イーグルのように高く高く
私の長い間住んだバレンシア地方の南、アリカンテは雨の少ない、茶色の平原がつながってる。初めて遊びに来たオーストラリア人の友人が、アリカンテの平原に飛行機で着陸する時、Thirstyという言葉がここには適してると言った。ラマンチャから地中海に面していくそのあたりは、パサパサ、カサカサという音がするほど、乾き切っている大地。赤い土は粘土を含んでいて、一旦雨が来ると、表面にまず溜まり、じんわりと浸透する。大雨の時は浸透せずに表面を滑り流れて、あちこちに水害を引き起こすことにもなる。靴などはぬるぬるになるぐらいの粘土層。それがスペインの柑橘類、アーティチョーク、そしてオリーブの栽培には向いているということもスペインに来て教わった。
この土地を亡き夫と暮らすことに決めたのは、ひとえに彼のオタク的趣味のモーターグライダーのフライトのためだった。滑走路の横に家が欲しい、そしてできることならその近くにはゴルフ場があるといいなあと。彼が見つけてきたのは、スペインだった。フライトをしたいと思ったら、歩いて五十歩で格納庫があるので徒歩。夫のグライダーはモーターグライダーだから、飛び上がるときにはエンジンとガソリンを使うものの、その後は気流に乗って飛ぶので、春夏秋冬、気の向いたときにほとんど毎日の様にフライトを楽しんでいた。飛ぶためのややこしい手続きも無く、滑走路はプライベートの様なもので、のどかな良き時代だった。グライダーがサイドバイサイドの2人乗りであるため、世界中から人が訪ねてきて1・2週間滞在して、亡き夫がインストラクターとなりグライダーを教えていた。翼が25メートル以上の長さになる、かなり特殊なグライダーだったので、離着陸は彼が全てやっていたが、このドイツ製のグライダーを買う前に、我が家を訪ねてきて、どうかを教えてもらうっていう方たちも多かった。
我が家は地中海から4キロ内陸に入ったところで、夏の暑い時でもお昼を過ぎると、海風が吹いてくる。滑走路の南側にはかなり大きな塩湖がいくつかあり、季節によっては塩湖の水は美しいピンク色になり、フラミンゴがたくさん住んでいた。その上、冬の夕陽は素晴らしい。空が真っ赤になり、日暮れの早い南スペインの夕方に深い紺色の空と反射する夕陽。緑の多い自然とは全く異なるが、私はそこが大好きだった。1990年から夫が亡くなった1998年までその滑走路の横に家があった。その8年間スペインは経済的にも裕福になり、多くのヨーロッパの移住者を受け入れ、別荘地としても栄え、最初行った頃ののんびりした田舎の生活から大きく変化をしていく面白い時期であったと言える。
グライダーというのは普通の飛行機と違って、上昇気流に乗って高く登る。そしてまた次の上昇気流を見つけて高度を保ちながら飛行をする。だから機体は山に近づ木、山肌にぶつかった上昇気流を見つけたり、あとは雲を見ながら飛ぶ。普通の飛行機が、山や崖といったものをできるだけ避けるのに比べると大きな違いがあった。 一度だけ、夫と友人が、夕方、大変なことになったといって戻ってきたことがあった。普通グライダーは音がしないので、鳥たちが不思議な感じでその周りを飛ぶ。なんとなく変な鳥だな、って感じだった。それは初夏で、きっと崖で卵を温めていた、タカがいたのだろう。彼女はきっと侵入者から子供達を守るためにグライダーにぶつかるという事故になった。なんて気の毒なお母さんたかと子供たちという私を尻目に、亡き夫はなんて気の毒な僕のグライダーと言っていたのを思い出す。
彼のグライダーの飛び方は、出発して数時間で戻ってる。大抵は、グライダーの休暇に来た各国からのパイロット達と一緒に毎日数時間飛び回っていた。午前中はゴルフに行き、戻ってきてお昼ご飯を食べたらそのまま、風向きを見て、天気が良ければそのままフライトに。
夫の飛ぶコースはアリカンテの平原、そこからマドリッドに向かった内陸部、ラマンチャ、そして海岸線を南に下り、アルメリア、グラナダの近く。たくさんのスペインでの友人もできて、上空からありとあらゆる場所を眺め、フライトのできないシーズンとかにはその場所を実際に車で尋ねることもよくあった。そのグライダーにはGPSがついていたけれど、1990年代まだまだ、今のように進んだGPSではなかった。そしてそれ以上にまだまだ車に乗せるGPSも一般的な価格では出現していなかった、少なくともスペインでは。
グラナダ近くにある山の中の街とか、亡き夫の連れていってくれるところは、観光名所になっていない秘目られた場所だった。例えばここの山上から、我が家の方に来ている川の源泉があるところとか。ここに洞穴があるとか。あとは、アーモンドの花が咲き渡る谷とか、マラガの近くには、ビニール栽培の大スケールが連なっているところとか。
亡き夫と一緒にグライダーでフランスのカンヌに行ったことがある。友人がカンヌに遊びに来ているから、グライダーで来て南フランスを飛ばないかと。グライダーの問題は、物を詰めるところが少ない。いや。。。もうほとんどない。だから食べるものと必要な物を持つと、あとはスーパーマーケットの袋に自分のものを詰めたらそれでおしまい。その時はカンヌ映画祭で湧き上がる時だった。1週間の間、私はせっせと洗濯を毎日していたような気がする。その後、夫が少し長い旅をする時、そしてそれが陸続きの時には、夫はグライダー私は車で行くようになった。
