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訳者あとがき
(これは『気候:新たなる物語』日本語訳へのあとがきです。本文の目次はこちら。)
訳者がチャールズ・アイゼンスタインの著作と出会ったのは『Sacred Economics(聖なる経済学)』(2011年)でした。現在のお金のシステムがなぜ自然を破壊し人々を苦しめるのか。借金が必ず伴う現在の金融システムの問題を暴き出し、それを乗り越えていくギフト(贈与)経済を提唱しました。たたみ掛けるような語り口に引き込まれ、英語版を一気に読み通してしまいました。そこに語られていたのは本書とも共通するテーマである現代文明の世界観で、著者はそれを「分断の物語」と呼びます。世界の構成員は個別ばらばらに分断された自分本位な人々。世界には真空の宇宙に浮かぶ原子の塊があるだけで、働くのは無個性な物理法則だけ。世界は自分とは別のもの、したがって何をしようと自分の勝手。
本書では、この「分断の物語」が現代文明のあり方を規定し地球生態系を破壊する様子をいっそう鮮やかに描き出します。『気候』というタイトルですが、「脱炭素社会」を説く本ではありません。地球上の生命にとって最大の脅威は化石燃料からの排出ガスではなく、森林、土壌、湿地、海洋生態系の破壊です。このように大きな問題を「炭素」という一つの尺度に落とし込み、これを敵として戦うことが問題なのです。戦いに勝ったところで真の解決にはなりません。何かにつけ敵や原因を見つけ出して戦いを挑む習慣のせいで、地球温暖化を巡る議論も脅威論者から否定論者まで様々な立場に分裂してしまいましたが、これは本当の問題を見えなくします。分断された議論で本当に重要なのは、両側とも疑わない暗黙の前提です。もうすぐ温暖化で文明が崩壊すると主張する人も、温暖化は腐敗した科学者がでっち上げた嘘だと主張する人も、現代文明のあり方そのものを疑うことはありません。
地球温暖化よりも重要なのは水循環と炭素循環が壊されていることです。太陽エネルギーが地球を通り抜けて暗黒の宇宙空間に落ちていく、その大きな流れが水循環と炭素循環を動かし、生命生態系を維持しているというのは、エントロピー論で語られる地球観です。地球に生命が存在できる条件が保たれているのは、地球全体があたかも一個の生命体のように振る舞い、体温や体液濃度を調整するように気温や海水塩分濃度を調整していると見るのが、ガイア論です。気候変動は身体の器官を冒されたガイアの病であり、生態系破荒廃の症状なのです。極端化する気象こそが病の症状であって、温暖化のせいで気候が極端化するのではありません。人為的な二酸化炭素の排出による温暖化が本当であろうが間違いであろうが、生態系が癒されれば副産物として気候は正常化します。著者は、再生型農業などで人々と生態系がどのような関係を結ぶことができるのかを様々な例を引いて紹介し、成長至上主義が組み込まれた経済システムの誤りを正して生態系の癒しを可能にするための方法を提示します。
知識の不完全さを認めて真実を探求する科学本来の謙虚さを著者は支持します。しかし権威となった科学は組織宗教にそっくりで、科学制度の権威に潜む傲慢さを著者は照らし出します。科学に根深く組み込まれている「還元主義(reductionism)」は複雑な世界を単純な尺度に落とし込む(reduceする、つまり矮小化する)のです。これは世界を数値化によって理解し我が物にできるという自惚れであり、森林を木材の体積やカロリーだけで評価してバイオ燃料に落とし込む(貶める)ような行為を必然的に招きます。数値化の裏には必ず見落としや無視されるものがあり、新たなテクノロジーは新たな問題を生みます。
現代文明が何に基づいてここまでの破壊行為を行ってきたかをふり返ると、理性だけでは問題が解決できそうにないことがわかります。文明を規定する物語の書き替えが必要なのです。私たちが直感として持っている、この世界のありとあらゆるものは生きているという世界観に、じつは非常に大きな意味のあることを、著者はひとつひとつ解き明かし、宗教的とかスピリチュアルと括られ主流の議論から無視されてきた領域へと橋渡しします。この世界のあらゆるもの、動植物はもとより山や川や岩や水にまで主体性がある、つまり人格のようなものがあり意思さえ持っていると認めて尊重し、その神聖さを取り戻すことが、生態系の癒しには必要なのです。
