場所など、他のどこにあるというのでしょうか?[27]

学校は、今に至るまで私たちの経済を支配している、矮小化され、屈辱的で、退屈で、やりがいのない仕事に、私たちが服従する準備であるだけでなく、現代の生産者になるための準備であるだけでなく、同様に現代の消費者になるための準備でもあるのです。ガットの説明を考えてみましょう。

学校は個人を集団として反応するよう訓練する。男子も女子も、退屈で、怯えていて、嫉妬深く、感情的に欲求不満で、概して不完全であることを叩き込まれる。大量生産経済が成功するには、そのような顧客層が必要なのだ。アーミッシュ社会に見られるような小規模事業、小規模農場経済には、個人の能力、思慮深さ、思いやり、そして普遍的な参加が必要だが、私たちの経済には、[テレビドラマの]『チアーズ』と『となりのサインフェルド』の違いを議論する価値があると信じ、均質で、魂がなく、不安で、家族もなく、友人もなく、神もなく、従順な人々の、管理された集団が必要なのだ。

消費者モデルは現代の教室の根幹に組み込まれています。ガットはこう書きます。「学校は、個人主権、道徳、家庭生活を打ち壊すことによって国富を築く。」これらはまさに第4章で述べた社会と魂の資本であり、その貨幣への転換です。くじかれて茫然となった子供が大人になっても、職場で自分のために立ち上がることができず、工業社会という巨大な自動機械の中で標準品の歯車としての役割に抵抗することもできないというだけではなく、人間関係それ自体と、それらに伴う、以前は金銭化されていなかった全ての活動と取引が、単なる物となり、非人格化され、商品化されるということです。私たちの人間性を規定する(社会と魂の)自律的な関係が剥奪されると、私たちは必然的にその消費者となります。読書による自発的な学習が、教師による予め計画された指導(カリキュラムの流布)に取って代わられると、私たちは知識の生産者ではなく消費者となり、知識は測定可能な「情報」へと落とし込まれてしまいます。こうして私たちは、子供たちに服従(どうしたらいいか教えてよ)を吹き込むだけでなく、知的依存、つまり真理を権威に依存することも植え付けるのです。本から真理を得ることと、教師から真理を得ることの違いは何でしょうか? 個人的な知識探求の一環として本を読んだからといって、人を単なる消費者にすることがないのは、探求が自律的なものであり、情報が独自の強制されない選択と判断の対象となるからです。学校では全く逆です。真実、つまり正解は、すでに権威によって事前に選ばれ、判定されていて、生徒たちはそれを受け入れるのが当然で、(少なくとも、試験、成績、補習、「内申書」などが効果的な報酬と罰の手段である限りにおいて)受け入れるよう強制されるのです。

言い換えれば、学校は疎外の道具なのです。子供たちを家族から物理的に引き離すだけでなく、昔から重要な交流の場であった教育に取って代わり職業化することで、子供たちと家族とを疎遠にするのです。子供たちを地域社会から疎外し、年齢別に隔離し、子供たち同士の競争を誘発し、大人の生活から隔離し、遠く離れた専門家が決めたカリキュラムを与えます。(学校が共同体を破壊する働きは、百年にわたって学校を統廃合し国家主導でカリキュラムを標準化した結果、特に強くなっています。)子供たちを一日じゅう室内に閉じ込めておくことで、子供たちを自然や野外から遠ざけることになりますが、これは前世紀までの子供時代には全くなかった状況です。子供たちを実体験から遠ざけ、代わりにゲームやシミュレーションや授業を与えますが、結局のところ子供たちがそこですることは、全て教室の中だけのことであり、実世界の結果は伴わず、次の授業のチャイムが鳴ったらすぐに終わりです。しかし最も重要なのは、学校が子供たちを自分自身から、自分の自然な好奇心、自発的なやる気、自立心、そして自信からも遠ざけてしまうことです。 イヴァン・イリイチはこう言っています。「金持ちも貧乏人も等しく学校と病院に依存している。それらは生活を導き、世界観を形成し、何が正当で何がそうでないかを定義する。両者に共通する見方は、自分で自分を治療するのは無責任であり、独学で学ぶのは信頼性に欠け、地域社会の組織は、権力者から資金援助されているもの以外、攻撃や破壊活動の一種とみなすことだ。学校と病院はどちらも、組織制度からの処置を信頼し、自力で達成したものには疑いの目を向けるからだ。」[28]

