読む長澤まさみ講談『ワクチン〜ビューティフルマインド』
『ワクチン』
「先生、すっかり良くなりました。ありがとうございます」
患者さんから、こう言われるたびに、医者になって良かったと思う。その病の大小に関係なく、苦痛に歪んだ患者さんの顔に、笑顔が戻る瞬間は、何度見ても、医者である僕を至福の思いに浸らせてくれる。それ以上の悦びはないと思っていた。特にコロナが流行してした今、特効薬は未だになく、発症しても多くの患者さんは経過観察するしか手がないのだから、患者さんやご家族の不安だけではなく、我々、医師もやるせない日が続いている。近頃、ようやくワクチン接種が進み、私もそのワクチンを担当させてもらうことになった。副作用の不安を口にする人も多いが、それよりも、重症化、死亡リスクを減らすことへの安堵に、表情を緩ます人が多く、筋肉注射は単純な治療の連続性だけど、私的にはやり甲斐のある仕事だ。
「次の人」
と声を掛けると、
「はい」
と口舌爽やかな声とともに、シャッとカーテンが開くと、カツカツとヒールの音を響かせて入ってきたひとりの女。煌びやからなラメ入りのボディコンは、見事に肢体の曲線を浮かびあがらせる。その姿を思わず、僕は爪先から見上げていくと、美しく長い脚、緩やかな曲線美に、胸もとこそ露出はなくとも、肌の美しさは両の腕の眩い白さに見惚れてしまう。さぞ、美しい女性であろうと、顔を眺めると、
「な、な、長澤まさみー!」
目玉ボーン、鼻血プッシャー、アドレナリンどばーん、毛孔全開、下半身ヒヒーン、両脚ガクガク…
「キレー、キレすぎるぅぅぅ」
長澤まさみが今、私の目の前に腰を下ろした。お、おい、良いのか長澤まさみを、こんなパイプ椅子に座らせて、ダメだ、さっきまでただのパイプ椅子だったのに、長澤まさみが座った瞬間、それは世界で一番神々しい椅子に変わってしまった。今すぐ、この椅子を密閉して持ち帰りたい。それは職権乱用なのか、窃盗か。いや、パイプ椅子くらい十脚でも二十脚でも買ってやる。このパイプ椅子がほしいー。長澤まさみがこっちを見てるー。
「先生、これ」
看護師が私に声を掛けて、目の前にワクチンの入った注射器を見せた。こういう場合、何か言うべきか、知らぬふりをするのが真摯なものか、だけど、話しかけたい、声を聞きたいというのがひとの性だ。
「医師の近藤です。楽にしてください」
別に名乗る必要はないのだが、こんな機会は滅多にないから、名乗ってみたら、左の肩を僕の方に向け、目に少しの不安を浮かべながら、
「近藤先生、痛いんですか」
な、長澤まさみに名前呼ばれたー。めっちゃええ人、心づかい細やかな人、惚れてまうやろー、目はハート、心臓バクバク、頭のなかでは、
「ここで抱きついて、一生棒に振っても構わんけど、長澤まさみに嫌われるのは辛い」
人生で最も難解な選択を迫られたが、私は医師として、長澤まさみさんをコロナから守る大役の一翼を担うべく、
「私の時は痛くなかったです。大丈夫ですよ」
と長澤まさみに言った。注射を右手に持ち、やおら、長澤まさみの左肩付近に刺そうとしたとき、
「左手添えちゃえよ」
と私の下心が茶化す。私は思った。そうだ、私は長澤まさみに触れることは、何らやましいわけではない。安全の面でも添えた方がいい。しかし、肩から指先まで、長澤まさみの左腕はむき出しになっている。触っていいのか。悪いわけはない。他の患者なら意識なく触っている。変に意識をする私が悪いのだ。長澤まさみの左肘に私の小指が添うようにして、少し柔らかみのある二の腕に手を添えた。
肌の温もりは、まだ私の手にほんのりと残っている。
長澤まさみにワクチン打った医師、うらやましいなぁ。
聴く長澤まさみ講談『ワクチン』
https://youtu.be/PwQplro590g