著者のメッセージの中でひときわ光を放つのは、出口なしに見える現在の危機的状況が、人類が大人になるための通過点にある試練、つまり通過儀礼だというものです。地球生態系から与えられるものは何でも奪い取り、やりたい放題やってきた現代文明は、じつは分別を知らない子どもだったのです。大人になるためには、危機を通過しなければなりません。通り抜けるのは不可能なようにも見えるのは、それが本物の通過儀礼だからです。これを乗り越えた先に待っている成熟した文明の姿は、先住民の文化や、民間療法や自然農のようにオルタナティブとかホリスティックと呼ばれるものの中に垣間見るような、新しくも古来の生き方です。いま人類に求められているのは、分断から脱却して「相互共存(インタービーイング)の物語」に基づいた文明に移行することです。相互共存の世界観では、全てのものは全てのものの一部で、他のものに起きたことは何らかの形で自分にも起きます。人間の心身の健康、社会の風潮、大気の気候は、お互い密接に関係しているのです。
気候変動が人類に投げかける問いは「あなたたちはどんな世界に生きたいと望むのか?」というものです。現代文明の持続可能性をどうすれば達成できるかではなく、私たちが持続させたいものは何なのか。何千年にもわたり一歩一歩進んできたように、自然を人工物で置き換え、人間にとって利用価値のあるものだけを残した「コンクリートの世界」を目指すのでしょうか。現在のシステムがあらゆるものを破壊し殺す理由は、それが世界を死んだ物と見ることから出発しているからです。私たちが環境保護を切望する理由は、損得勘定ではなく愛するものを失った悲しみです。人間以外の物質世界に愛すべき命など無いと断定することで、私たちは自然界と物質世界を愛の対象から外してしまいます。あらゆる生き物を利用価値ではなくそれ自身として愛することこそが必要なのです。私たちは美しいものと愛に落ち、愛するものに美を見出します。もっと美しい未来が存在するよと招く直感に身を任せるなら、はるか遠くの発電所で放出される二酸化炭素や50年先の平均気温などではなく、私たちが今生きているこの場所に傷つきながらも残っている生き物たちを、少しずつでも癒すことから始めるのです。最終章で著者が示す18項目の提案の最後に、農薬使用からの脱却と社会の非武装化を挙げています。これらは、自然に対する戦いと人々に対する戦いをともに放棄するという、深い不戦のメッセージです。
本書を訳すにあたり、講演家でもあるチャールズ独特の語り口を、できるだけ日本語で再現しようと試み、声に出して読むことを意識して訳出したつもりですが、まだまだ練り足りないところはあるかと思います。読者の皆さんのご鞭撻を賜りたいと思います。
酒井泰幸
以下、1節1引用
私たちが内なる生態系、つまり感じ愛する能力の豊かさを修復したときにだけ、外の世界を修復する望みが生まれます。
勝者となることを諦める覚悟はできていますか? いつか正しいと認められることを諦める覚悟はできていますか? 「悪玉チーム」と戦う「善玉チーム」の側に自分がいると思うのをやめる覚悟はできていますか? それはなぜかというと、あらゆる論争では両陣営とも、自分たちこそがそうだと普通は信じていることだからであり、また人間を自然から分断することの典型であり分断を強化する「他者化」のひな形だからです。
生態系破壊の場合では、戦争のメンタリティーは癒しへの障害物であるだけではなく、問題の秘部でもあるのです。戦争はある種の還元主義に基づいています。戦争は、(自分自身を含む)複雑に絡み合った原因を、敵という単純で外部的な原因に落とし込みます。さらに戦争は、敵を堕落した人間の戯画へと落とし込むことに頼るのが常です。敵の悪魔化と非人間化は、生態系破壊が自然の非神聖化を頼りに行われるのとほとんど違いません。