1889年から1906年まで米国の教育長官を務めたウィリアム・トーリー・ハリスは、在任最後の年にこう書いています。

100人中99人[の生徒]は機械人形で、決められた道を注意深く歩き、決められた習慣に注意深く従う。これは偶然ではなく、相当な教育を施した結果であり、科学的に定義するなら個人の従属化である。
学校の大きな目的は、暗く、息苦しく、醜い場所でこそ、より良く実現できる。それは肉体的な自己を極めることであり、自然の美しさを乗り越えることである。学校は外界から引きこもる力を養うべきなのだ。[29]

ガットはこう言います。「百年近く前、この教師は自己疎外こそが産業社会の秘訣だと考えていた。確かに彼の言う通りだった。」この疎外は本書のテーマである分断に他ならず、あらゆるテクノロジーに暗黙のうちに含まれていて、現代の科学とテクノロジーと「機械」の頂点に結実します。

学校教育のこうした特徴は最初から学校教育の中に組み込まれていましたが、それはロックフェラーの一般教育委員会のような指導的組織がはっきりと述べています。

我らの夢の中で…、人々は我らの成形の手に完璧に従順に身をゆだねる…。我らは、これらの人々やその子供たちを哲学者や学識者や科学者にしようとはしない。彼らの中から作家、教育者、詩人、文人を育てる必要はない。彼らの中から偉大な芸術家、画家、音楽家、弁護士、医者、説教師、政治家、政治家の卵を探すつもりはない。そのような者は我らの中に有り余るほどいるからだ。我らが自らに課した仕事は極めて単純明快なものであり…子供たちを組織して…彼らの父や母が稚拙ながらも行っていることを、完璧なやり方で行うように教えるのだ。[30]

「大量生産経済は、均一化された人口、つまり大衆の習慣、大衆の嗜好、大衆の熱狂、予測可能な大衆の行動に慣らされた人口なしには、創出も維持もできない。[31]」学校という近代的な制度は、自由主義経済理論で想定されている「人間性」そのものを作り出すのに一役買っていて、その挙動は古典物理学の質量と同じように、決定論的法則に従って予測可能となるのです。

より深いレベルでは、現代の教育の目標はルイス・マンフォードの巨大機械を完成することです。それは人間の部品で構成された壮大な自動機械で、それ自体が工場の原型となり、その中では各人が機械部品のように標準化された機能に落とし込まれます。物理的な機械が空前の富と環境支配の力を生み出したように、個人の全体性と自己決定を犠牲にしたことで、科学の輝かしい前進の中で埋め合わせがなされると考えられていました。それが行き着くところは自然の征服であり、言い換えれば、〈テクノロジーの計画〉の成就であり、それによって私たちは労働を超え、苦悩を超え、死を超え、地球を超え、宇宙という最後のフロンティアの全体へと進出するのです。

個人をシステムの求めに従属させることは、「科学的管理」というイデオロギーの重要な構成要素であり、これはフレデリック・テイラーを連想させますが、その起源は少なくともフランシス・ベーコンにまで遡ります。ベーコンが信じていたのは、〈科学的方法〉によって人類はまさにそこへ到達したということであり、その「方法」を機械的に適用すれば科学は無限の進歩を達成できるということです。もはや個人としての天才は必要なく、方法を有能で正しく有効に適用しさえすればいいのです。ジョン・ラルストン・ソウルは大著『官僚国家の崩壊』の中で、理性と方法とシステムのイデオロギーが進化してきた様を雄弁に語っています。テイラーが言ったように、「これまでは人間が先だった。これからはシステムが先でなければならない」のです。ガットはこう評論します。「身体の動きを標準化するだけでは不十分で、標準化された労働者は『自分の仕事にも満足していなければならない』のであり、したがって彼の思考プロセスも標準化されねばならないのだ。[32]」もし仕事に満足していないのなら、その人の製造過程(交友関係、教育、訓練)に問題があったはずですが、幸いなことに医薬技術を用いれば適合させることができます。実際、「適合」という言葉には、人間を型にはめること、システムの要求に合わせて標準化することが含まれています。またもや思い出すのは1933年の万国博覧会のスローガン、「科学は発明し、産業は応用し、人間は順応する」です。学校は人間を機械に適合させ、人間の本性を改変する過程の一部に過ぎません。

