C'est la vie!!
2018年12月、日本の施設で暮らしていた母が亡くなりました。大正15年生まれで92歳。大往生。そのとき私は父も母も亡くして、孤児の気持ちがわかりました。それは自分のことを真正面から見れる良い機会に60年を超えてやっとなりました。
2006年に父は脳梗塞で倒れ、介護施設に入り、2011年震災の直前に亡くなりました。母は88歳までは、弟と一緒に自宅で暮らしていたのが、弟も仕事で泊り勤務もあり、実家から近い介護施設にお世話になりました、介護施設もその人にぴったりのものを探すのが難しかったようでした。幸にも弟や母のお弟子さんや、従姉妹が熱心んい面倒を見てくれていました。一度体調を崩し、手術をしたり胆嚢を取ってからは、お風呂に付き添ってくださったり、買い物について行ってもらったり、他人の介助を喜んで受けていました。私が結婚してスペインに住んでからは、だいたい毎年ヨーロッパに訪ねてきていました、たいていが母の若いお友達と一緒であったり、最後のヨーロッパ旅行は85歳、孫と呼べる歳の友人の息子が一緒に来てくれました。
母とは仲が良いのねと聞かれるとかなり複雑な思いがずっとありました。とっても大事に育てられたと思います。母が亡くなって発見した母が書いていた私の赤ちゃん日記にも彼女らしい細やかな字で、毎日の細部にわたった観察が書いてありました。ただ一つの彼女と私のずっと最後なくなるまでの問題がありました。幼少期の記憶の一つ母は姑そして父の姉妹達にいじめを受けていました。弟が生まれる前に、私は叔母たち、とおばあちゃんが私が眠る頃に来て、隣の部屋で母が泣いているのを何度か聞いたことがありました。そして弟が産まれた頃には、追い詰められていた母は産後鬱になっていたのだと思いますが。
そしてある秋の日、まだ半袖の時期で、半袖のとっても可愛い母の手作りのワンピースを着て、母はペーズリー模様のような半袖の服を着ていたことをはっきりと覚えています。母は私の首に手をかけて、「お母ちゃんと一緒に死のうな」ポロポロ泣きながら私に言ったのです。その時に自分のとった行動は鮮明に覚えています。「お母ちゃん、死にたくない、生きたいよう、」母がしばらく私を抱きしめてワンワン子供のように泣いていたのを頭を撫でていたと言う記憶があるのです。その後のことはあんまり覚えていません。その後、母が亡くなる時まで、このことを母と話すことは全くありませんでした。秘密のファイルに分担されていました。
この記憶を思い出したのは、多分小学校の中頃でした。私は多分その経験以来、母の言動に注意している子だったと思います。母がおばちゃんやお友達と話していること。。そして父と話している事、すべて敏感に察知していたと思います。その結果子供であるのに夜になると眠れない、と泣くような子供でした。小学校に入っても成績も結構優秀、学級委員にも選ばれる、母は子供には思いっきり可愛い服を着せる人でしたから、モダンなお洋服を母が作ってくれていました。小学校高学年になって、今で言うならパニック障害になっていたのだとわかります。ともかく運動場の広いところに置かれたりすると、もう恐ろしくって倒れてしまう。心臓の鼓動がものすごく早くなり、呼吸ができなくなる。自分でも何が怖いのかがわからないんです。自分の気持ちも感情も説明なんかできませんでした。それを知った母は、そのことでまた神経質になって彼方の病院こちらの病院に診察に連れていかれるわけです。昭和40年の日本では、精神科医に行くことは、気狂いだと言われて、差別されるような時代でした。母にはそれがプレッシャーになっていたと思います。私自身も病気だとお母さんが困るから治らないと。。って思うんですよ。これが小学校高学年の時期でした。だから中学受験をすることで地元から離れることになった事で、なんとなく解放されたような気がして、このパニック症候群から少しマシになることができました。
