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「夢華録」の覚え書き(二)

(一)からの続きです。

欧陽旭

中国人の姓は多くは一文字ですが、少数派として二文字の姓もあります。これを複姓と呼びます。欧陽は比較的由来が古く、人口も多い複姓なのだそうです。北宋の有名人だと政治家・文人の欧陽脩がいます。
欧陽旭は科挙の最終試験である殿試で三位合格となり「探花」と呼ばれます。一位合格の「状元」二位合格の「榜眼」とあわせて大変な名誉を得たことになります。ただし三位合格を探花と呼ぶことになったのは北宋後半なのだそうで、北宋中期が舞台であるようにも見えるこのドラマで、時代考証が正しいのかどうか、ちょっとわかりません。科挙については宮崎市定先生の『科挙』がとても良い概説書です。

海禁

銭塘の鄭青田が海禁を破って密貿易で私腹を肥やしているとの通報があり、その件を調査するために顧千帆がやってくるわけですが、「海禁」という用語は多くの場合、明代の海上鎖国政策を指す言葉です。宋代にも使う言葉なのかどうか、ちょっと疑問ではあります。

宋銭

宋代には経済活動が活発化し、それにあわせて貨幣経済が進展しました。宋代貨幣の主力は銅銭で、穴の空いた銅銭に紐を通して一千枚で一貫、ただし実用的には960枚で見なし一貫としたそうです。
中国の銅山は宋一代で掘り尽くされたともいいます。海禁という言葉はともかく、銅銭の流出を防ぐため貿易船の動向には目を光らせていたのですが、いわば東アジアの基軸通貨ですから、どうしても流出します。日本の古銭市場で宋銭はあまりに数が多いので値がつかないと聞いたことがあります。
非常に高額の取引は金銀で行なわれました。
ちなみに四川では鉄銭が使われ、重たくて不便なので紙に書いた信用手形が使われ、やがてこれが貨幣の代用品となりました。つまり紙幣の誕生です。南宋のころには四川ばかりでなく各地で紙幣が使われるようになったそうです。

参知政事

蕭欽言の邸宅が初登場するとき「参知政事」と書いた提灯が下がっています。宋代の副丞相のことです。通称「執政」。丞相である同中書門下平章事(宰相。通称「同平章事」)を補佐して国政の中枢に参与します。どちらの役職も二人または三人で勤めることが多いので、あわせて四人前後の指導部集団ということになります。ただし最終的な決裁権を有するのは皇帝だけで、これを皇帝独裁と言います。

蹴鞠

池蟠が初登場のとき蹴鞠の回数を趙盼児と競います。水滸伝全編を通しての敵役である高俅は蹴鞠の技を端王(のちの徽宗皇帝)に見込まれて出世します。宋代には娯楽としての蹴鞠が一般化していたということなのでしょう。
池蟠は池衙内と呼ばれています。衙内とは官僚の子弟を呼ぶ言葉なのですが、ここでは単に「お坊ちゃん」という意味で使われているようです。水滸伝では高俅の養子、高衙内が林冲の夫人に横恋慕したことから悲劇の林冲故事が始まりました。ドラマとあまり関係はありませんが、そんな連想も働かせつつ鑑賞すると面白さが増すように思います。

モンゴル方面から興った契丹(キタイ)の征服王朝。唐滅亡後、五代の混乱の間に割譲を受けて中国内地(河北省から山西省の北部一帯)を領有し、宋と対立する。宋の第三代、眞宗の時に和睦し、遼は宋を兄とし、宋は遼に毎年財貨を支給する取り決めを結ぶ。これ以降、基本的に両国間には平和が続くのですが、互いに密偵の潜入を図るなどのことは行なわれたのでしょう。
最終的に満洲から興った女真族と宋との挟み撃ちに遭って滅亡しました。

西夏

チベット方面に興った党項(タングート)が建てた王朝。国号は大夏ですが、古代王朝の夏と区別するために西夏と呼ぶのが普通です。
宋と遼との対立に乗ずる形で自立し、後に宋とは和睦しますが、最終的にモンゴルに滅ぼされました。
顧千帆が西夏の間者を拷問するところから見ると、ドラマの時代は仁宗皇帝のころを念頭に置いているのかとも思われますが、まだ確定はできません。

濁流、清流

宋代は官僚の派閥争いが激しく行なわれた時代です。党争といいます。有名なのは旧法党と新法党との争いですが、それ以外にも派閥争いが政治の足を引っ張った例は幾つもあります。
ドラマでは濁流派と清流派との争いが背景要因として描かれます。この言葉がしっくりくるのは宋代よりも後漢末でしょう。官僚が自らを清流と称し、宦官および外戚を濁流と呼んで非難したもので、濁流の怒りを買って党錮の禁という弾圧事件を引き起こしました。

黄老の学

漢代以降の中華帝国は基本的に、
・表向きは儒学を国教とし、皇帝の徳によって政治が行なわれる
・実体としては法家思想。条例と前例とによって統治する(ただし円滑な統治のためには袖の下がつきもの)
・宮廷内部での精神生活を支えるのは仏教または道教
といった多層的な思想構造で維持されました。不老長生をもたらす道教は黄帝ならびに老子の教えというわけで黄老の学と呼びます。
官僚は儒者ですので少なくとも公の場では儒家の立場から皇帝の徳を讃えなくてはなりません。欧陽旭が皇帝の歓心を買おうと道書の文句をそらんじて悪評を招くのは守るべき建前を踏み越えたからということになるでしょう。

鹿腿

于中全を成敗した顧千帆は蕭謂のもとに鹿腿つまり鹿の脚を送りつけて恫喝するわけですが、これが分らない。典拠でもあるのかと調べたのですが、今のところ発見できません。
中国人も困惑したらしく、ネットの知恵袋に質問が寄せられています。一応もっともらしい回答は「鹿腿とは婉曲表現で、あれは于中全の脚だ」というものなのですが、どうですかねぇ。人の脚って、これは誰の脚と見分けがつくものでしょうか。蕭謂が一目見ただけでそう親しいわけでもない于中全の脚だと看破して顧千帆の意図を読み取るという筋立ては合理的でしょうか。当面は謎であります。

(三)へ続きます。

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