「相互共存(インタービーイング)の物語」から、私たちは別の種類の原因と結果があるのを直感します。何百万もの人々を閉じ込める監獄社会では、刑務所の外にいる人たちも自由を失うことに、私たちは驚きません。国家が世界中で暴力を振るうとき、警備や監視、壁やフェンスがどれだけあっても、家庭内暴力や自己破壊的な習慣という形で、暴力が逆に忍び込んでくることを防げないことに、私たちは驚きません。また、環境汚染や生息環境の荒廃が、身体の病や原風景(インナー・ランドスケープ)荒廃の映し鏡になっていることに、私たちは驚きません。
気候変動…は、より深い不調和の症状を示す熱病なのです。その不調和は、私たちの文明のあらゆる側面に行き渡っています。…もし私たちが根底にある条件に対処することなく、直接の原因を押さえつけるなら、その症状は悪性の新しい形となって舞い戻ってきます。
人身売買とブラック企業での労働、政治的暴力と家庭内暴力、人種差別と性暴力、貧困と戦争、この全てが、私たちのシステム、私たちの認識、私たちの物語と共に生じます。…癒されない社会的トラウマを私たちが抱えている間は、仲間を虐待し続け、母なる地球さえも虐待し続けます。…社会の癒しと生態系の癒しは…、どちらがどちらに優先するということはなく、他方が成功せずに一方だけが成功することはありません。
地球生態系の危機をはじめ多くの場合には、状況はもっと込み入っています。そういう場合、いちばん都合の良い、表面的に明らかな原因へと突進する習慣が、もっと意味のある対応から私たちの注意をそらしてしまいます。私たちが下へ、下へ、下へと掘り下げて見るのを妨げてしまいます。
私たちの社会で最も有力で馴染み深い道具は科学の数量的な方法です。したがってそれが、気候変動の問題を私たちが捉える方法です。…でもこれが唯一の道具でしょうか?これはそもそも正しい道具なのでしょうか? 産業文明がこれまで地球に起こしてきた損害が数量化という同じ枠組みによっていることを考えれば、疑ってみても良いでしょう。
生態系の危機は私たちが気候変動と呼ぶものを遥かに超えています。しかし、愛、気づかい、コミットメントを、自分の地域を守り再生させることへと集中し、同時に他の人たちの地域をも尊重するなら、気候危機はその副産物として解消するでしょう。
・地球は一個の生き物である。
・あらゆる生物群系、地域生態系、生物種は、それぞれ特有の方法で全体の健康と復元力に貢献し、ガイア生命体の器官や組織となっている。
・動植物、土、川、海、山、森など、あらゆるものたちは、生きて意識を持った主体として尊敬に値し、単なる物ではない。
・地球やその上にあるものたちの健全さを少しでも損なえば、因果の糸が目に見えるかどうかにかかわらず、人間にも害が及ぶことは避けられない。
・同じように、健康な地球は、人類の身体的・精神的な健康のためになる。
・私たちの信念、関係性、神話を形作る精神の気候は、大気の気候と密接に結びついている。
・同じように、政治的気候と社会的気候は大気の気候と共鳴関係にある。
・人類の目的は、私たちの持っている資質を地球の美しさ、躍動性、進化に役立てるためである。
科学であれ何であれ、従来の権威への信頼をもとにしない、生態系の癒しという物語を、私は前へ進めたいと思います。それでも科学は私たちの味方になり得ます…が、それが私たちの主人である必要はありません。
地球平均気温が上昇しているかどうかは主な問題点ではありません。私たちは間違った論争に巻き込まれているのです。気候撹乱は炭素の排出を止めたとしても続き、平均気温が一定に保たれても気候撹乱による災難は避けられません。それは地球が機械ではなく生命体だからであり、私たちがその組織と器官を破壊しているからなのです。
干ばつや洪水の深刻さが増しているのは気候変動の結果ではありません。それこそが気候変動なのです。
森林が雨を呼ぶというのは世界中で当たり前に信じられてきたことですが、長らく科学者はこの考えをばかにしてきました。豊富な降水量のあるところに森林が育つのであって、森林が降雨を起こすのではないのだと科学者はいいました。雨をもたらすのは、極地と赤道の温度差や地球の自転などの要因から起きる大規模な機械論的プロセスに支配された風なのだと。今この見方は変わろうとしています。
