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末寺の末事 92
なのに、その物語をもう一度知識の分野に引き戻して解釈しようとしたりして、信じる心を頭で解ろうなんてナンセンスだし、無駄なんだろうな、たぶん。
やっぱり満足も安穏もフワッとしたままで、心はスパッと解るものじゃなくして、ジワッと感じるものなんでしょう。で、そのジワッとがジワジワッと沁みて、滲んで、心の器の許容量を超過した時、溢れてくるのが感謝なのかな。
長嶋茂雄さんの擬音多用解説みたいになっちゃうのが物語るポイントなんだろうな。人柄やその行為とかが前提で伝わるワケで、そこに同じ言葉ってないんだよね、同じ言語なのに。
信じるって、そうゆうものだろうし、そこにフワッと満ち足りて穏やかに安らぐものが伝わらないと、申し訳ないな、勿体無いな、有り難いなって、心に謝を感じることも難しいよね。
感謝して始末をつけてゆくって、全部、自分の為に戴いてゆく、受け摂ってゆくって感じ。
to be continued
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