学校教育の本当の歴史的目的が、人間の精神に対するとんでもない侵害であることを、ガットは正しく、説得力を持って明らかにしましたが、彼は時に、それがいくつかの歴史的な偶然に左右されたものであり、そうでなかった可能性も十分にあったという印象を残しています。もしフンボルトが19世紀初頭のプロイセン王国でフォン・シュタイン男爵との論争に勝ってさえいたら、マサチューセッツ州議会が36票という僅差をくつがえしてホーレス・マンを退けていたなら、集団義務教育という犯罪は起こらなかったかもしれません。実際それは、起きるべくして起きたのであり、フォン・シュタイン、ホーレス・マン、デューイ、カーネギー財団とロックフェラー理事会、ウィリアム・レイニー・ハーパーらを勝利に導いた膨大な歴史的な流れに縛られていたのです。裏で糸を引いていたロックフェラーカーネギーフォードモルガンたちは、従順な労働者階級と秩序ある社会の創造を目指していましたが、彼らといえども、自分たちを権力の座に押し上げた過程そのものが規定した役割を演じているに過ぎなかったのです。

そう、学校は家庭と共同体を解体し、市民を臣民へと、創造者を消費者へと変貌させ、子供たちを組織生活の要求に屈服させる役割を担っているのです。学校はこれら全ての主体ですが、こうした変化は学校教育という制度をはるかに超えて広がり、それを定着させ導いています。何らかの方法で、私たちが自然や他のあらゆるものに適用してきたのと同じ根本的なテクノロジーを、同じ基本的な理由から、子供たちにも適用するのは避けられないことでした。「個人をシステムの要求に従わせる」方法とは何でしょう? 個人はただ、ラベルを貼られ、数値化され、測定され、等級付けされ、標準化されなければなりません。それが管理という方法を適用する唯一の方法なのです。このように学校はマンフォードの巨大機械の発展形であり、それ自体がますます自然を物扱いし、管理し、コントロールする論理的な終着点なのです。

家族、自然、社会的徒弟制度という母体から子供たちを引き離すという点で、大衆学校教育は本質的に社会工学の巨大な実験であり、ここに結実する数千年にわたるユートピア主義の起源はプラトンにまで遡り、そこでは若者の制度的訓練が常に重要な要素でした。19世紀から20世紀にかけてのオーウェニズムのような社会主義的な試みによって、子供たちは少なくとも部分的には家族から引き離されました。お気の毒だが、家族は時代遅れなのだ。これからは我々が科学的に子供を育てていく。訓練された専門家の方が無知な親より上手くやれるのは間違いなく、科学と理性があれば原始的で生物的で感情主導の家庭を改善できるに決まっている。心理学と児童行動の科学的法則が古い不合理な慣習に取って代わり、親の主観にとらわれず現代社会にふさわしい子供を我々が育てるのだ。現代の親であるあなた方は、せいぜい科学的な子育てについて頑張って学ぶことだが、ほとんどの分野では専門家に従う他ないだろう。

この流れの終着点はハクスリーの『すばらしい新世界』に他ならず、そこでは工場の方法が子育てに出生前から適用されます。全ての人はアルファ・プラスからデルタ・マイナスまで階級分けされ(聞き覚えがありませんか?)、それぞれ自分の等級にふさわしい動機と支援が与えられるのです。

