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観諍論

 国家レベルや民族間などで発生する確執的ないざこざ・ごたごた。そこまでのスケールではなくとも似たような事案なら、意外と身近にも潜んでいたりして…。

 往々にしてこの手のトラブルとは解決に時間を要するものですが、この時間がかかるタイパの悪さが意味するところは、「忘れる」とか「風化する」といった、いわゆる「時間が解決する」解決法であり、善し悪しは別として非常に消極的なアプローチであることは間違いないと思われます。更に、本当のところは果たして解決したと評価してよいものかどうかすらが謎だったりもします。

 意図的に解決の長期化を謀った場合は、その背景に何らかの理由がありそうなものですが、案外、大した意味のない場合も珍しくはないのかもしれません。利害関係や損得勘定に歴史的怨恨まで縦横無尽に絡めて複雑化させたりしていますが、蓋をあけたら「面倒臭い」の一言で片付いたりして。「君子危うきに近寄らず」で平和的解決のようなイメージは、問題の長期化や先延ばしが、解決法として常套化される所以でもあるのでしょうね。いや、むしろ最善策として選択されるケースも、実際に少なくはありませんよね。
 当事者同士がその場限りで解決し得なかったトラブルは、確実に尾を引いて問題解決の困難化を増長させるものですが、これがスパイラル現象で更なる「面倒臭い」を発生させ、解決の長期化をより強化したり、安定的なものにしていきます。「面倒臭い」のSDGsです。
 とは言え、その「面倒臭い」を精神論や偽善ではね除け、早期解決の道を強引に進むとしたなら、争い事・揉め事の火種となることは火を見るより明らかです。過剰なくらいの慎重さが求められます。よって、結局は長期化します。

 このようにして、世の中の問題の大半の部分が成立してしまっている以上。いざこざとか、ごたごたの類いは、基本的に長期化する宿命にあり、それが抗いようのない現実であるとするなら、藪の中にあって叩けば埃もでるし、腫れ物扱いされ疎まれるような事象も、至極自然な出来事でしかないのかもしれませんね。それが本来あるべき姿、本質、本性という悲しい現実といえるのかもしれません。

かつは、「諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離(ちしゃおんり)すべき」よしの証文そうろうにこそ。

歎異抄 12

 仏教では、そんな争いの場から離れる意味を含め、「智者遠離」という言葉が用いられたりしますが、これは「君子危うきに近寄らず」とニュアンスが若干異なり、遠ざかって広い視野で物事を捉え直すべきとする教えです。安全な距離感を保ったうえで、多角的な方向から解決の糸口を模索する姿勢。あくまでセーフティーゾーンで身も心も自己防衛したうえで、他人事としてスルーするのではなく、逆に問題を我が身に当てて考えると優しくなれたり許せたり。

 マザー・テレサは「愛の対義語は憎しみではなく、無関心である」と言われたとか。まさに「無関心」故に「面倒臭い」のです。しかし、「面倒臭い」から「無関心」なのか?タマゴが先か、ニワトリか?「愛」とはなかなか不可解なものです。人間の「愛」は特に…。

 ただ、都度人生に勃発し得るいざこざやごたごたの解決に、十分な時間や距離を要する狙いとは、単に長期化させる目的ではなく、余裕を持って関心を高める為。それは相手への慈愛を深める為。それを「忘れ」「風化」させた時。かつての「愛」は「憎しみ」の感情すら芽生えさせるのかもしれません。

 人間はコンピューターじゃありません。感情の処理速度は「ゆっくり」が「自然」です。
 時には「忘れ」てしまいたいこともあるかもしれません。でも、せめてこの限られた生命のある刹那くらいは、「慈しみ愛された」生命の記憶を大切にしたいものです。

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