地球上で神聖なものが何かあるとすれば、それはきっと水です。…神聖なものとは私たちに犠牲を求めるもの、つまり私たちが価値を認め、私たち自身にとっての利用価値を超えて、守るためなら犠牲を払うことを厭わないものです。
新たな関係の中では(文明にとって新しいだけで、土着先住民にはそうでないのですが)、大地から何かを取るときはいつも、大地を豊かにするような方法で行うよう務めるのです。私たちが与える影響に無意識であることはなく、私たちの影響を最小限にしようとするのでもありません。私たちは、あらゆる生命に奉仕するような美しい影響を与えるよう務めるのです。
森林は想像を超えた複雑さを持つ生き物です。私たちが森林をほんのいくつかの一般的な関係と数量に落とし込むなら、私たちは暴力のお膳立てをするのです。チェーンソーとブルドーザーで森林の身体を貶め、続いて森林の概念を測定可能な数量とサービスに貶めます。これが、私が森林の価値を炭素の観点から定義することを躊躇する理由です。炭素以外の生態系サービスや内在する価値が抜け落ちて、議論を数字に向けてしまうのです。
身体、生態系、ゲノム、社会、地球は、どれも複雑系です。その反対の見方、つまり極めて込み入った機械として捉えようとする誘惑に駆られるのは、そうすることでトップダウンの問題解決という慣れた方法を使えるので、状況をコントロールしていると感じることができるからです。
率直に言えば全体システム思考とは、私たちが(集団的には)どうしたら良いのか本当には知らないものなのです。私たちの制度はそのために作られておらず、私たちの思考の癖や、私たちの社会、経済、認識の基盤も、全体システム思考のために作られてはいません。私たちの問題解決と知識生産の基本的なあり方は、複雑な生きたシステムへの健全な参加とは根本的に相容れないものです。これが示しているのは文明の危機に他なりません。そのようなわけで、気候変動は人類にとっての通過儀礼なのです。
ある選択と別の選択を温室効果の数値化によって比較することで政策の舵取りをするのはもう望めません。このような計算に危険が伴うのは、それが私たちの知識の正確さと範囲に依存しているからです。
気候を最重要の物語として受け入れたことで、環境保護主義者は悪魔との取引をしてしまったのではないかと思います。
人は恐れから何かを気づかい世話するようにはなりません。私たちに必要なのは…エネルギーと献身です。私たちに必要なのは…運動の広がりです。…そのためには問題を個人的なものとする必要があります。そしてそのためには、何かを失った現実に直面することが必要です。何かを失った現実に直面することを、悲嘆といいます。これより他に道はありません。
あらゆる生き物は自分の生命力をあふれんばかりに表現することへの憧れを持っているのです。鳥は必要以上にさえずり、子猫は必要以上に遊び、ラズベリーは必要以上に美味しいのです。そしてあなたも、自分に与えられた才能を美しく表現しようと、生活を支えるために必要とされる以上に美しく表現しようと、切望しているのです。
この地球上で値段を付けられないものを守ろうとするなら、計算に頼るわけには行きません。…金銭的な心が生み出した破壊から、金銭的な心が私たちを救い出すことはありません。
人間以外の物質世界に愛すべき自己の特質は無いと断定することで、私たちは自然界と物質世界を愛の対象から外してしまいます。…思いやりのある愛は、あなたが私と全く同じように「自分」であるという認識から発するのです。
最後のシロサイが動物園で老いている世界は、必然的に、投獄、戦争、人種差別、貧困、生態系破壊の世界でもあります。このどれ一つも他の全てがなければ存在することは不可能です。全ては同じ不道徳なマトリックス(母体)の一部なのです。
「合成食品とコンクリートの藻類培養プールの世界で私たちは生き残れるだろうか?」は、間違った問いだと私は思います。もっと良い問いは「私たちは何になるのか?」「私たちは誰になりたいのか?」そして「私たちはどんな世界を選ぶべきなのか?」でしょう。
劣化した世界で我慢するという私たちの選択の前提条件は至る所に絶えず存在しているので、私たちはそれが現実そのものだと思っています。そのような諸々の条件が束になって、私たちが生きている「分断」の神話と体験を織りなしています。
