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読む長澤まさみ講談『生脚〜ビューティフルマインド』

『生脚』

 女の生脚が嫌いだ。特に美しければ美しいほど、僕はある思い出とともに吐き気を催してしまう。僕が田舎の高校生だったころ、卒業したら、すぐにでも都会に出たくて、新聞配達のアルバイトをはじめた。販売店の社長にそのことを相談すると、
「山ひとつ越えた村に配達してくれるなら、給料増やしてやる」
と言うから、夜中2時から、僕は自転車に乗って山越えの宅配をした。山を越えるまでに、一軒たりとも家はなく、もちろん電灯さえが数えるほどしかなく、周りは闇に包まれる。自転車のか細いライトだけが頼りだった。
 ある日、そんな山影に真っ白なものが見えた。決して、光っているわけでもなく、何かに照らされているものでもない。きのうまでは間違いなくなかった。あまりにも、周りが暗すぎるがゆえ、その白い物が際立って見えたのだ。僕はなにげにブレーキを握って、自転車を停めた。夜の山ほど怖いものはない。正体の分からない動物の鳴き声や、風の強い日に揺れる木々の音は、時には悪魔の嘲笑かのような不気味さを感じる。でも、男がある世界は、何かしらの生、生きていることを感じるが、一番怖いのは静寂だ。生はもちろん、時すらも感じなくなる。たった一人の世界ではという孤独さほど怖いものはない。だから、この山を登り降りするときに、ブレーキもかけず、いかにきつい勾配の坂でも地に足を下ろさずに漕ぎつづけていた。でも、何の興味だったか、その白い物体の正体を知りたくて、僕は自転車を止めた。後悔にすぐに襲われた。
 恐る恐る近づきながらも、側に寄るまでもなく、その正体は一目瞭然。暗闇に浮かび上がるは2本の脚。透き通るような白い肌、膝下は驚くほど長く、爪先まで物差しで線を描いたかのように美しく伸びる。短い丈の服のせいか、両の内腿までが露に晒されていた。女の脚だと直感したが、それから上を確認する勇気はなく、抜けそうなコシを辛うじて、抜かすことなく慌てて自転車に飛び乗った。そこから一気に、下り坂でもペダルを踏んで隣村の交番に駆け込んだ。
「山で女の人が」
 仕事を後回しにして、お巡りさんに状況を説明して、交番から販売店に連絡を入れた。僕は初めてパトカーに乗って、あの場所にお巡りさんを連れて行った。だが、いくら探しても、そこに誰かが横たわったような痕跡は見つからなかった。いずれにせよ、見てはいけない物を見てしまったのだ。あれ以来、ぼくは美しい女の生脚に怯えて生きている。


聴く長澤まさみ講談『生脚』
https://youtu.be/AcytW3UivU8

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