妻との喧嘩から学ぶ、価値観の違い
どうも。前回めちゃくちゃに自分が見るための自己紹介を書き殴ってたんですが、その続きみたいなもんです。
よく僕は流れてくる時事ネタに対して若干の深掘りをして事実的背景を確認するタイプなんすよね。
で、実家に住んでた時は、朝ニュース番組で報道される内容が既知の場合、「この時事ネタにはこうした背景があって、僕はこう思うんだ」って母親にアウトプットしてました。
僕の母親は、こうした僕のメディアを捕捉する形のアウトプットを喜んで聞いてくれるタイプで、
「すごいな〜」
「へぇ、そんなことになってんねや」
「ほな気をつけなあかんなあ」
って感じで母親が全肯定をしてくれたおかげで、僕は情報に対する裏付けをすることで承認欲求を満たされるようになり、次第に深掘りするのは僕の‘当たり前’になりました。
と、いうわけでクソ長いんですけどここまでが前置きになります
このアウトプットもとい情報のひけらかしは、僕が単身で実家から離れて就職し一人暮らしをすることなってからと言うもの、喫煙所でのウンチクに成り下がりました。
ただ、喫煙所においても同僚や先輩・後輩からのリアクションというのは
「へぇ、よおしってんな」
「マジで?めっちゃ怖いやん」
「それマジすか?僕もちゃんと調べよ」
って感じの全肯定ベースで、僕のアウトプットは相変わらず一方向に受け入れられるだけのものでした。
そろそろ要点を言え、と突っ込まれそうなので、こんな意味のわからんところで要点を伝えます
全肯定人生により、視野を広げるはずが柔軟性を失っていった
別の視点からの意見を、反論と認識してしまう攻撃的なプライドを持つことになった(妻の言い方もある)
知り得た情報をアウトプットせずには居られない人間と化し、最早ひけらかしになっている
こうした現状に気づいて、情報の収集癖というある種のアイデンティティが衰退し始めている
こちらがお品書きとなっております。
で。
すでに記載の通り、僕のアウトプット癖は必然同居する妻に集中します。
ただ、これが凄く奇跡的なマッチングを果たしていて、my wifeは
1つの視点から物事を評価しない
情報の確からしさを、情報源ではなく大多数が評価する信憑さに基づかせる
ただし、自分で情報を調べる能力は皆無
という、僕とは真逆のタイプの人間だったわけです。
結婚して四捨五入すれば10年という年数が経ちましたが、幾星霜もの論争を妻とは繰り広げました。
妻も僕も、互いに真っ向から対立する意見によって、落とし所を模索するどころか相手が何を言っているのかすら理解できない状況に、かなりの回数で陥るわけですがここ数日のソレで何が根本的に異なるのか、が見えてきました。
結論
僕は物事を善悪で区別しているが、妻は悪にも悪の理由があるんじゃね…?という思考をする緑谷出久ばりのヒーローだった。
概要
これマジで目から鱗級の気づきで、我が家における今世紀最大の気づきと言っても過言。
例えば、
猟奇的な文化が根付いた国で、狂気的なのは
許し、染まった国民or根付かせた者或いは文化そのもの日本語の誤用は、正解か不正解か
直近で論じて喧嘩に発展したものの無事着陸した内容として、この2つがパッと思いつく。
今回の事例としては1つ目をご紹介したい。
アステカが現代まで残っていることを前提として、心臓を太陽神に捧げる行為が平然と行われていたとする
是正されるべきは「生贄を許し続けた国民」か「主導した者、或いは形成された文化そのもの」かを問う
僕は前者、妻は後者の意見なんですが、
妻は「そもそも現代において責任者が首を括らされるのだから後者で当然だ」という論調で、
僕は「そもそもなぜ生贄を許し続けたのか、文化と受け入れ平然と過ごす倫理観の欠如が是正されるべきだ」という考え方な訳ですが、
この互いにそう言う考え方を持っているのか、と納得して終着点にたどり着くまでにおよそ4時間はかかったように思います。
なぜなら、そもそもこの議題、アステカは善か悪か、で始まった物語だからです。
もちろん妻はアステカなんてものミリしらスタートなわけなので、僕の知る限りの情報を盤面に広げます。
しかし僕の悪いところである、情報そのものに対して善悪の色をつけるので、盤面に広げた際に、この盤面は黒よな、と締め括るわけです。
オセロで例えますが、妻は盤面に黒であることに対して疑問を持つのではなく、その盤面を裏から見たら白くは見えへんの?と問うてくるわけです。
あるいは、黒く塗られてるだけで中身白ちゃう?と。
ここで邪魔をするのは僕のプライド。
情報源の確からしさ、というのは一般人の僕からすると確かめようがないのでガラスのようなプライドですね。
そいつは、「おうおうおう、うちの商品になにいちゃもん付けてんねん、これ自分で足運んで仕入れてんぞ」と言い始めるわけですよ。
つまり、妻がしたいのは思考実験のようなもので、ifの想像を働かせたいわけです。
ただ、僕はお店に並べた自信作の商品を「これもし腐ってたらどないなんやろな?」って興味本位で聞いてくるやつがおったらどついてまうと思うわけです。
ただ、キーとなるのは自信のつき方。
この自信というのは母親、あるいは職場で育んだ一方的なアウトプットを承認され続けて生まれたバケモノです。
つまりは、この店に並べた自信作の商品が腐ってるかどうかの検査手段を持ち得ていないけど、入手経路や製造方法に自信があるから腐ってない、と主張しているエビデンスに欠けた自信作なんすよ。
これね、ほんとに気づくまで長い年月かかりました。で、気づいた瞬間思いました。
僕がよくやるこの調べるという行為は、本当は意味がないんじゃないのか、って。
ほんとは色さえつけなければいいだけなんですけどね。
で。最後に。
こうしてアイデンティティから意欲が失われ、他を受容する度に1つの個性が失われるのだろう。
強い人間はおそらく更に確度の高い調査をすることで、情報の色を濃くしていくのだろう。
でもそれは他の受容を妨害し、自己の主張を強め、他に受容させる行為ではないか。
僕が今回の件から学んだ教訓は、
「多様性を認めるのは自己喪失の第一歩」
つまり、大切な相手の個性は自分を捨てても寄り添うべきだが、他人のためにそこまでする必要があるのか。それはその相手のバックボーンを知り共感できなければ決して成功しないだろう。
いやお前誰やねん
という、いやほんまにお前誰??な締めして終わります。
マジで自分のことを言語化するための殴り書き記なので、ほんとにお目汚し、ごめんあそばせ、って感じです。失礼しました。それでは。