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八杉さんが遭遇した広島の閃光

1945年8月6日午前8時15分
人類史上初めて都市への核攻撃が行われました。
テニアン島の基地から飛来したB29エノラ・ゲイ号により投下された原子爆弾リトルボーイは20万人もの命を奪いました。

私も広島県にある平和記念資料館へ行ったことがありますが
壁に影だけを残して亡くなった方や被爆直後の地獄の様な光景再現展示など今でも思い出すと身震いするほど凄惨でした。

以前紹介した戦艦大和元乗組員の八杉康夫さん

八杉さんは戦艦大和の最期と言う地獄から生還した後、広島へ戻り本土決戦に備えた自爆部隊に配属され訓練を行う上官として着任していました。
原爆が投下された当日は市街地から離れた軍の施設にいましたが、閃光と爆音、そしてキノコ雲を目撃

八杉さんは頭がよく、横須賀にあった海軍の砲術学校にて機密内容を含む軍事兵器について学んでいたのですが
その時「マッチ箱程度の大きさで戦艦大和を粉々にできる新型爆弾が開発されている」話を聞いていた為、翌日駅の復旧作業の為爆心地へ来た時にこれがあの時に聞いた新型爆弾に違いないと思ったそうです。

余談ですが、当時原爆は日本も含めて各国が研究・開発を進めていましたが、アメリカの人材と予算の投入具合には遠く及ばなかったと言う話

話を戻して、八杉さんは重油の海とはまた違う地獄に遭遇します。

八杉さんの部隊は広島駅の復旧の為作業を行いますが、「救助活動をしてはならい」事になっていた為、助けを求める人には赤十字の救護所を指すことしかできず。
遺体も雑に扱い、死者への尊厳などない状況でした。
8月8日に数人の部下を連れて市内の偵察と状況確認作業を命じられ、現原爆ドーム周辺にいた時突然右足を掴まれます。
みると少年が両手で八杉さんの右足を掴んでおり弱々しく「兵隊さん水をください」とせがみます。
水筒には水が入っていたしたが「重症者に水を与えると死んでしまうため与えてはならない」と教えられており、前述した負傷者を救助してはならない命令もあり
「待っておれよ、また戻ってくるからな」と言って立ち去ります。
八杉さんがその場所に戻ることは二度とありませんでした。それはきっと亡くなるまでその場所には行けなかった事でしょう。
著書の中でも「もう、生きられないなら最期に水をあげたらよかった。反省することはたくさんありましたが、後悔したことは後にも先にもこの時のしかありません」と記しています。

あらかじめ原爆の存在を知り、被災地で軍人として体験した内容は大和の最期とはまた違う胸にくるものがあります。

8月中なかなか書けなかったので時期関係なく書ける時に書いていきます。

2024年8月30日執筆

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