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時代の子供達

私たちはどの時代に何処に、どの親のもとで、生まれてくるかの選択はできない。親が話す戦争体験を聞くと、戦争のない間にこの世界に産まれていて良かったな、とこれまでそう思って過ごしてきた。コロナが流行り出したとき、ああこれが新しい形の戦争なんだと、しかしまさかロシアによる侵略というのは予想もしていなかった。

亡くなったイギリス人の夫は、戦時中に6歳か7歳ぐらいだった。夫の生まれ育ったイギリスのケント州、海を越えたらあちらはオランダ。戦時中はロンドンに空爆をするドイツ軍の爆撃機の通過地点であった。だからそのあたりにもテストの爆弾が落ちていたらしい。外を駆けずり回っている野生児の夫とその友人達は道端に転んでいた不発弾を見つけ、子供達の隠れ基地に持っていこうと掘り返し転がしているところを、大工の父親に見つかりものすごくぶたれたといっていた。不発弾が爆発せずに父に見つかったのは本当に幸いだった。夫は長男で、家の手伝いがあるので両親とともにケントで戦時中を過ごした。そして姉と2人の妹たちは、疎開のためにイギリスの北部チェシャに預けられていた。どこの国も戦争となると、男は労働力とされている。夫は成人するとイギリス空軍に入りパイロットととなり、後にエアラインのパイロットになった。夫が空軍にいた間ソビエトとアメリカは冷戦状態、ドイツは東と西に分かれていた。でも彼は戦場にはいかずにすんだ。フォークランド紛争が始まった頃にはすでにエアラインでの仕事をしていた。結婚式で夫は、ドイツのグライダーに乗り、日本人を妻にするという設定は、父が今頃墓の中でびっくりしているに違いないと言ったことはとっても印象的であった。その夫は1998年に亡くなったので、September 11thは知らずに彼方に行った。戦争、世界の動きを、私たちはよく討論した、そしてそれが私の学ぶ機会となった。だがこの30年間の世界の事情で私の意見も大きく変化している。将来あちらの世界に行ったら彼が亡くなってからの世の中についてもう一度たくさん話したいと思ってる。これは私の彼方の世界に行くまでの宿題かもしれない。

もう一人私の人生にグローバルな視点で考える機会を与えてくれたのは、ノルウエー人の友人である。亡き夫の知り合いで、偶然にスペインでご近所さんになっていたと分かったのは、夫が亡くなった後。そして知り合ってあまり時間もたたない間に、脳梗塞を起こし私が発見して命を助けることになった。夫を亡くした後手持ち無沙汰、というか、どのように人生を立て直すかをわからなく、ただ生きていた私にはこれが運命なのだろうと、この友人と一緒に暮らすことを決めた。 多くの友人には私の行動は狂気の奇行のように映っていたのは確か。でも彼の存在は私を生かしてくれた、そして私は彼を生かした。とっても大変なリハビリ、介護経験だったが私を人として成長させてくれた。

大変IQが高く、ある分野では高名な学者であった彼が、脳梗塞によって、体半分の障害と、失語症を発生した。母国語がノルウェー語、第二外国語はドイツ語、そして英語、フランス語、スペイン語、もちろんスエーデン語、デンマーク語も話した人が、言語をほとんど失った。私がノルウエー語を全く解さないため、私たちの共通言語は英語になった。

だから彼のおいたちを知るまでにはかなり長い期間がかかった。戦争を知らない私にとって、彼の話は父母のものとはまた異なり、衝撃であったし悲しい戦争の実体験だった。ノルウエーは戦争中にナチス、ドイツの侵略にあっている。地政学上でドイツを勝利に持っていくには必要であった。ノルウエーに面した北海は海流の関係で凍てつかない、バルト海は凍てつくので、冬の間の航路が難しい。だからヒットラーはノルウエーを抑え込み、イギリスに攻め込む次のステップとしての計画にあったこと。そして北欧の青い目とブロンドの人種は、ナチスにとっては優秀な民族に分類されていて、ノルウエー女性がナチスの将校との間に優秀とされる子供を産んでいたという歴史もある。そしてその子供たちは、戦後、父も知らず母親からも捨てられて、ノルウエーの孤児院で暮らすという悲劇があった。こういう歴史の教科書には描かれていないその時代を教えてもらった。

青年期にあった彼には、この戦争の傷はとっても深かった。彼の父は、弁護士であり、北海の島の警察署長であった。そして第二次世界大戦で、ドイツの侵略を受けたあとは、警察などは全てがナチス体制にさせられてしまうのである。そしてこのことが、友人と父親の間に大きな壁を作っていた。友人はナチス体制を許せなかったし、でも父親はそれに従わないと生きてはいけないと判断した。そしてその後自分のガールフレンドが、ドイツの軍隊に殺されてしまうという悲劇があった。その話の全容を私は聞くことが出来なかった。戦後、彼の父はナチスに協力した戦犯となり、刑務所でのお勤めを果たした。その後、彼の父親が、弁護士の仕事に戻ることもなく、質素な隠居生活となり父親自身の心の傷も大きかったそうだ。スペインの私たちが住んでいたあたりはドイツ人の隣人が多かった。私がハラハラするのは彼が見せる私の友人たちへの嫌悪感だった。脳梗塞を起こす前は、インターナショナルな機関で働き世界中を飛び回っていた人、だから人種差別も全くなかった。現に自分の娘は、国際結婚をしているので、モスレムもカラードもいるのだから。でも病の後は、感情のコントロールが時々効かなくなったようだった。そんな土地で彼は人生を終了することを選んだ。近所に住む忍耐力のある気の良いドイツ人の友人たちに助けられて日本人の友人に看取られ彼はスペインで亡くなった。彼の遺骨は地中海に撒かれた。