動物の放牧と言われてあなたが想像するのは、おそらく牛や羊が点在する一面の草原でしょう。その光景は健康な生態系で見られるはずのものとは掛け離れています。健康な生態系には天敵がいて、野原いっぱいに散らばった羊は食べ放題レストランのようなものです。そのため草食動物は集まって大きな群れを作ることで身を守り、一つの場所で集中的に草を食べると次の場所へ移動を続けます。集中管理型輪換放牧はこれを模倣します。
再生型農業システムが上手く働くためには、他に同じもののない固有の存在として土地と関わることが農家には求められます。土地の求めるものや土地の気分を聴き、見て、感じなければなりません。…土地についての知識は一生をかけて蓄積され、何世代にもわたって蓄積されて、地域文化の一部となります。
私たちの社会を生態系の癒しと合致させるのは実現困難なことではありません。私たちの認知と優先順位と法律に変化が求められているだけです。物事を同じに保つために戦うことをやめ、私たちが自然に合わせるなら、自然が向かう先はホールネス(全体性)です。
地球が求めているのは、私たちの文明の根本的な優先順位を変えることです。地球が求めているのは、地球を聖なるものとして見ることです。地球が求めているのは、地球を生きているものとして見ることです。地球が求めているのは、私たちの文明と全ての制度をこの見方に従って作り直すことです。貨幣、政府、法律、技術…、全てが変わらなくてはなりません。それこそが、生態系の危機が本当に人類にとっての通過儀礼である理由です。
人類は地球という惑星の進化に貢献するため資質を委(ゆだ)ねられ愛に結ばれているのだという直感を無視することができるのは、生命は軌道を周回する岩石の上に偶然発生した生物化学的な膜だと私たちが理解している場合だけです。人類の生存は全く重要ではないなどと想像することができるのは、ガイアが一体性を持ち、意識を持ち、目的を持った生き物だということを否定した場合だけです。
魚や狩猟動物、野生植物から作った食物の途方もないほどの恵みと、そこからインディアンが怠惰な生活で食べているように見えたことに、白人移住者が目を丸くし、ジョン・ミューアが野の花畑の果てしなく広がるカリフォルニアのセントラル・バレーを輝かしく賞賛して書いたとき、彼らが実際に見ていたものは、何世代にもわたり丹精込めて世話を続け、洗練された庭園だったのです。
力を基にしたシステムは大量のエネルギーを必要とします。それが物理学の基本原則です。この取り組み方が急性の外傷のような多くの場合に極めて有効である一方で、ほとんどの慢性症状ではエネルギーを集中させお金を集中させる方法はホリスティックな方法に比べると全く劣っています。…人間の身体で正しいことは、生態系の体にも、社会の体、国家の体にも正しいはずだと、直感が私に語りかけます。
私たちの前にある選択を考える一つの方法は、価値観を量から質へ転換することです。数量化することは支配することであり、世界の無限の多様性を標準単位に落とし込むことです。世界を我が物にすることであり、私たちの尺度に従って整理することです。こうして世界を概念的に牢獄に閉じ込めることで、実際に世界を囲い込むことへの土台が作られます。残念ながら、あらゆる監獄社会で、監守は囚人にもなります。こうして私たちは「もっと、もっと、もっと」と際限なく求め続ける罠にはまってしまったのです。
人類が何を作り出すかは、私たちに着想を与えるビジョンと、行為に意味を吹き込む物語で決まるのです。様々な代替エネルギー戦略の実現可能性を議論することで、話の焦点と基になる物語は狭すぎる範囲に限られてしまいます。エネルギー危機は、それが関係する生態系の危機と同じように、私たちが支配から参加へのトランジションを実現するチャンスなのです。そのときエネルギーは量ではなく関係性の問題になります。
戦争と経済が引き起こす生存の不安と、女性の家父長制支配をともに終わらせることができれば、高い出生率は速やかに歴史の彼方へと消えていくでしょう。強靱な社会がバランスの取れた人口を維持するのは、強靱な自然生態系がバランスの取れた気候を維持するのと同じです。
