特撮の神様は七夕に生まれた
今から123年前の7月7日、福島県で圓谷英一が生まれた。後に特撮の神様と呼ばれる男、円谷英二その人である。
まず前提として「特撮」とは
特殊撮影技術の略でSFXとも呼ばれます。
定義や様々な手法がありますがここでは"実際には存在しない架空の映像"を作る事を指します。
円谷英二(以降監督)は幼い頃、飛行機に興味を持ち、操縦士に憧れた少年でした。
15歳の時、家族の反対を押し切りその年に創設されたばかりの日本飛行機学校の第1期生となります。しかし、翌年整備不良による練習機の墜落事故が発生するなど不運が重なり学校は活動停止状態となったため監督は空への夢を絶たれ退学しました。
退学した後は現在の東京電機大学の夜間部を卒業、在学中から働いていたおもちゃ会社にて監督が考案した2つのおもちゃがヒット
多額の特許料を得た事で職工達を引き連れ飛鳥山に花見に行った際、職工達と隣席者で喧嘩が勃発、メンバーでは若い監督が仲裁すると喧嘩相手の1人から認められます。
その人は枝正義郎、多くの映画監督やカメラマンを育てた日本映画界の先駆者です。
運命的な出会いを果たした監督は映画界へ入りカメラマンを目指しました。
1920年には飛行機による空中撮影をみんな怖がって引き受けない中、空に憧れた男である監督が名乗り出て1人で成し遂げた事から、短期間でカメラマンへ昇進
20歳に兵役に就き、2年後退役
祖母から実家の家業に戻る事を打診されますが、断り再び映画界へ
31歳の頃、名前を現在も知られる円谷英二へ改名。改名した理由諸説ありますが、英一から英二にしたのは幼い頃、兄の様に尊敬していた5歳上の叔父が一郎だったため、英二と名乗った話が有名です。
翌年には監督の人生に大きな影響を与えた作品「キング・コング」が公開。思わずパンフレットを握りつぶしてしまうほど衝撃を受け、独自にフィルムを取り寄せて分析・研究をしまさした。
太平洋戦争が始まると、戦争映画「ハワイ・マレー沖海戦の特撮を担当。
機密情報に該当する理由で軍艦等の資料はほぼ無しと言うスーパー縛りプレイを要求さるも少ない資料から模型を作り、真珠湾の海を寒天で再現するなど監督のアイディアが冴え渡り、映画は大ヒット!
あまりにもリアルに観えたため、作品を観た連合国軍側の関係者が本物の映像と勘違いする程でした。
戦後は「戦中に教材・戦意高揚映画制作に加担した」として公的な立場で仕事ができなくなり東宝を依願退職します。
このフリーの期間中、北海道釧路出身で映画音楽を手掛けていた作曲家:伊福部昭氏と出会うのはなんと言うか縁ですね。
後に東宝へ復帰、53歳の時に田中友幸プロデューサー(以降:田中P)によって「G作品」の企画が立ち上がる。
1954年のビキニ環礁で行われた水爆実験により日本の漁船、第五福竜丸が被爆した事件を受け「ビキニ環礁海底に眠っていた恐竜が水爆実験の影響で目を覚まして日本を襲う」と言う内容
監督が以前企画した「大蛸が東京を襲う作品」も草案の一つでG作品でも日本を襲う怪獣に大蛸を推したが却下される。
田中P題名と名前で悩んでいた頃、"ゴリラ"の様な風貌で"クジラ"が好物だと言う東宝演劇部部長綱倉志朗氏の話を聞くとゴリラとクジラを合わせて語呂がいい「ゴジラ」と決定。
まさか今日まで怪獣の王として君臨するビッグネームになると誰が思っただろうか
本作品のメイン監督には円谷監督が復帰後によくコンビを組んでいた本多猪四郎、音楽には伊福部昭と製作陣の役者が揃って行く。
最初はキング・コングに習い人形をコマ撮りする技法が検討されたが、あまりにも時間がかかるため、監督は着ぐるみを使用した撮影を考える。日本映画で初めて火だるまになるスタントをこなした役者中島春雄氏に「人形だったら7年かかるが、お前がやってくれたら3月でできる!」と口説いて参加してもらった。
監督のアイディアとこだわりが炸裂し、若いスタッフ達と様々な困難や前例の無い作品作りに四苦八苦しながらも「ゴジラ」が完成。
空前の大ヒットとなり、海外版も公開された事でその名は世界に轟かせた。
翌年の「ゴジラの逆襲」にて"特技監督"の肩書きが付き「地球防衛軍」「モスラ」「空の大怪獣ラドン」をはじめ数多くの作品で特撮を担当して"世界のツブラヤ"としてその名が知れたっていく
64歳の時に特撮を担当した「太平洋奇跡の作戦キスカ」ではリアルな艦船シーンを手掛けて実写なのか特撮なのかと議論される程、怪獣以外でも手腕を発揮。
翌年には映画制作並の予算を注ぎ込んだテレビ特撮番組「ウルトラQ」が放送開始、後に多くの沼ったオタク達が生まれる怪獣ブームを引き起こすと、第二弾として「ウルトラマン」が放映
円谷英二の名はお茶の間まで知れ渡り、この頃にはもう「特撮の神様」と評されていました。
有名なエピソードでウルトラマンなどの撮影時、特撮がわかってしまう映像を作ると、該当者が他のスタッフに釜飯を奢る罰ゲームをやっていた事から「釜飯カット」の発生にはスタッフも戦々恐々
おかげで模型を吊るピアノ線がわからない様に逆さまに吊るして撮影して画面を反転させるなど多くの手法が生まれました。
溶ける模型を蝋や鉛で作る、風で壊れる模型ウエハースで作る、など様々なアイディアと作品制作にかける情熱は同じ時代を生きていた漫画の神様:手塚治虫氏に通じるものを感じます。
手塚先生の有名なエピソードで長男の眞さんがウルトラQに夢中で同じ時間に放送していた手塚先生製作のアニメを観なかったため、奥様が気を利かせてそちらを観るように促すと手塚先生は「いや!好きな物を見せてあげなさい!」と珍しく声を荒げてしまう一幕がありました。
どっちかと言うと手塚先生は円谷監督にはジェラシーを感じていた事でしょう。
監督は「怪獣島の決戦ゴジラの息子」の頃に「特技監修」として長年カメラマンとして参加していた弟子の有川貞昌氏に特技監督の座を譲ります。
1969年に大阪万博、三菱未来館のサークロマ撮影のために鳴門の渦潮を訪れていた際に倒れ入院。
翌年1970年1月25日、静岡の別荘にて静養中に68歳でその生涯に幕を下ろしました。
ざっと円谷英二監督の生涯を書いてみました。抜けている場所、間違っている箇所などがあれば出典元も含めて教えていただけると幸いです。
普通、怪獣やヒーローの中に人が入っていると言ったら夢が壊れると言いますが
私は小学生の頃、ゴジラ制作を取り扱った「プロジェクトX」がきっかけで特撮を知り
あの世界を作り出す世界にも夢中になりました。
世界的クリエイターである庵野秀明監督の様にその道に進む事はありませんでしたが
当時から今に至るまで変わらない特撮愛はこうした裏側まで好きだったのかなと思っています。
七夕の日に、偉大なる円谷英二監督に想いを馳せた長文駄文でございました。
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます!
2024年7月7日執筆