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末寺の末事 354

 当番は『施主』と呼ばれる。施し側の家庭の主だからだ。施される側は客人。場所は末寺。僧侶による法要が営まれ、その後、『お講』・『お斎』で心ばかりの『お・も・て・な・し』が施される。実は、この表無しの裏が肝。
 施主は単なる罰ゲーム当番ではなく、自動的に客人に『法施』(仏縁を振る舞う)の布施行が成立してしまう有り難い役割り。
 また客人は、取られ損回収のつもりが、仏法聴聞の機会を与えられ阿弥陀さまに救い摂られてしまうという心憎い演出だ。

 …と、これらは日頃から聴聞して、『布施』を理解している人以外には机上のWin-Win。
 だからだ。ボランティアではやりきれない。ギブ&ギブがわからない。テイクのない関係性に辟易なのは、聴聞不足の証明とも言える。
 仏教とは『実践行』であって、『知識』ではない。種をまき水をやって、花が咲き実となる習い。『因縁果』を知るだけでは覚れない。

to be continued



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