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鏡に映った世界と現実世界のことを思う


コンピューターグラフィック(CG)の絵も、鏡への映りこみを表現できます。
不思議だなあと思うのは、鏡に映った世界って、右と左はひっくり返ってるのに、上と下はそのままなんです。なんで?

「だってそうゆうものでしょ」、
確かに。


車を運転していて、バックミラーに映った後ろの車が左のウインカーを出したとします。
僕は一瞬で、ああ、後ろの車に乗っている家族は、左に曲がって今からイオンモールに行くんだなって分かるわけです。


あれ、でもバックミラーって鏡だから、後ろの車のウインカーは左と右がひっくり返っているはずなのに、何で一瞬で左に曲がるって分かったんだろう。


ここでちょっと時間を巻き戻して、再現しながら考えてみます。


後の車の運転手さんは、道路の左側にあるイオンに行こうとして左側のウインカーを出した。
現実世界の運転手さんから見て、自分の車の左側のウインカーが点滅している。

僕の車のバックミラーに映った後ろの車も、たしかに左側のウインカーが点滅している。鏡に映っているのに。
どゆこと?
僕は後ろを振り返って、自分の目だけで確かめた。



振り返った僕が見る後の車は、イオン側のウインカーが点滅しているけど、僕から見て左じゃなく右のウインカーだ。あ、イオンも右にある。
あれれ。これってあたりまえのことなんだっけ。
ゲシュタルト崩壊的なやつ?


そうか、現実世界で後ろを振り返ることは、視点を180度変えることだから、意識の中で右と左が逆になったわけか。
つまり、バックミラーに映った画像は、自分の背後にある車を、自分の全面にあるスクリーンに投影したもので、クラック調査でいうところの、「見上げ図」と「見下げ図」の違いか‥、(よけいにわからんわ)

それは意識の問題なのだといいたいわけね、
なるへそ。


僕らの視覚の処理がそうゆう風にできてるから、CGソフト内の光の計算も、人の脳みその中で行われているであろう神経回路の処理をまねているんだろうな。
左右にある2つの目から入ってきた光が、レンズ効果で上下左右さかさまに網膜に映った画像を補正して認識(解釈)するという、面白い処理の一部を。
すごいね。

そのCGで描いた絵を僕がまた見ている。



もうひとつだけ。
鏡に映った自分を自分が見ているシーンを想像してみてください。



動作を一つだけします。右手を上げてみましょう。
右手を上げたまま質問です。直感で答えてくださいね。
「鏡に映ったほうのあなた、が上げている手は、右手ですか、左手ですか?」

1)  鏡の中の自分はこっちを向いているから、上げているのは左手です
2)  自分のほうから鏡の中の自分を見て、右側の手が上がっているから右手です(実際上げてるのも右手だし)

答えは知りませんが(知らんのかい)、体育会系理系の僕は、
・ 絵として考えると、上げているのは左手、鏡に映ってるんだから左右さかさま。
・ 事実として考えると、上げているのは右手だから右手、現実にそうなんだから。
というふうに考えます。
つまり解釈(真実)しだいで、どうとでもいえちゃうんです。
ハイ。

解釈というのは、解釈する人にとって「真実」そのものなので、真実は人の数だけあります。
事実はひとつといわれています。
(ここ、ととのうくん)


鏡に映った世界を考えるということは、物理現象というよりは心理哲学みたいなことを考えることなんじゃないのかなあ。



触れることができない、左右だけひっくり返って見える世界。
つるつるピカピカの板に映っている鏡の世界はただのマボロシなのか。

合わせ鏡に映りこんだ僕の列は、背中合わせになったまま、どこまでもどこまでもつづいている。


そもそも、僕たちが住んでいる世界そのものがマヤカシなのでしょうか。