自己紹介(前編)
今更ながら、改めて自分の人生振り返る意味でも、私の自己紹介を簡単にしていきたいと思います。
追記:書き始めたら膨大な量となりました。お時間ある時にごゆっくりお楽しみください。
出身:京都 (生まれは長岡京市、育ちは京都市)
血液型:O型
学生時代の部活:陸上競技部
趣味:読書 旅行 ドライブ
① 幼少期
両親は共働きで、保育園のお迎えはいつも最後(しかも校門は閉められて門の前で待つタイプ)。おばあちゃんが迎えに来てくれることもあり、生粋のおばあちゃんっ子であった。生まれた時から周りよりも一回り大きく、年長さんの時に多くの人が習得する「逆上がり」は最後まで補助がないとできなかった。兄弟は姉が一人、親戚も従兄弟はみんな年上なので、昔から面倒はみられる方が得意なタイプ(むしろ大人の機嫌を伺うタイプ?)。
当時の将来の夢は、電車の運転手であった。
① 小学校時代
小学校入学と同時に引っ越したため、友達は一人もいない中でのスタート。引っ込み思案のため、前に出ることはあまりなかったが、クラスの中心メンバーの中にはいるタイプ。卒業文集のランキングでは、「将来、よしもとに入りそうな人ランキング」で1位に輝くも、「有名になりそうな人ランキング」ではランク外。当時、スーパーファミコンやNintendo64、PS2などのテレビゲームが発売され、ゲームを持つ子が人気を奪っていく中、テレビゲームは何一つ買い与えてもらえなかった。しかし、ゲームボーイは買ってもらえ、ポケモン(グリーン)をリアルタイムでプレイしていた。
3年生の頃から空手を習い始める。しかし、身体が硬く、空手自体よりも準備運動の柔軟体操が苦痛であった。結果的に5年生まで続け黒帯を取得するも、師範の怖さに耐え切れず、学校のランニングクラブが忙しいという理由で空手を辞める。動機不純で始めたランニングクラブであったが、結果的に6年生の最後の駅伝大会でメンバーに入り、その後の陸上競技部人生を歩むきっかけとなった。
当時の将来の夢は、コンビニの店長であった。
② 中学校時代
中学校は、当時地域の中で一番荒れていることで評判の中学校であった。実際、在校中にはいろんな事件があった。「顧問が不良と練習中に掴み合い事件」「不良が教室に乗り込んできて担任殴られる事件」などなど。年に数回は警察が来ていたような気がする。そんな環境だった為か、「如何に悪い人と上手く付き合うか」というスキルが身についた気がする。中学3年の時には学級委員長や合唱コンの指揮者を務めた。当時の担任は、その年に異動してきた年配の女性の先生で、クラスの不良(男子女子共に)とは全く馬が合わなかった。そんな中、不良たちにも先生にも良い顔をしながらクラスのリーダーを務めることは容易ではなかったが、自分だからこそ果たせたポジションだったと、今でも思う。
以上のことから、スクールカーストとしてはてっぺんにとまではいかなくも、セカンドポジションくらいに位置していたのではないかと自負している。
勉強面に関しても、秀才とまではいかないが、オール4前後をうろうろするくらいの成績はおさめていた。中学時代に勉強で困った覚えはほとんどない。そんな中、美術に関してはどう頑張っても「2」しか取れなかった。今でいう画伯だ。
部活動は陸上競技部に所属していた。入部当初は何も分からないまま練習に付いてくのに必死であった。近畿大会優勝や、全中出場する先輩がいる中、尊敬でしかなかった。中学3年生になると、気付けば自分も表彰台に上がるレベルにまでなっていた。リレーでは京都1を狙えるチームであったが、結果的に京都府の決勝レベルでみんな終わってしまった。当時はまさに、「努力は人を裏切らない」というのを体感していた。
高校でも陸上がしたいと、進学先に選んだ高校は偏差値70オーバーの進学校であった。当時の担任には「無理です」とキッパリと言われたが、それが悔しくて部活を引退すると猛勉強をした。結果的には志望校に行くことにはなったが、身の丈に合っていたかと聞かれれば、今でも疑問である。
当時は、普及し始めた携帯電話を持ち、異性と付き合うことがステータスとされていた。携帯など買ってもらえるはずもなかったが、この時初恋というものを経験する。同じクラスで同じ陸上部であった女の子である。良い感じにはなっていたものの、勉強だの部活動だのを言い訳として、当時の自分は一歩を踏み出す勇気がなかったのは今でも後悔している。
当時の将来の夢は、特になかった。
後編へ続く
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