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末寺の末事 345

 浄土教、浄土真宗、七髙僧を誉め称え、法然を師と仰ぐ親鸞は、ぶっ飛んでる。
 『信心』ひとつですくわれてしまおうというのだから、究極のミニマリストだ。しかもその『信心』すら、自分でおこそうと努力して修行しておこす『信心』じゃアテにはできねーってんで、阿弥陀さまの方で完成させてくださった『信心』を戴くって寸法だから、サステナブルな話ですよ、まったく。で、阿弥陀さまに戴く戴きモノの『信心』だから、『信心』の前に『ご(御)』をつけて『ご信心』って徹底ぶり。『ご信心』を頂戴したからには、何もお返しができない我々でありますけど、せめてお礼だけでもさせてもらおうっていう『念仏』なんですが、この『念仏』こそ、阿弥陀さまが五劫もの永き苦悶の思惟の末、何にもできないどころか悟りの邪魔になることしかできない我々が唯一修めることのできる行として、与えられた声の仏さまだから『お念仏』。

to be continued



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