合理的な利己心という教義は、人間にとって正しくありませんし、正しかったこともありませんし、これから正しくなることもありませんが、それこそが予言だったのです。企業はそれを現実化するための手段なのです。それは利己心というイデオロギーの頂点として現れたものです。
(「開発」の)イデオロギーが説くのは、お金と幸福は同じで、西洋のモデルに沿った発展は良いもので(あるいは必然的なもので)、ハイテクの生活は自然に近い生活より優れているということです。これらの前提に論理的な主張で反論するのは難しいのです。ふつう、それを捨て去るには、あまり開発されていない文化の中で時を過ごすことが必要で、そこで生きることの喜びと深さを経験し、近代化するとその美しさが損なわれるのを見ることが必要なのです。
私たちは、かつてないほど多くの物を持っていますが、その一方で、人間を深く養ってくれるものの多くは人為的に不足した状態が作られています。私たちには時間が不足し、美しさが不足し、親密さが不足し、本物のコミュニティーと自然への繋がりが不足しています。…私たちはこの永遠の飢えを「強欲」と呼び、それが現在の社会・生態系の悪夢の原因だとして激しく非難しますが、…強欲は欠乏の症状です。
生態系を破壊する経済システムは私たちをダブルバインド状態に置きます。一方の命令(個人の保身)に従うことは、もう一方の命令(地球への奉仕)に従えないことを意味します。その結果として起きる不快感が、偽善の中身である偽りの行為と自己妄想を促します。私たちはそうやってダブルバインドに対処するのが普通ですが、その前提をひっくり返す以外に抜け出る道はありません。
資本主義についての論争はどれも資本の性質に依存します。貨幣と私有財産はどちらも慣習によって存在します。それは物語であり、意味と合意のシステムです。物語は書き替えることができます。
再生型農業の驚くべき成果から垣間見える可能性は、私たちがこう考えるなら実現します。「大地よ、あなたが癒えたいと願っていることを私は知っています。どうやってお手伝いしたら良いか教えて下さい。大地よ、あなたが与えたいと願っていることを私は知っています。どうやってお手伝いしたら良いか教えて下さい。大地よ、あなたが最も高い目的をかなえたいと願っていることを私は知っています。どうやってお手伝いしたら良いか教えて下さい。」
私たちの根本的な枠組みと物語が解体し、私たちの「世界の物語」が解体すると、私たちに謙虚さという才能を与えてくれます。先住民の教えを、あたかも博物館の収蔵品や宗教的な収集品のように、ただ「先住民の知恵」という都合の良い壺に入れるのではなく、誠実に受け取るために私たちの目を見開かせることができるのは、この謙虚さだけなのです。
私たちの祈りを聞く者は、真剣ではない祈りにうんざりしています。私たちの文化では、あることを願っておいて、その願いとは正反対の行動を取るというのはよくあることです。 すると「聞く者」は疑問に思います。「あなたは本当にそうしたいのか? ひとつ確かめてみよう。」そして聞く者が作り出すのは、困難や挫折という状況で、願いを立てた者が本当にそうしたいのかどうかをはっきりさせる機会を与えるのです。
「相互共存(インタービーイング)の物語」に深く生きて、そこから一貫して行動できるようになるために、人々は何らかの助けを必要とします。その助けは直接体験という形でやって来ます。私たちはこの世界にある他の存在たちに無理やり本当の姿を現させることはできませんが、問いかけることはできます。問いかけるには、あなたの憧れに注目することです。生きている宇宙に再び加わり、仲間にしてもらうことへの憧れです。
変化の過程には見かけの停滞が長く続くことがよくあり、目に見える上部構造がこれまで以上に強く永遠に続くように見えても、その間に見えない構造が変化していきます。実際には、それは白蟻に蝕まれた建物のようなもので、崩壊は一夜にして起きるのです。
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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