そして中学になり親友ができ、高校に入る頃にこの4歳の時の記憶がなぜかくっきりと現れ。。それを話すことができました。その親友はその時に、私はそんな経験ないからどうしたらいいのか分からへんけど、あなたは大丈夫やで、私もそばにいてるしな。。っていってくれたのが救いになりました。本当に今もこの親友とは姉妹のように住んでいる場所が離れていてもつながってます。そして亡くなったイギリス人の夫も私のその話を聞いてくれていた人でした。私にとってそのことを信頼して話せた時に、その呪縛のようなものから逃れて行ったような気がします。それでもそのことについて母とは話すことはついぞありませんでした。
2018年、母の肺癌が進行し、呼吸が難しくなってきて、モルヒネを使い出したので、もう危ないかも。。っていうことで日本に戻りました。施設で最後を迎えさせてあげようということで、病院に入れないように施設にもお願いして、お医者様ともその話になっていました。だから私がついた時にはまだ意識のしっかりした母は喜んで抱きしめて泣いていました。最後まで母についてあげるつもりでいましたが、私がそばに居ることは、母の平穏にならないというショックなことがわかりました。もう話が通じなくなっていた母。話すことができなくなっていた母。大丈夫お母さん私がここにいるからゆっくり眠っていいよ。と言っても死ぬのが怖い、地獄に行くと朦朧と繰り返していました。その時にはっと気がつきました、母はあの呪縛から抜けていないのだろうなあと。抱きしめて、大丈夫お母さんはみんなから愛されて許されているから大丈夫。。。っていうしかなかったのです。母と私たち家族のことを知っているマッサージなどの治療をしてくださる人が、僕がお母さんの気持ちを穏やかにしてみます。と訪ねてきてくださったのは亡くなる前日でした。うまくセラピーが行われ、母の心も落ち着いた時、私が母のそばに行き手を母の頭にかざした瞬間。母の落ち着いていた意識が、覚醒されてしまい、彼にお姉さんお母さんのところから少し離れてくださいと言われました。だから私が母の生きているのを見たのはそれが最後でした。その日施設に泊まるのを避け、翌日も弟が先に母のところにその方と行く予定をしていたのですが、到着する直前に母は一人で穏やかに亡くなっていました。
今でも思います。私がこの件を母と話していたのなら、母の呪縛は除かれていたのかもと。留学先のロンドンから戻ってきた時から、私は母の近くで住むべきではないってずっと思っていました。好き勝手なことをしながらも、ずっと母のことを支えてきていました。それは母を生かせた責任があるっていう思いがどこかにありました。でも母のそばにずっといると、楽しいけれど、同時に本当にしんどかった。
木内みどりさんと知り合い、彼女がやり始めた小さなラジオ、安冨歩氏のラジオを聞いた時に、私は60年近く自分でも知らなかったことを知りました。あの4歳の私が受けたあの30分ぐらいの経験は虐待だったのだろうなあって。10代の頃のたまらない自殺願望、駅で電車を待つ時に、必ず線路から離れて待っていました。飛び込んでしまいそうという。いつ死んでもいいんだという思い。安冨歩氏の話を聴きながらポロポロと涙があふれました。私にとっても人生は終盤に来ています、今ここで書き出していこうと思うのは、多分自分に対するセラピーのため。。もう一つが、子供への虐待を止めたい。。これは親が虐待と気が付かずにしていることも含むのですが。だからこの重たい内容を自分で書き足していこうと思ったのです。
不思議なことに、母が生きていた間は、本当に限られた人にしか言えませんでした。今は、楽に人に言えるようになりました。この文章をきっと公開することがあるでしょう。でもたくさんの人に読んでもらえなくってもいいのです。これはきっと今の私が10代の頃の私に向けて書いているのだと思います。本当にたくさんいい事も悪い事も、てんこ盛りになった人生です。もう一度やり直したいとは思いません、一度で十分なことばっかり。でも63歳までなんとか生きてきた、それを支える友達にも恵まれた、たくさん裏切られたりもありましたが、それでも人は生きていけるんだなあという、サンプルみたいなものです。
こんな感じで自分の人生を少しずつ残していこうかなあと。さて。。いつまで続くやら。