その時、初夏ではあったがピレネーの山頂にはまだまだ雪が残っていた。普通フライトで全く眠れない私が、グライダーの中では、すぐに眠りに落ちた。上昇気流を見つけるためにクルクル周り、高度によって変わる、to,to,to という不思議な音が眠りを誘う。夫がもう少しでスペインに入るけど、写真を撮るといいと思うよ、と起こしてくれた。小さなコックピットの窓から、当時はまだ携帯ではなかったので、デジタルのカメラでどうしても後ろの方、ピレネー山脈と、グライダーの翼を入れて撮りたかった。とっても小さな窓からカメラを出せばとれるであろうと私は考えた。夫がカメラのストラップをしっかり手に巻いて、と言ったのと同時に私のカメラはシュワーンと外気に吸い込まれて飛んでいってしまった。高度がとっても高かったので、それはそれは強度な掃除機のように私のカメラはどこかに飛んでいってしまった。そしてもちろん休暇の写真は見事に無くなった。きっとピレネーの山のどこかに今も発見されずにあるのかもと思う。
1995年に癌が発覚して手術をし、抗がん剤をの間以外は、飛ぶことを減らすことはなかった。亡くなる3ヶ月前、モルヒネを打つことを受け入れ、それと同時に自分できっちり最後のフライトを決断した。最後のフライトで私は夫と機体を格納庫に納め、ドアを閉めた時の夫の切なそうな表情は忘れられない。このグライダーは夫にとって、何よりも大切な愛おしいものだったと思う。夫のグライダーの扱いは、優しく細やかに大切に、美しく磨き上げ、メインテナンスをして、語らっていたと思う。このグライダーは夫の身体の一部だった。英語で船のことを She と呼ぶけれど、多分このグライダーは夫の中では彼女だった。夫が私に話さないような悩みや多くの喜びや発見を一緒にシェアしていたのだから。
1998年の2月に彼が亡くなった後、そのグライダーで夫の散骨をして、その後すぐに手放すことに決めていた。たまたま、イギリスで欲しいと言ってくれる人が見つかったため、パイロットの友人ががイギリスまでフライトをして届けてれることになった。ところが、機体メインテナンスのややこしい通達が来たために、それが終わるまで出発できないことがわかった。第一の関門。
その後イギリスから友人が再度来て、必要なメインテナンスをして、イギリスに向かう前に、お世話になったスペイン人の老パイロットを連れて上空を少し飛んで、降りてくるはずが。。。機体は見えるが高度を落とさない。無線がつながり、車輪がでないとの報告。彼は何度か挑戦して、手動で切り替えものすごい苦労をして車輪を出しての着陸となり、パイロットの友人とフライトエンジニアの友人、が再度全ての点検をすることになった。2日後、大丈夫。。と点検済み。私がイギリスに向かう前の最後のフライトに同乗した。
そのフライトは素晴らしいものだった、スペインの赤茶色の大地と、真っ青な空、手頃な白い雲、そして私たちのグライダーのそばにはイーグルが一緒に待っていた。同じ上昇気流を使って。この辺りにはいつもイーグルがたくさん生息していた。そしていつもグライダーと一緒に飛んでいた。まるでさようならと言ってくれているようだった。もっと乗っていたかったが、友人はこれからイギリスまで向かうのだから、できるだけ遠くまで行かせてあげたいので、もう着陸して私を下ろして出発してと友人に伝えた。そして、オーケーと降りようとした時、彼が車輪が出ないと言った。えーっつまたあ、そんなバカな、あれほど点検したのに。。と高度2500メートルあたりでの会話。友人と私は思わず言った、グライダーイギリスに連れて行かれたくないんだって。手動の車輪を出すこともできず、グライダーパイロットの彼は私に聞いた。僕も今までこんな条件でランでイングしたことないんだけれど、って。どうしようかなと。
怖くはなかった、決断はできた。亡き夫は、私をあちらの世界に連れて行くことはないだろうと思っていた。そして友人も彼にとっては大切な友人だから。腹はくくった、マイク大丈夫だよ、ベリーランディングしよう。壊れたら修理するから。下で待っている友人たちとエンジニアに、無線で連絡、車輪なしのランディングになると。マイクは信頼できる優秀なパイロットで、エンジニアでもある、そしてインスペクターでもある。最低限のダメージで無事に私を下界におろしてくれた。
どのようにイギリスに機体を運ぶか、ダメージを受けたのは機体の表面上で、なんら内部にも問題はなかった。ドイツのグライダーの工場のエンジニアと話、効率はとっても悪いが、車輪を内部に収めずにずっと出したままでイギリスまで飛ぶという方法を選び、翌日3度目のスペインからの出発を決めた。友人たちは、パイロット、エンジニアという超理論的な男たちで、私のどちらかと言えば夢のようなお話は信じないながらも、ここまで来たら君の話信じる。このグライダーには亡き夫の魂がはまり込んでると。
翌日のフライトはパイロットのマイクが乗り込んだ。イギリスに向かうための書類も作った。私たちはグライダーに向かってそれぞれが心で話した、もっともっと空を飛びたいでしょう、スペインではあなたはもう飛べないの。飛ばせてくれるパイロットはもういないから。だからイギリスに行けばもっとたくさん飛べるからねと。
そしてグライダーは空に飛び上がった、不思議なことに今日は2羽のイーグルがグライダーの近くを飛んでいた。高く高く舞い上がった、タイヤが出ているグライダーはそれほど優雅とは言い難かったが。無事にスペインの大地を離れた。
2日後、無事にマイクはドーバー海峡を超えて、機体をイギリスに届けてくれた。その彼が、到着してからくれた電話は、グライダーはとってもイギリスに来たことを喜び、快適にフライトしているよって。修理を終え、新しいパイロットのもとで、今もイギリスの空を飛んでいるはずだ。
そのグライダーもけっこうなお年である。