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読む長澤まさみ講談『新居〜ビューティフルマインド』

『新居』
 
地方への転勤が決まった。妻は都会が好きだ。きっと残念がる。もしかしたら単身赴任もないとは言えない。
「お帰り」
 妻のこのひと言と笑顔が、どんなに嫌なことがあっても忘れさせてくれる。僕は同僚たちに「付き合いが悪い」ってよく言われる。宴席は嫌いではないし、昔はよく二次会三次会とはしごして、キャバクラにも行っていた。でも、結婚して、まったく行かなくなった。理由は妻だ。僕の人生において、妻より美しい女性は見たことがない。以前、街で新垣結衣を見たことがあるが、妻の方が断然に美人だと思った。今日は転勤が正式に決まり、同僚が激励会に誘ってくれたが、とても酒を呑む気分にはなれなかった。早く妻にこのことを伝えて、着いてきてくれるのかどうかの答えがほしい。
「ご飯、出来てるよ」
 食卓には僕の大好物のトンテキが並んでいる。いつ切り出すかばかりを考えていて、トンテキを味わうことさえも出来ず、会話も上の空だった。結局、食事中に切り出せず、風呂上がりに晩酌するときも言い出せなかった。ベッドに横たわり、
「おやすみ」
と妻が部屋の電気を消したときに、
「あのさ、実は、転勤を命じられた」
「へぇ、どこ?」
 あまりに味気ない返事に、僕は覚悟する。妻に都会の暮らしは捨てられない。行き先を伝えると、妻はスラスラと、その土地の名物名産名所を答えた。
「よく知ってるね」
 僕が感心して聞くと、
「うん。支店のある町は調査済み」
「じゃあ」
「えっ、もしかして単身赴任させると思ったの」
「だって、都会が好きだろ」
「うん。でも、あなたのいる街には及ばない。一緒に行くに決まってるでしょ」
 こうして僕たち夫婦は、長閑な田舎街に移り住むことになった。借りた家は、会社からは少し遠いが、真っ白な外壁で、屋根の尖ったおとぎ話に出てくるようなかわいい家で、
妻はその屋根の天窓が、
「毎晩、あそこに星を眺めながら寝るなんてロマンチックだね」

 都会と違って、周りに灯りの少ないこの街なら、さぞ星空はきれいだろう。
「我が家がプラネタリウムになるね」
妻がたいそう気に入ったので、迷わずそこに決めた。最初の春、ご近所ともうまくやっているようで、きれいな桜並木もあり、もちりろん、星空も抜群で、都会では味わえない自然な営みを満喫していた。初夏のある日、その日は観測史上最速の猛暑日になると、天気予報でも注意喚起するほどの酷暑だった。家へ帰ると、妻はお気に入りのラメ入りの服を着て、自らの右腕を腕まくらにして、壁にもたれかかるように横になっていた。僕は具合でも悪いのかと心配になり、
「どうしたの?」
と駆け寄ると、弱々しく左手で天井を指差して、
「天窓…」
「天窓がどうした?」
「カーテン着けて」
「星そらが見えなくなるよ」
 妻は大きく頭を振り、
「暑さで死ぬわ」
 話を聞くと、真っ昼間、陽が燦々と天窓から降り注ぎ、クーラーをつけようとも一向に効かないそうだ。とはいっても、天井は遥かに高く、一体、どうやって天窓にカーテンを張るのか、夏の到来までに解決せねばならない。

聴く長澤まさみ講談『新居〜ビューティフルマインド』
https://youtu.be/VJKoIk_xo5Y

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