あらゆるテクノロジーがそうであるように、学校教育という社会工学的な計略には自然からの分断を伴っていて、この場合は子供たちを本来の生物学的・社会的な住処すみかである家族や地域社会から引き離すことです。家族からの分断は、『すばらしい新世界』で全面的に描かれましたが、物質世界を設計するのと同じ方法と論理に従って社会を設計しようとする試みの、必然的で避け難い産物なのです。このどちらにも、個人的、主観的、伝統的なものから、抽象的、形式的、一般的なものへの置き換えが見られます。私たちはまだハクスリーの描いた極限には達していませんが、〈テクノロジーの計画〉を追求するところならどこでも、そちらへ向かう傾向が見られます。子供の頃、私たちはソ連の話を恐る恐る聞いていましたが、そこでは国家が親に取って代わり、家族そのものを置き換えて、強制的な「科学的」保育や青少年教化などが行われていたのです。しかし今日、同じようなことが至る所で起きています。国家が直接に手を下すわけではないにせよ、文字通りの免許を与えられ、あるいは科学的管理といういつもの原則に基づいて運営されている他の機関の手によって行われるのです。偶然であれ意図的であれ、現在の乳幼児保育、学校、団体スポーツ、カウンセリング、テレビなどの制度は、親や地域社会に取って代わろうとしているのです。交際、教育、アイデンティティ形成という同じ働きを提供しているのは、今ではお金をもらっていることを除けば子供のことなどまったく気にしていないかもしれない機関やその職員なのです。さらに、子供をシステムの要求に合わせるという社会工学の目標と、個人の充足という精神的な目標との間には、根本的な対立があります。交際とは機械と付き合うことです。構築されたアイデンティティは、消費者のアイデンティティです。

ホーレス・マンが教室の授業を成功させる鍵として骨相学を提唱して以来、心理学(心の「科学」)が教育学(教える「科学」)において常に重視されてきたのは、社会工学という計略があるからです。人類の「上昇」の他の領域と同じように、私たちはガリレオの処方箋に従い、学習を科学にできると思って、学習に測定を適用しているのです。そうすれば、標準化、効率化、管理、コントロールに基づくあらゆるテクノロジーを展開することができます。教育の対象である子供は、テクノロジーの対象となります。学校は巨大な事業の一側面です。それは人間と、人間の心、人間の精神、人間の魂の、改変です。まさに大胆な野心です。それは歴史的な失策の偶然の結果でも、邪悪な陰謀の企みでもなく、テクノロジー本来の傲慢ごうまんさに内包されているのです。最も深いレベルでは、教育の目的と動機は、〈テクノロジーの計画〉を、社会と人間という究極のフロンティアに適用することです。一般的なテクノロジーが自然を改良しようとするように、教育テクノロジーは人間の本性を改良しようとするのです。


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注:
[24] ジョン・テイラー・ガット [John Taylor Gatto,] The Underground History of American Education(アメリカ教育史の底流), p. 53.
[25] この傾向に関する洞察に満ちた議論については、 “Abridged too Far(行き過ぎた簡略化)”, ヒラリー・フラワー [Hillary Flower] http://www.salon.com/books/feature/2004/03/29/willows/index.html を参照.
[26] ハロルド・ブルーム [Harold Bloom,] The Western Canon(西洋の正典), p. 520
[27] ガット [Gatto,] p. 38
[28] イヴァン・イリイチ [Ivan Illich,] Deschooling Society(脱学校化する社会), p. 2-3
[29] ウィリアム・トーリー・ハリス [William Torrey Harris,] The Philosophy of Education(教育の哲学), ガット [Gatto]による引用 p. 105
[30] 一般教育委員会 [General Education Board,] Occasional Letter Number One(臨時通信 第1号), 1906, ガット [Gatto]による引用 p. 45
[31] ガット [Gatto,] p. 156
[32] ガット [Gatto,] p. 173


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-06/

2008 Charles Eisenstein


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