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末寺の末事 333
祖母の時代の仏事・法事では、各家庭や近隣の人々が支え合って、手間のかかること、大変なご苦労も、丁寧に大切に勤められていたことだろう。
考えてみれば、現代ではそういったモノゴトが、須らく会館やホテルや料理屋といったプロの仕事に代替えされて、経済で解決するという手法が選択されるのが常である。
そうして解決しているのは、何か?
それは『気兼ね』じゃないだろうか。
助け合ったり、支え合ってきた人たち、更に最も近しい存在の家族にも『気兼ね』しないで済むようにしてきたのではあるまいか。
初めのうち、それは遠慮や忖度だったのかもしれない。いつしか『気兼ね』して『気後れ』して『気に病む』ようなことは、極力、減らすようにしてきて、『気』が付けば、自分に降り注がれる慈愛や恩徳まで、『気』のせいにしているような『気』がする。
感謝が解らない、反省ができない原因はそこにあるまいか。
to be continued
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