現在の私のスイス人の夫のこともなかなか刺激的な話だ。スイスは中立国であったので当然彼は戦争経験はない。でもスイスは徴兵制が義務であるから、50歳になるまで、義務としての徴兵で訓練をした。50歳になったときに、常に自分が保管しなければいけない銃や弾丸を軍に返した。兵役義務を終了しても自分で保管する選択の自由がある。どうしてもスイスの軍隊に入るのが嫌だという若者、これにもちゃんと逃げ道はある。軍隊に時間を費やさない代わりに、他の公共の仕事に行く義務がある、それも嫌だという場合は、海外に移民するしかないのかも。なおその兵役の義務を抜けた人は、公共に関わる仕事には入れない。例えば、市役所で働いたり、あとは建築家であっても、国からの仕事を請け負えないとか、かなりのハンディを追わなければならない。それがスイスのやり方のようだ。
夫はアルプスの山で育っているので、酪農をする質素な暮らしだったらしい。アルプスの少女ハイジのアニメを見たら、素敵!になるかもしれないが、昔のスイスの生活は厳しかった。寒い国は今のように物販の流通がよくない、生きるのがとっても厳しい。夫の一族も平地で冬場は暮らし、動物と共に山の上に春と夏は上がり、小屋のような山の家で動物たちと一緒の生活をする。子供たちも1500メートル近くを両親に手を引かれ、動物を追い立てながら、山の家まで自分たちの夏場の食べ物を抱えて登る。山の上、牧草があるところでチーズを作りながら、とってもベーシックな生活をする。野草をとって、それを食べる、あとは干し肉や、ソーセージ、そしてポレンタというとうもろこしの粉で作った料理がメインとなったらしい。平地ではアプリコットやリンゴ、イチゴ、なし、などの果物ができる。それも収穫したときにはジャムやコンポートにして残してあるのでそれを食べる。
山の上には水道もないから川からの水、電気がないから薪で生活。その薪も2000メートル以上になると森が終わり、木がないので、下から運んでくる。トイレはドライトイレといういわゆるポットン式で、木屑を上に被せて使う。そして冬には道も閉ざされて、誰も立ち入ることができない。今でもこの山の上方は初雪が始まると閉鎖される、そして春になると雪崩で倒れた木や石を道から取り除き登れるように準備する、概ね4月末ぐらいになる。  
夏山にいる6ヶ月近くは、子供も重要な働き手であるから、当然学校はない。その代わりに冬場の雪で仕事がない時期、子供たちは教会に預けられ、修道士や牧師さんから宗教と勉強を教わる。夫の時代はまだそれが当たり前だった。ところが
10歳年齢の違う弟は、全くそんな教育をされていないから。やはりどの時期に生まれるかで環境は随分変わるものなのだ。6歳の子供が、親から離れて生活すること、父親は厳格にそれを夫にさせたが、母親はそれが辛くずっと陰で泣いていたと夫は言う。夫と他の子供は豚を追ったり、牛の餌を与えたり、何かを配達したり、という仕事をする。私が大好きなベリー類を夫は一つ二つ食べて残りは私が食べれる。その理由は、その幼い頃に大人たちが訪ねてくるときに、山道で積んできた、野苺、クランベリー、ラズベリー、コケモモがお土産だったらしい、それがたくさんの荷物を運んで歩いてくる中でポケットに入れて持ってこられるので、子供の手に渡ったときには潰れてぐちゃぐちゃだったらしい。だからベリーはもうたくさんだと。わからなくもない。

スイスのドイツ語圏で夫は生まれているので、母国語はドイツ語である。独特なスイスドイツ語を話す地域。でも彼の両親は語学は将来大事になるからと、10歳になる頃、フランス語圏の教会に冬場預けられていた。朝の5時に起きて、子供達は教会のベルを鳴らしミサの手助けをして、そしてそれからお勉強をする。高度2000メートルにある小さな村は、雪になると閉ざされてしまうようなところである。ある時、子供であった夫は具合が悪くなりお腹が痛く熱が出て寝込んでいた。神父さん達は風邪を拗らしたのだと世話をしてくれているのだけれど、一向に熱が下がらない。そんな日、彼の父親が偶然に息子を訪ねてきたらしい。そして息子の顔を見るなりおかしいと感じて、吹雪の中、そりを借りて、そこに息子を乗せて平地まで引っ張って降りて、そのまま病院に直行した。夫は盲腸を患っていて、それが化膿して破裂してしまっていた。その後夫は3ヶ月病院に入院することになったらしい。これまた多く語らないが、大変痛かったし苦しかったと夫はいう。父親がもう1日訪ねてくるのが遅かったら、そして吹雪で降れなくなっていたら、夫は今ここには居なかった。今ならたかが盲腸。。。いやされど盲腸。私も盲腸をしているがこれが平安や鎌倉の世で麻酔もなく手術もなく、呪術に頼っていたなら、私も夫同様に若くして亡くなっていたのは確かだ。

本から学ぶは私にはとても大事、でも人間対人間で学ぶことの大切さは本に書かれていない魂を揺さぶる小さな出来事が多すぎる。

いつか未来にこの文章に偶然ぶち当たった誰かが、へえーこんなことあるのかって知ってくれるといいなあという意味で書き残そう。大海に投げ込まれた瓶に詰められたメッセージのように。